犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

居場所がない

2007-08-10 15:39:54 | 国家・政治・刑罰
「居場所」は、現代社会の1つのキーワードである。今の子ども達には、学校にも家庭にも居場所がない。子どもの居場所を作るよう大人達は努力すべきであると言っても、その大人も居場所がなくて四苦八苦している。会社にも地域社会にも居場所がない。社会に馴染めずに自分探しの旅に出て自分の居場所を探しても、そんな居場所はなかなか見つからない。居場所のない不安がさらなる不安を呼び、死の不安を老後の不安と言い換えてごまかす。居場所を失った人間は、必死で自分の居場所を探して苦しむ。

人間はなぜ、「居場所がない」と感じ、その上で不安になるのか。それは、そのように「居場所がない」と感じる場所が存在するからである。Aという学校に居場所がないと言うとき、その人間はAという学校にいる。Bという会社に居場所がないと言うとき、その人間はBという会社にいる。人間は必然的にその場所に居ることによって、その場所に居なければならないと感じるようになる。人間がどうしても逃れられない場所とはこの宇宙であり、宇宙の外には出られない。ここから逃れようとすれば、その方法は死しかない。かくして死を恐れる人間は、この宇宙という場所から逃れられないことによって、宇宙の中の一点である現在の場所から逃れたいと思う誘惑を打ち消さなければならなくなる。

場所に居ることによって「居場所がない」と感じる、この程度のことは古今東西の哲学者がすでに考えている。その中でも、特に「場所」をキーワードにしたのが西田幾多郎であった。西田は、一般には主語的統一と考えられている「自己」について、それは述語的統一であると述べ、そこが「場所」であると述べる。これはヘーゲルの弁証法的世界の具体化であり、認識の根本は主客二元論ではなく、まずは自己の中に自己を映すことに求められる。自己は自己を否定するところにおいて真の自己である、この弁証法の基本は、西田においては「場所的論理」と呼ばれて突き詰められている。

西田幾多郎は難解であるが、無理やり易しく解釈することによって現代社会の問題に役立てることはできる。少なくとも、文献学者によって研究されるだけではもったいない。西田は弁証法に基づいて3つの場所について論じたが、これが実に的を射ている。すなわち、物の世界としての「有の場所」、自己=意識の世界としての「相対無の場所」、そして叡智的自己の世界としての「絶対無の場所」である。人間は生きている限り、この宇宙において一定の場所に立っており、それによって自分という存在の場所を確保している。すなわち、人間が「居場所がない」と感じたときに死ぬほどの苦しみを感じるのは、その居場所がないことによって別の居場所に押しつぶされ、その居場所から逃れられない圧力を感じるからである。すなわち、「居ている」という現在進行形の中に居るしかない。社会全体で居場所作りをすれば問題は解決するといった安易な仮説は、なかなか実現しない。