犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

柳田邦男著 『言葉の力、生きる力』 第6章「2.5人称の視点」より   続き

2007-08-21 11:21:09 | 読書感想文
現代社会の法律実務家や法学者は忙しくて、なかなか被害者の存在にまで目が配れない。弁護士は令状の誤字脱字を指摘して異議申し立てを繰り返し、最高裁まで争うのが仕事である。裁判所書記官は証拠等関係カードの表題部分における正確な記載をするため、似たような無数の証拠物件を区別して分類するのに忙しい。刑法学者も、刑法181条の条文に欠陥があるせいで、強盗強姦殺人犯はどの条文で処罰されるかを研究するのに忙しい。

このような話は一見して重箱の隅であり、人間の罪と罰にとっては本質的な話ではない。誰しも最初はわかっている。しかし、現代の高度な専門化社会における人間は、仕事に深くはまって行くうちに、他の視点が取れなくなってくる。専門化社会が専門家を生み、専門家が専門家を育て、その専門家が専門化社会を維持する。この構造は強固である。

「2.5人称の視点」という補助線は、なぜ法律家はこれまで犯罪被害者を苦しめても何とも思わなかったのか、その新たな視角を提供する。検察官や弁護士といった法律家を、医師や官僚、銀行マンなどと一直線に並べてみる視点は、法律学の中に浸かっていては考えもつかない。


p.234より 抜粋

20世紀後半は、科学や技術の研究ばかりでなく、金融、産業、医療、行政などあらゆる分野で物凄い勢いで専門化が進んだ。社会の重要な役割を担う職業人は、それぞれの分野における専門家でもある。専門家は専門的な知識と技術と経験を駆使することによって、自らの存在理由を確認し、生き甲斐や誇りに結びつけている。そこには、専門の枠組みと論理で仕事を処理していれば、社会的に公正であり、社会に貢献することになる納得あるいは暗黙の了解がある。

ところが、知識や技術の専門家の進行は、専門家の考え方やものの見方を、狭い観念的な世界に閉じ込め、生身の人間や現実の社会の動向を直視して自らの視点の是非を検証しようとする姿勢を失わせがちである。新薬の臨床試験のデータ収集にばかり熱心になる医師や、治療法のない末期がん患者には関心を向けなくなる医師、公害問題が起きても被害者救済より産業擁護を優先した官僚、バブル期に後先を考えずに融資や投資をした銀行マン、犯罪被害者の救済に全く目を向けなかった警察官・検察官・弁護士たち、等々の実態を見ると、専門化社会のブラックホールにはまりこんだ専門家たちのものを見る目は、乾き切ってひび割れていると言うべきだろう。そういう専門家たちの思考様式を、私は乾いた「3人称の視点」と呼んでいる。

私がかねて提案しているのは、「2.5人称の視点」を持つようにすることだ。専門家が被害者や病人や弱者に対し、その家族の身になって心を寄り添わせるなら、何をなすべきかについて見えてくるものがあるはずだ。しかし、完全に2人称の立場になってしまったのでは、冷静で客観的・合理的な判断をできなくなるおそれがある。そこで、2人称の立場に寄り添いつつも、専門家としての客観的な視点も失わないように努める。それが、潤いのある「2.5人称の視点」なのだ。

柳田邦男著 『言葉の力、生きる力』 第6章「2.5人称の視点」より

2007-08-20 12:47:37 | 読書感想文
戦後の刑事司法が被害者を見落としてきた原因を一言で言えば、それは学問の専門化・細分化である。少年法の厳罰化に反対し続けている刑事法研究者にも、当然ながら被害者の存在は目に入っている。ところが、しっかりと見ているがゆえに、それを更にしっかりと見落とす。このような芸当ができるのも、非行少年を保護し更生させるという少年法の精神の研究に関して、あまりに専門化・細分化が進み、そこから漏れる異質な要素を捉える視点がスッポリと消えてしまったからである。

客観性・実証性が至上命題である社会科学の枠組みを揺さぶるカテゴリーとして、生死の人称性の視点がある。1人称の生死は奇跡と恐怖であり、2人称の生死は喜びと悲しみであり、3人称の生死は無関心である。ここで、「2.5人称の視点」という更なるカテゴリーを提唱するのが柳田邦男氏である。賛成反対論の応酬でモヤモヤしたところに明快な補助線を引くものとして、この視点は卓抜である。


p.232より 抜粋

一般人の考えから見るならば、重要な当事者である被害者の親が、どのような人物に如何なる理由で大事なわが子を殺されたのか、その真実を知るために、審理に同席して審理の内容を傍聴し、自らの心情についても語りたいと願うのは、当然の権利だと思うだろう。

しかし不思議なことに、裁判官という法律の専門家は、そういうことは「無駄だ」と考えるのだ。その根底には、少年法がある。少年法は、端的に言えば、非行少年を保護し更生させることをねらいとした法律である。少年事件によって悲惨な状況に追いこまれた被害者の救済については、全く視野に入れていない。

少年法の枠組みを狭義に解釈し、それを金科玉条のように考えて守ろうとする立場に立つならば、家庭裁判所が半世紀近くにわたって貫いてきた被害者排除の原則は、法的に誤っているわけではないし、責められるべきものではない。しかし、まさにそこが問題なのだ。

人間のあるべき姿として、何を優先順位の上位に置くべきなのか、まず誰を救済して支援すべきなのか、加害者が本当に罪を償うには何を知るべきなのか、という視点から問題を考えるなら、法律の専門家とは違う選択肢が見えてくるはずだ。そういうごくあたりまえの人間的な視点と法律の専門家の考える正義の枠組みのずれが、問題なのだ。私はこの問題を、現代の高度な専門化社会のブラックホールあるいは落とし穴と呼んでいる。

弁証法の勘違い

2007-08-19 14:08:03 | 国家・政治・刑罰
弁証法の正-反-合の動きについては、安易な技術論と勘違いされることが多い。「異なった価値観を持つ人間同士の議論によって、コミュニケーションの基本となる相手の立場や気持ちを感得する能力が育つ」「意見の違う人と議論することにより、現代における価値観の対立により発生する問題の解決には色々な選択肢があることが理解でき、新たな解答が生み出される」といった類の言説である。しかし、結論先取り、結論先にありきの対決において、いかにして反対意見を尊重し、多様性を認められるというのか。行き着く先は他人の誹謗中傷、発言者の人格批判、細かい表現上の揚げ足取り、重箱の隅をつつく嫌がらせである。このようなものは最初から弁証法ではない。

例えば、警察署・検察庁における被疑者の取調べ状況を録画・録音すべきかという問題がある。賛成派は次のような理由を挙げる。(1)被疑者は脅されて調書に署名させられることが多く、このような人権侵害が冤罪の温床となっている。(2)密室での取調べである限り、調書に書かれた通りの供述が実際になされたかは不明であり、裁判では調書の内容が真実かどうかについて水掛け論が長々と続いてしまう。(3)欧米及びアジアではすでに取調べの可視化が進められており、取調べの録画・録音は、もはや世界的な潮流であり、日本が取調べの可視化に背を向け続けるならば、いずれ世界から信用されなくなる。(4)現代社会では、透明性とそれに見合った説明責任が要求されている。以上のような理由を挙げられれば、何となくそのような気がしてくる。

これに対して、反対派も次のような理由を挙げる。(1)生の人間同士のぶつかり合いである取調べにおいて、常にカメラやテープが回っているとなれば、被疑者が取調官よりも機械を気にしてしまい信頼関係が崩れる。(2)被疑者は公判で一言一句が精密に再生されることばかりに神経が集中してしまい、心理的に圧迫されて、犯罪事実を思い起こすという本筋からずれる。(3)再生と反訳に膨大な時間と労力を要し、その過程における改ざんの有無が争われ、結局裁判はますます長くなる。(4)現代社会における透明性と説明責任の論理は、そもそも被疑者の取調べにはそぐわない。以上のような理由を挙げられれば、やっぱり何となくそのような気がしてくる。

このような両派が、それぞれ自己の主張を裏付ける事例のデータ、大量の資料を添付したレジュメを持って一堂に会して議論した場合に、何らかの弁証法的止揚が起きるか。これはまず無理である。人生を賭けて反対論を唱えて来た人が、たった1日で説得されて賛成派に変わるわけがない。逆も同じである。だとすれば、一体何のために議論をしているのか。疲れ果てた後の妥協案や折衷案は、弁証法的止揚とは似ているようで、全く異なる政策論である。

弁証法の正-反-合の動きは、賛成派と反対派との議論のことではない。政治的な議論とは、人間が自らを賛成派と反対派のいずれかの立場に立たせることである。議論に入るためには、まず名刺代わりに自分は賛成派か反対派かを明らかにしなければ、そもそも席に座れない。ところが、これでは弁証法にならない。弁証法における真理とは、「賛成派と反対派が対立していることそのもの」である。その意味で、賛成派と反対派の論争から、弁証法的に思わぬ新たな解答が出ることはない。これが弁証法である。

北尾トロ著 『裁判長! ここは懲役4年でどうすか』

2007-08-18 13:01:45 | 読書感想文
微妙に哲学的であり、30万部突破のベストセラーになるのも納得できる。ふざけたタイトルには何ともいえない余裕がある。売れる本とは、押し付けがましくないにもかかわらず、万人にとって正しい事実を指し示しているものである。「ぼくにとっては最高の人間ドラマに思える公判が、他の傍聴人にとっては平凡な事件でしかなく大半が途中退席することもある。また、その逆もある。裁判がどんなものかを知るには、結局のところ、自分で足を運んでみるしかないだろう。おもしろい裁判はどれか、ではなく、どういう裁判に興味を惹かれるかで、自分というものがうっすらとわかってくるのだと思う」(p.325)。

この本の帯には、「裁判員制度前に必読!」と書かれているが、実際そのとおりであろう。この本が多くの人に読まれれば、確かに裁判員に選ばれてみたいという意見が増えるものと思われる。法務省の頭の良い方々は、「国民の司法参加」「司法に対する国民的基盤の確立」といった立派な言葉で裁判員制度のPRをしているが、北尾氏と比べると実に好対照である。北尾氏は、生真面目な学者や実務家から見れば激怒するようなことを書いていながら、結果的に裁判員制度導入に貢献している。これに対し、権威のある学者や実務家によってなされる裁判員制度のPRは、ほとんど何の効果も挙げていない。

法律の世界に慣れた人にとって北尾氏の文章が新鮮に感じられるのは、傍聴人の視線を失っていないからである。傍聴人から見れば、裁判とは人間ドラマそのものである。良いも悪いもなく、裁判におけるすべての登場人物は人間であり、裁判官や傍聴人も含めて、法廷では人間ドラマが展開されていざるを得ない。これに対して近代刑法の理論は、罪刑法定主義、罪を憎んで人を憎まず、不告不理の原則などといった小難しい理屈を述べて、このドラマ性を消そうとする。北尾氏のように「どこまでもダメな女」「ロリコン男よどこへ行く」などと被告人を揶揄すれば、国家権力によって人権を制限する峻厳な刑事裁判において不真面目であると怒られる。しかし、どんなに怒られたところで、罪を犯すのは人間である。近代刑法の理論は、人を憎まないで罪だけを憎むのは無理であるという端的な事実を指摘されることを恐れ、それによって人間を見失う。

人間ドラマを見ずに人間の文法を語る近代刑法は、複雑な人間の欲望を捉えることができていない。その結果、「犯罪者も私たちと同じ人間です。温かく社会復帰を受け入れましょう」といった善意の嘘ばかりが蔓延することになる。「刑罰は国家権力による人権侵害であり、刑法の謙抑性の原則から懲役刑は可能な限り短いものでなければならない」などという小難しい本を書いたものの、自分のゼミの学生以外には全然売れない法学部の教授にしてみれば、「裁判長! ここは懲役4年でどうすか」などという本が売れるのは、世も末だと言いたくなるところであろう。その通りである。世の末に突き進んで爆笑した理論は、世の末を嘆く理論よりもはるかに強い。

真理と幸福

2007-08-16 19:32:57 | 国家・政治・刑罰
哲学とは、根本的な真理を求める営みであって、すべての欺瞞を看破する。それは時には反社会的であり、真理であるがゆえに公にしてはならない言明である。例えば、修復的司法においては、愛する家族を失った者の立ち直りが目標とされる。しかし、いかにして立ち直ったように見えたところで、愛する者が永久に帰ってこない事実は変わらない。修復的司法は、この厳然たる事実から逃避しようとする。人間の生死を扱いつつ人間の生死の問題から逃げる欺瞞は、肝心なところの議論を浅いものにする。

真理と幸福は、時に対立するものである。愛する家族を失った事実から立ち直ることが幸福であるとする理論は、遺族に事件のことを忘れさせようとし、裁判に参加させないようにする。しかし戦後60年における遺族の苦しみは、裁判制度の蚊帳の外に置かれたことであり、真理を知らされないことであった。遺族はこの中で情報公開に挑み、真理を知ろうとした。真理よりも幸福を重視する立場からは、真実を知ったところで悲しみを深くするだけであり、知ってどうするのか、戦ってどうするのかと問われている。しかしながら、ここでは、事件のことを忘れることは幸福につながっていない。人間は時には、幸福よりも真理を求めるものである。逆に、真理よりも幸福を求めることによって、結果的に不幸になることもある。

真理は普遍である。しかし、人間が普遍的観点から何かを語ろうとすればするほど、真理は遠のく。「厳罰化は真の解決にはならない」という言説は一人歩きし、被害者に対して精神的な二次的被害を与える。このような普遍的観点からの言説は、自分を客観化するふりをして、自分を棚に上げる。意識的に普遍を語ることは、自分が生きる上で必然的に考えていないこと、人生の中で感じていないことを語ることに他ならない。普遍的観点は、個に通じる言説の中で逆説的に表れるに過ぎない。被害者が「『厳罰化は真の解決にはならない』と言われてもどうしても厳罰を望んでしまう」と述べるとき、それは意図せずして普遍を示してしまっている。

自由主義、個人主義の思想は、真理の追求よりも功利主義に流れてきた。幸福はあくまで快・不快によって判定され、真理の追求と幸福とは相反する場面が多くなった。現代社会の流れはこのようなものであるとしても、この考え方で犯罪まで処理されてはたまらない。加害者は功利主義に乗って自己利益を追求し、自己中心的に少しでも軽い刑を求め、形だけの謝罪をする。修復的司法の考え方からすれば、被害者はこの形だけの謝罪にも心からの反省を感じて、加害者を赦して幸福にならなければならない。やはり真理よりも幸福を目的とするならば、肝心なところの議論が浅くなる。

ソクラテスの「善く生きる」という命題には、多様な解釈の余地がある。ただ、その中の1つとして、「幸福よりも真理を求める」という命題は、ソクラテスの言わんとしていることをかなり正確に映している。

小西聖子編著 『犯罪被害者遺族』 第2章

2007-08-15 14:06:56 | 読書感想文
第2章 心の傷は癒えない -犯罪被害・遺族はいま-

この本の第2章は、平成7年に放送されたNHKの番組からの転載である。今から12年前の放送であるが、その内容は全く古くなっていない。これは当然のことである。「一度きりの人生」に関わる犯罪被害の問題には、新しいも古いもない。哲学の問題は、時空を超えるがゆえに、常に時代の最先端である。

遺族はこのように述べる。「まだ信じられない。ひょっこり帰って来るんじゃないか」。「亡くなった子どものことを考えると、残された者は幸せになってはいけないんだと思い込んでしまう」。これらの言葉を、ありきたりの「重い」という言葉で受け止めてしまっては、問題の核心がずれる。生と死の絶対不可解は、人間であれば誰しもどこかで気がついている問題である。これは哲学の存在論そのものであり、存在と無の謎である。不条理は不条理として、徹底的に突き詰めるしかない。

生死は人智を超える。人間は誰しも、自分の意志ではなく、気がついたときにはこの世に生まれていた。その意味では、死ぬことが不条理である以前に、生まれてくることが不条理である。生死は人間において必然的であり、誰もが死を逃れることができない。人間の死は、人智を超えるものである。大前提として、まずはこの点から逃れることはできない。

しかしながら、犯罪による死だけは特別である。それは、人智を超える人間の死が、別の人間によってもたらされたということである。この点において、犯罪による死は、病気や災害による死とも異なるし、自殺とも異なる。故意の殺人罪であれ、過失の致死罪であれ、犯罪による死だけは他の死と決定的に異なっている。これは、最愛の人を亡くした遺族に対して、「犯人がまだこの世に生きている」という独特の不条理感をもたらす。

人間は生きている限り、必ず死ぬものである。これは誰しも否定できない。人間がいずれは必ず死ななければならないことは、「運命」であり、「宿命」であり、「天命」である。問題は、それが本能的に腑に落ちるものであって、遺族が最愛の人の死を受け入れることができるかである。この点において、やはり犯罪による死だけは特別である。犯罪による死を「天命」だとしてしまえば、犯人を「天」であると認めたことになってしまうからである。

突然に訪れる死という点では、病気による突然死や災害も同じである。従って、これは心の準備の問題ではなく、時間の問題でもない。これは、論理の問題である。人智を超える死が人為的にもたらされるのは、犯罪による死だけである。ここにおいて、「娘を返せ」「息子を返せ」という要求が正当にも成立する。人を殺した者が生きていることは、それ自体が存在論的な矛盾である。自己と他者、生と死の弁証法が重なったところに、このパラドックスが必然的に表れる。

なぜ人を殺してはいけないのか?

2007-08-14 12:49:10 | 国家・政治・刑罰
私がいつも愛読しているqeb氏のブログに、「主観と客観」という素晴らしい文章があった(http://qeb.jp/blog/20070814-190.html)。客観的事実があろうがなかろうが、世界は何事もなく続く。人間には主観しかないし、さらにそれは不確かであるが、それを知った後と知る前で世界の何かが変わる訳ではない。客観は主観であり、主観は客観である。もしくは「主観も客観もない」と言った方が、より正確である。主観は確かでも不確かでもなく、唯一絶対である。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」。この問いが古典的でありながら、多くの人が避けて通るのは、この問いを客観的に捉えているからである。主観・客観二元論を信じている限り、この種の問いは解けない。社会問題一般を解決するための視点から、何らかの解答を導き出そうとすれば、「被害者の家族が悲しむから」「刑法199条で禁止されているから」といった凡庸な理由づけを持ち出すしかなくなる。何か説得力のある答えはないかと糞真面目に悩んでいるのでは、入口からして間違っている。「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対して、少しでも正解に近付こうとすれば、それはqeb氏のブログの文章のようになるだろう。

この自分は宇宙の中に存在する。自分が生まれる前にも宇宙はあったし、自分の死後にも宇宙はあるだろう。これが弁証法の「一即多」である。しかし、それを認識できるのは、自分が生きている限りのことである。自分がこの宇宙に存在していなければ、宇宙が存在していることはわからない。これは、自分と宇宙の存在が一致している、すなわち自分が宇宙を存在させているに等しい。これが弁証法の「多即一」である。

被告人の目には裁判所の建物が見える。法廷の様子も、裁判長の顔も、傍聴席でにらんでいる被害者遺族の顔も見える。そして被告人の耳には、裁判長の声や、遺族のすすり泣く声も聞こえてくる。被告人には、この宇宙が認識できるからである。これに対して、死んでしまった被害者には、これらの光景が全く認識できない。被害者には目もなければ、耳もない。他でもない被告人の行為によって、それらは火葬場で灰になってしまったからである。

被告人がこの単純な事実と正面から向き合ったとき、それは戦慄をもたらす。人間の存在と宇宙の存在は一致している、これが「多即一」である。自分は被害者を宇宙から消してしまったことは、被害者にとっての宇宙を消してしまったことと同じである。すなわち、宇宙を1つ潰してしまったことになる。被告人がこの地点に気付いてしまった時、そしてその地点からはどうにも逃れられないことを知った時、それは被告人に狂気と絶句をもたらす。黙秘権の行使などという寝ぼけた話ではない。

現実の裁判では、この地点に至る被告人など稀である。しかし、遺族が救われるとすれば、被告人が人生を賭けてこのような地点に至り、苦しみと格闘することしかない。この地点を捉えようとしない犯罪被害者対策など、どのように推し進めたところで、最後には人間に違和感を残したまま終わる。

古東哲明著 『ハイデガー = 存在神秘の哲学』

2007-08-13 21:02:35 | 読書感想文
ハイデガーの「死の哲学」は、それが死の哲学であることによって、そのまま存在神秘の論拠を指し示している。ハイデガーは、存在不安やニヒリズムを否定するわけでもなく、存在への驚きが存在の不可解さを解消すると述べているわけでもない。これを述べてしまえば、凡庸な宗教である。存在の不思議に驚き続けることによって、存在の無根拠性は消え去ることがなく、それによって存在は神秘となる。これを時間との関係性で述べれば、存在は刹那の念々起滅現象であり、まさしく存在と無は同一である。

哲学は役に立たない学問の代表のように言われているが、現代日本に蔓延する閉塞感を打開するために、ハイデガーの哲学は何かの役に立つのか。哲学のお勉強として客体化すれば全く役に立たないが、日々の生活を生きる上で膨大な情報に惑わされず、深く考える際の先人の知恵として参考にすれば、これほど役に立つものはない。21世紀初頭の現代人の閉塞感を端的に指摘する概念として、ニヒリズムは避けては通れない。すなわち、一切の目的が失われていることを認めまいとして手段を目的化し、目的喪失状態を隠蔽するのが、現代の不完全なニヒリズムである。20世紀前半に生きたハイデガーは、21世紀の人間が携帯電話に携帯され、お金に使われて精神を病んでいる姿をまるで予言していたかのようである。

日本では平成10年以来、年間3万人の自殺が一向に減らず、自殺対策が急務となっているようである。ここでハイデガーの「死の哲学」など持ち出せば、縁起でもないと言われそうである。政府は自殺対策を総合的に推進するため、「こころの健康科学研究事業」なるものを行い、「生きていれば必ずいいことがある、死んではいけない」と訴えているからである。このような自殺に関する総合対策、緊急的な推進活動をしている横から、「自殺を思いとどまっても、いずれ寿命がくれば死ぬでしょう」などと言えば、不謹慎だといって怒られるのがオチである。ハイデガーの述べる反転の論理、一瞬の永遠、実存転調なるものは、現に借金や職場の人間関係で悩んでいる人にはなかなか通じない。

ところが、最大の自殺防止対策が、この不謹慎な指摘の中にある。「自殺を思いとどまっても、いずれ寿命がくれば死ぬ。だから、今ここで急いで死ぬ必要はない」。かなり不謹慎だが、これは万人にとって正しい。不謹慎であろうがなかろうが、正しいものは正しいからである。これに対して、「生きていれば必ずいいことがある、だから死んではいけない」という理屈は、確かに励ましにはなるものの、確率的に正しいとは言い切れない。それが故に、この建前を信じて自殺を一旦思いとどまった人は、「やっぱり生きていてもいいことなど一つもない」という現実に直面してしまえば、やはり自殺することになる。こうしてみると、ハイデガーの死の哲学は、それが死の哲学であることによって、人間に自殺する動機すら不可能にしてしまう。そして、そのまま人間に生の希望をもたらすことがわかる。

どういうわけか逆説

2007-08-12 15:46:27 | 国家・政治・刑罰
人間はなぜか、「許して下さい」と言われると、許したくなくなるものである。これに対して、「許してもらえるとは思っていません」と言われると、何となく許してやりたいと思ってしまうものである。これは簡単な逆説である。このような現象の良い悪いを論じたところで、実際に世の中はこのようになっているのだから仕方がない。それだけのことである。

法廷の被告人についても、あまりにも「弁償をしたので寛大な刑をお願いします」と強く主張されると、刑を軽くしてもらうことが主目的であり、弁償はそのための手段であったことが見え透いてしまう。これに対して、被告人が「弁償はあくまでも被害者のために行いました。これによって刑を軽くしてほしいとは思っていません」と述べるならば、被害者側としては刑を重くしてほしいという主張の矛先が鈍るものである。被告人に大弁護団がついて、死刑回避のために戦えば戦うほど、多くの国民は「こんな被告人は早く死刑になればいい」と思ってしまう。これは別に大衆の無知や感情論だと非難される筋合いのものではなく、逆説の真実がそのまま表れた結果である。

社会契約論は、人間の理性に信頼を置くものである。従って、意思表示からはその通りの法律効果を発生させなければならず、それによって法的安定性の維持が図られることになる。このパラダイムは、哲学的な真実が逆説の形をとって表れない場面では、非常に上手く回る。例えば、私的自治の原則に基づく売買契約においては、売主は「売りましょう」という意思表示をし、買主は「買いましょう」という意思表示をし、これが合致することによって契約が成立することになる。ここでは、「売りましょう」が「売りたくありません」を意味するといった逆説は登場しない。それゆえに、近代社会のパラダイムが上手く回る。今やそれが行き過ぎて契約書が無駄に長くなり、文字が小さくなって読めないというバカバカしい効果も生じているが、これも近代社会のパラダイムの延長である。

これに対して、刑罰という哲学的な問題を含む場面では、必然的に逆説の真実に触れざるを得なくなる。近代法治国家は、“法律要件→法律効果”のパラダイムによる統一を図り、民事裁判における“売買契約→債権債務の発生”と、刑事裁判における“犯罪行為→刑罰権の発生”とを同列に置いた。しかし、「私はこの不動産を売りますので代金を払って下さい」という意思表示と、「私は人を殺しましたが死刑になりたくありません」という意思表示とは、同列に並ぶものではない。前者は求めれば与えられるが、後者は求めることによって遠ざかるものである。

近代刑法では、どんな凶悪犯人にも防御権があり、弁護人をつけて戦う権利がある。このパラダイムは、それ自体が強烈な逆説を生むことになる。どういうわけだか多くの人間は、「弁護士をつけて徹底的に戦います」という被告人よりも、「弁護士などいりません。厳罰を受けます」という被告人を支持したくなる。人間として率直に受け容れることができ、正義感に合致し、人間的に尊敬できる。もちろん近代国家では無罪の推定が働き、弁護士をつける権利が憲法に書いてあることも十分わかった上で、それでも自分の倫理観を問い詰めてみれば、どうしても凶悪犯人に大弁護団がついて戦う構図には違和感を覚えてしまう。これは、近代刑法のパラダイムが逆説の発生を力ずくで抑え込んでおり、賛成反対の議論以前に不自然であることに基づくものである。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 エピローグ

2007-08-11 11:54:21 | 読書感想文
エピローグ 永遠の闘い

東氏は次のように述べている。「人間の社会がある限り、犯罪もまた完全になくなることはないであろう。一生の間犯罪被害者等とならずに過ごすことのほうが困難であるのが、今の現実である。だとすれば、犯罪被害者のための施策を勝ち取る闘いもまた、『永遠の闘い』であるはずだ。その闘いを、私たち一人ひとりが自分のものだと考えて、『犯罪被害者の尊厳と権利』を確立する制度、社会を、どうしたら築いていけるのか」。

被告人の権利と被害者の権利は矛盾するものではなく、両立するものであると言われることがある。しかし、現実に被害者参加制度をめぐって賛成反対の議論が起きている以上、抽象的に両立するという原則だけを述べても何の役にも立たない。「犯罪被害者の声が聞こえますか」というこの本の題名は、この問題の所在を示している。被告人の権利と被害者の権利は両立するという安易な結論に安住するならば、それは犯罪被害者の声を聞くことが怖いこと意味している。怖いのは、被害者の怒りもさることながら、その問いに答えがないからである。被告人vs被害者の対立構図は、市民vs人生のパラダイムの対立構図である。犯罪被害者の声とは、誰に対してもあてはまる声であり、人生の難問の前で途方に暮れたときに自然とこぼれてしまう声である。

被告人と被害者の衝突を避けようとする立場からは、被害者に対しては医療や福祉、自助組織など別の分野の充実こそが必要であると主張され、被害者による「永遠の闘い」には積極的な評価が与えられない。そして、被害者参加制度によっては根本的な解決にならず、被害者はますます傷を深くするだけであると主張される。ここでは、岡村弁護士が述べるとおり、「犯罪被害者の権利」ではなく「犯罪被害者の支援」になってしまっている。犯罪被害者自身が永遠の闘いに臨むと言っている以上、第三者がそれを真の解決にならないと言ったところで、余計なお世話でしかない。

医療や福祉、自助組織など別の分野の充実は、論理的に被害者参加制度と並行して実施することができる。二者択一ではない。被害者は心のケアを受けられないことによって、その怒りのやり場がなくなり、その感情を法廷にぶつけたくなって被害者参加制度を主張しているのだという捉え方は、犯罪被害者の声を正面から聞いていない。聞こえない理由は、1つには政治的な耳しか持っていないという点であり、もう1つは自分自身の生死の問題に触れることを避けたがっているという点である。犯罪被害者の声は、哲学的な難問を含んでおり、従って生死の問題を避けることができない。「いつになったら問題は解決するのか、早く解決しろ」と他人に対して要求する前に、まずは自分に対して「なぜ人を殺してはいけないのか」を問い詰めて途方に暮れることのほうが順番としては先である。

この世から犯罪が完全になくなることがない以上、今後も犯罪被害者は日々新たに生じることになる。誰が被害者になるのか、それは事件が起こるまでは誰にもわからない。その被害者が生じる以前から、被告人と被害者の権利は両立するという結論だけを先に出しておいたところで、一度きりの人生を生きている人間が納得するはずもない。法律的なものの考え方は、あるべきゴールを設定して、そこからの距離によって物事を測ろうとする。しかしながら、犯罪被害者の抱える哲学的な問題は、そのような枠組みでは手に余る。永遠の闘いにゴールはない。ゴールがないことがゴールであり、答えがないことが答えである。