犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小西聖子編著 『犯罪被害者遺族』 第4章

2007-08-27 18:20:17 | 読書感想文
第4章 飲酒運転は犯罪である 大久保恵美子さんの手記

「私は今でも息子が死んだことを認めたくない」。「あの子は亡くなったわけじゃない。遠くに行ってしばらく会えないだけ」。大久保さんはこのように思いつつも、担当検事に手紙を書いて頼み込み、裁判を傍聴し、資料を集めてマスコミに配るといった相反する行動を強いられている。近代法治国家の常識からすれば、死を受け入れていることが正常であり、死を認めていないことは非合理だと捉えられるしかない。そうでなければ、遺言や相続の法制度が成り立たず、社会が回らなくなるからである。しかし、哲学的に見れば、事態は全く逆である。近代刑事裁判は、人間の生死を条文の中に閉じ込めているだけであり、それ以上のことは手に負えないだけの話である。

大久保さんは、裁判の日程をあらかじめ教えてほしいと何度も担当検事に頼んだが、法律上教える義務はないとのことで、1回も教えてもらえなかった。現在はこのような被害者の声の集積によって、法律もかなり改善されてきたようである。しかしながら、問題の根本は、このように条文をその都度変えることによって解決できるようなものではない。人間の死という最大の問題に直面しつつ、法律がある・法律がないというレベルで問題を片付けてしまおうとする、この問題の本質は少しも動いていない。法治国家は、この構造を積極的に推進し、維持しようとする。犯罪被害者遺族の問題は法治国家の理論で捉えようとすれば必ず迷走するのも当然のことである。

人間にとって、「死」は絶対にわからない。しかし、「罪」ならばわかる。そこで、近代刑事裁判は、「死」を「罪」に変換した。死ぬとはどのようなことか。それは、刑法199条や205条、208条の2や211条の構成要件に該当することである。これは、あくまでもとりあえずの策である。「わかったことにしておく」だけである。しかし、高度に発達した法治国家は、これを「わかった」と思い込んでしまった。ここにおいて、すべては情報化される。人間の生死も情報化され、法廷における日常茶飯事の出来事となる。「死」という概念は、あくまでも「罪」という概念を説明するための要素にすぎなくなった。「死ぬこと」は、刑法199条においては「殺すこと」となり、刑法211条においては「死なせること」となる。主語は死者から犯人へと替わり、死者は文法的にも不在となった。これが、犯罪被害者遺族が刑事裁判に感じるもの足りなさの源泉である。

大久保さんも次の章に登場する松田さんも、被害者保護の運動のリーダーとなっている。小西氏は、それは亡くなった人に対する義務であり、使命であると感じているのだと述べている。全くその通りである。哲学的に考えれば、むしろそれ以外にはあり得ない。個に徹するほど普遍に通じるという逆説がここにもある。被害者が事件の場面を思い出して辛くなると言えば、1日でも早く事件のことを忘れることが立ち直りであるといった軽薄な助言が登場することになるが、このような鈍感な助言には返答するだけ無駄である。加害者がこの世で何事もなく生活している限り、生死の弁証法は破られ続ける。本来であれば、加害者の側が自分の人生を投げ打って被害者保護の運動のリーダーとして参加しなければならない道理である。加害者が「一生かけて償います」という覚悟ならば、人間としてそれ以外の生き方はできないはずである。これができないならば、「一生かけて償います」という裁判長の前での決意は嘘である。

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