犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小西聖子編著 『犯罪被害者遺族』 第2章

2007-08-15 14:06:56 | 読書感想文
第2章 心の傷は癒えない -犯罪被害・遺族はいま-

この本の第2章は、平成7年に放送されたNHKの番組からの転載である。今から12年前の放送であるが、その内容は全く古くなっていない。これは当然のことである。「一度きりの人生」に関わる犯罪被害の問題には、新しいも古いもない。哲学の問題は、時空を超えるがゆえに、常に時代の最先端である。

遺族はこのように述べる。「まだ信じられない。ひょっこり帰って来るんじゃないか」。「亡くなった子どものことを考えると、残された者は幸せになってはいけないんだと思い込んでしまう」。これらの言葉を、ありきたりの「重い」という言葉で受け止めてしまっては、問題の核心がずれる。生と死の絶対不可解は、人間であれば誰しもどこかで気がついている問題である。これは哲学の存在論そのものであり、存在と無の謎である。不条理は不条理として、徹底的に突き詰めるしかない。

生死は人智を超える。人間は誰しも、自分の意志ではなく、気がついたときにはこの世に生まれていた。その意味では、死ぬことが不条理である以前に、生まれてくることが不条理である。生死は人間において必然的であり、誰もが死を逃れることができない。人間の死は、人智を超えるものである。大前提として、まずはこの点から逃れることはできない。

しかしながら、犯罪による死だけは特別である。それは、人智を超える人間の死が、別の人間によってもたらされたということである。この点において、犯罪による死は、病気や災害による死とも異なるし、自殺とも異なる。故意の殺人罪であれ、過失の致死罪であれ、犯罪による死だけは他の死と決定的に異なっている。これは、最愛の人を亡くした遺族に対して、「犯人がまだこの世に生きている」という独特の不条理感をもたらす。

人間は生きている限り、必ず死ぬものである。これは誰しも否定できない。人間がいずれは必ず死ななければならないことは、「運命」であり、「宿命」であり、「天命」である。問題は、それが本能的に腑に落ちるものであって、遺族が最愛の人の死を受け入れることができるかである。この点において、やはり犯罪による死だけは特別である。犯罪による死を「天命」だとしてしまえば、犯人を「天」であると認めたことになってしまうからである。

突然に訪れる死という点では、病気による突然死や災害も同じである。従って、これは心の準備の問題ではなく、時間の問題でもない。これは、論理の問題である。人智を超える死が人為的にもたらされるのは、犯罪による死だけである。ここにおいて、「娘を返せ」「息子を返せ」という要求が正当にも成立する。人を殺した者が生きていることは、それ自体が存在論的な矛盾である。自己と他者、生と死の弁証法が重なったところに、このパラドックスが必然的に表れる。