犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

玄侑宗久著 『禅的生活』

2007-08-09 13:21:07 | 読書感想文
仏教の中でも禅宗は、哲学に非常に近いものがある。宗教における「悟り」という状態は、何らかの神秘体験と勘違いされることが多く、事実そのような体験を声高に語る新興宗教の教祖も多い。これに対して、禅僧である玄侑氏は、悟りの状態を何と脳科学から説明してしまう。その上で、それでも人間の言語表現には限界があることに自信を持つべきだと述べる(p.108)。さらには、悟りによって、現実を「方便」と見る視点を獲得できるとして、最後は常識的なところに戻ってくる(p.88)。

法律の理屈は、すべて特定の価値判断を正当化するためにある。法律構成と価値判断の調和、法的安定性と具体的妥当性の均衡、これが法律学の真髄である。敏腕弁護士とは、黒を白と言いくるめ、白を黒と言いくるめるプロである。裁判の勝敗は、理屈の巧拙によって決まる。それでは、この具体的妥当性やら価値判断とは何なのか。玄侑氏に言わせれば、これは煩悩にすぎない(p.118)。価値判断などというものが単なる「方便」であることを忘れた人間は、自分の価値観を絶対視して、思うようにならない事態に直面すると鬼のように怒ることになる(p.215)。裁判の荒れる法廷などは、この典型である。

法律学の命は言葉である。言葉の一言一句を解釈する。行政事件訴訟法36条に至っては、1ヶ所の「、(読点)」の場所をめぐって大騒ぎしている。禅は、このように言葉や文字によって人間が迷う様子をとことん馬鹿にする(p.51)。人間は言語によって対象を分け、それによって「分かろう」とする。その中でも、法治国家における人間は、大ざっぱな日常言語では飽き足らず、専門用語によって細かく分けなければ気が済まない(p.176)。その結果として、人間は自由を失う。

自由とは、本来はすべての現象を「自らに由る」、すなわち自らに由来すると考えることである。ところが、近代国家における人間は、この本来の意味を忘れた。かくして、自由とは利己主義のことなのか、自由と自己中心とはどのように違うのか、例によって論争を始めることになる。憲法において「自由」という言葉が定められるや否や、人間は自由とは何かを客観的に論じるようになる。憲法における「自由」の真の意味を探り、真の自由とは何かを論じ合う法律学は、それ自体相当に不自由な学問である。

人間とは何か、自分とは何か、これは生きていることによって示されるしかない。すなわち、死ぬまで問い続けなければならない(p.177)。この意味では、憲法や法律の人権規定など、気休めにしかならない。この点を捉えてしまえば、もはや「疑う」哲学と「信じる」宗教との間に差はない。疑うことは信じることであり、信じることは疑うことである。これに対して、唯物論的な無神論がいつの間にか人格神を信じている一神教と似たようなものになってしまうことは、よくある現象である。玄侑氏から見れば、法律家が「憲法の伝道師」と名乗って布教活動のようなものをする行為は、やはり苦笑されるものでしかない。