犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

無罪の推定と有罪の推定

2007-08-22 18:56:30 | 国家・政治・刑罰
人間とは不完全なものであり、被告人が本当に罪を犯したかどうかはわからない。これはその通りである。しかし、ここで「無罪の推定という理論は絶対に正しい」と言ってしまえば、人間は同じ過ちを犯すことになる。人間とは不完全なものであり、完璧な理論など作れない。そうだとすれば、「無罪の推定という理論は正しい」と言うこともできないはずである。人間は今のところ、無罪の推定の理論と有罪の推定の理論を比べて、より好ましいものとして、無罪の推定のほうを仮説的に選択しているとしか言えない。

国民やマスコミにおいては、有罪の推定の理論が常識化しているのであれば、それは単にその通りである。「誤判の恐れがあるため、あえて国民の常識をひっくり返して推定無罪の理論を採用している」と考えたところで、特に何かが変わるわけでもない。国民の人権意識は高いも低いもなく、ただそれだけのことである。人間とは不完全なものであり、誤判を起こしやすいのであれば、無罪の推定の理論のほうがよりましな制度である。しかしながら、どこまで行っても法政策は法政策であって、時代や場所によって異なる相対的な制度に過ぎない。このことを見落とすと、人権論はあっという間に一神教の原理主義に陥る。

「被告人が本当に罪を犯したかどうかはわからない」というレベルのカテゴリーを文字通りに実行すれば、人間はまともに生活ができない。自分が実際に見ていないことはすべてわからなくなり、最後には「我思う、ゆえに我あり」しか残らなくなってしまう。推定無罪の理論を採用しつつ、普通に社会生活が送れているならば、それは日常生活と刑事裁判とで「わからない」のレベルを変えていることである。これは1つの政治的な態度である。刑務所の看守の暴行事件などでは、人権論が一気に有罪の推定の理論に変わるのもこの例である。

この世の現象には無数の要素が絡み合っており、わからないと言えばすべてがわからない。ここで刑法は、証拠によって特定の要素だけをピックアップし、結果発生と実行行為との間の因果関係としてその現象を切り取り、人為的な再構成を行う。このような枠組みは、無限の因果応報の中における局所的因果律と称される。わからないものについて、とりあえずわかったことにして話を進めるのが法律の役割である。ここで「被告人が本当に罪を犯したかどうかはわからない」と言うことは、純論理的な意味であれば、それは法律の枠組み自体の否定につながる。この意味で、推定無罪の理論における「わからない」とは、「わかっていることについて、あえてわからないことにする」という政治的な選択である。限りなく怪しい被告人に灰色無罪の判決が出ても、単なる現行法の選択以上のものではない。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。