犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

西尾幹二著 『個人主義とは何か』

2007-08-29 16:34:34 | 読書感想文
西尾氏は保守系論客として有名であり、「新しい歴史教科書をつくる会」の設立人としても有名になってしまった。しかしながら、同氏の思想はニーチェ研究のバックボーンに深く裏付けられており、この面を見なければ、単なる政治論としてしか捉えられなくなる。ヘーゲルという大巨人の思想は、ニーチェとマルクスという巨人によって、全く別の角度から批判され尽くした。保守と革新の違いは、言うなればニーチェの問題意識に共感するか、マルクスの問題意識に共感するかの違いである。これは、パラダイム相互間の巧拙の問題であるから、最初から話が噛み合うわけがない。

ニーチェの問題意識からは、社会の発展、理想の社会の実現といった目標は、ただのニヒリズムにすぎない。正しい社会の建設に燃えるためには、現実の社会が不正義であってもらわなければ困るからである。かくして、反権力の思想は、それ自体を生きがいにする人々によって自己目的化され、単なるアナーキズムに堕する。近代刑法には「1人の冤罪を生まないためには999人の凶悪犯人を釈放しなければならない」というスローガンがあるが、これを実際に行えば恐ろしいことになる。その先まで責任を持ってシミュレートしておかなければ、反権力の思想は、アナーキズムの危険性を払拭できない。

ニーチェの問題意識からは、民主主義の政治体制も、人間相互のエゴイズムを調和させるための次善の策でしかない。民主主義は、専制独裁や無政府状態に比べればましであることは明らかであるが、そうであれば、そのレベルで満足しておけば済む話である。多くの人間が民主主義の正当性を声高に叫ばずにはいられないのは、その理論の正しさの故ではなく、多くの人間は次善の策に従って生きるという心理状態に耐えられないことに基づく。これも近代社会のニヒリズムである。20世紀の人々は、21世紀には理想的な未来が待っていると信じていたのに、この閉塞感はいったい何なのか。ニーチェは19世紀において、この程度のことはとっくに見抜いていた。もちろん、23世紀も24世紀も見抜いているのが哲学である。

近代ヨーロッパにおける「個人」の観念は、解放、自由、進歩という明るいイメージで語られ続けてきた。これを推進しようとして人権活動を進める革新派も、これに反対して道徳や規律の重要性を説く保守派も、同じ土俵の上で戦っていることには変わりがない。ニーチェに造詣の深い西尾氏は、このような意味での保守系論客ではない。「個人」とは孤独の別名であり、「自由」とはいつでも自殺し得る可能性のことであり、「進歩」とは底なし井戸を埋める作業であることを知り抜いているからである。それにもかかわらず、何でも政治的にしか物が見られない現代社会においては、保守系論客となれば、「戦前に戻ろうとしている」とのレッテルを貼られてしまう。犯罪被害者保護活動が右寄りの活動だと誤解されてしまうのと似ているところがある。