犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

柳田邦男著 『言葉の力、生きる力』 第6章「2.5人称の視点」より   続き

2007-08-21 11:21:09 | 読書感想文
現代社会の法律実務家や法学者は忙しくて、なかなか被害者の存在にまで目が配れない。弁護士は令状の誤字脱字を指摘して異議申し立てを繰り返し、最高裁まで争うのが仕事である。裁判所書記官は証拠等関係カードの表題部分における正確な記載をするため、似たような無数の証拠物件を区別して分類するのに忙しい。刑法学者も、刑法181条の条文に欠陥があるせいで、強盗強姦殺人犯はどの条文で処罰されるかを研究するのに忙しい。

このような話は一見して重箱の隅であり、人間の罪と罰にとっては本質的な話ではない。誰しも最初はわかっている。しかし、現代の高度な専門化社会における人間は、仕事に深くはまって行くうちに、他の視点が取れなくなってくる。専門化社会が専門家を生み、専門家が専門家を育て、その専門家が専門化社会を維持する。この構造は強固である。

「2.5人称の視点」という補助線は、なぜ法律家はこれまで犯罪被害者を苦しめても何とも思わなかったのか、その新たな視角を提供する。検察官や弁護士といった法律家を、医師や官僚、銀行マンなどと一直線に並べてみる視点は、法律学の中に浸かっていては考えもつかない。


p.234より 抜粋

20世紀後半は、科学や技術の研究ばかりでなく、金融、産業、医療、行政などあらゆる分野で物凄い勢いで専門化が進んだ。社会の重要な役割を担う職業人は、それぞれの分野における専門家でもある。専門家は専門的な知識と技術と経験を駆使することによって、自らの存在理由を確認し、生き甲斐や誇りに結びつけている。そこには、専門の枠組みと論理で仕事を処理していれば、社会的に公正であり、社会に貢献することになる納得あるいは暗黙の了解がある。

ところが、知識や技術の専門家の進行は、専門家の考え方やものの見方を、狭い観念的な世界に閉じ込め、生身の人間や現実の社会の動向を直視して自らの視点の是非を検証しようとする姿勢を失わせがちである。新薬の臨床試験のデータ収集にばかり熱心になる医師や、治療法のない末期がん患者には関心を向けなくなる医師、公害問題が起きても被害者救済より産業擁護を優先した官僚、バブル期に後先を考えずに融資や投資をした銀行マン、犯罪被害者の救済に全く目を向けなかった警察官・検察官・弁護士たち、等々の実態を見ると、専門化社会のブラックホールにはまりこんだ専門家たちのものを見る目は、乾き切ってひび割れていると言うべきだろう。そういう専門家たちの思考様式を、私は乾いた「3人称の視点」と呼んでいる。

私がかねて提案しているのは、「2.5人称の視点」を持つようにすることだ。専門家が被害者や病人や弱者に対し、その家族の身になって心を寄り添わせるなら、何をなすべきかについて見えてくるものがあるはずだ。しかし、完全に2人称の立場になってしまったのでは、冷静で客観的・合理的な判断をできなくなるおそれがある。そこで、2人称の立場に寄り添いつつも、専門家としての客観的な視点も失わないように努める。それが、潤いのある「2.5人称の視点」なのだ。