犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

北尾トロ著 『裁判長! ここは懲役4年でどうすか』

2007-08-18 13:01:45 | 読書感想文
微妙に哲学的であり、30万部突破のベストセラーになるのも納得できる。ふざけたタイトルには何ともいえない余裕がある。売れる本とは、押し付けがましくないにもかかわらず、万人にとって正しい事実を指し示しているものである。「ぼくにとっては最高の人間ドラマに思える公判が、他の傍聴人にとっては平凡な事件でしかなく大半が途中退席することもある。また、その逆もある。裁判がどんなものかを知るには、結局のところ、自分で足を運んでみるしかないだろう。おもしろい裁判はどれか、ではなく、どういう裁判に興味を惹かれるかで、自分というものがうっすらとわかってくるのだと思う」(p.325)。

この本の帯には、「裁判員制度前に必読!」と書かれているが、実際そのとおりであろう。この本が多くの人に読まれれば、確かに裁判員に選ばれてみたいという意見が増えるものと思われる。法務省の頭の良い方々は、「国民の司法参加」「司法に対する国民的基盤の確立」といった立派な言葉で裁判員制度のPRをしているが、北尾氏と比べると実に好対照である。北尾氏は、生真面目な学者や実務家から見れば激怒するようなことを書いていながら、結果的に裁判員制度導入に貢献している。これに対し、権威のある学者や実務家によってなされる裁判員制度のPRは、ほとんど何の効果も挙げていない。

法律の世界に慣れた人にとって北尾氏の文章が新鮮に感じられるのは、傍聴人の視線を失っていないからである。傍聴人から見れば、裁判とは人間ドラマそのものである。良いも悪いもなく、裁判におけるすべての登場人物は人間であり、裁判官や傍聴人も含めて、法廷では人間ドラマが展開されていざるを得ない。これに対して近代刑法の理論は、罪刑法定主義、罪を憎んで人を憎まず、不告不理の原則などといった小難しい理屈を述べて、このドラマ性を消そうとする。北尾氏のように「どこまでもダメな女」「ロリコン男よどこへ行く」などと被告人を揶揄すれば、国家権力によって人権を制限する峻厳な刑事裁判において不真面目であると怒られる。しかし、どんなに怒られたところで、罪を犯すのは人間である。近代刑法の理論は、人を憎まないで罪だけを憎むのは無理であるという端的な事実を指摘されることを恐れ、それによって人間を見失う。

人間ドラマを見ずに人間の文法を語る近代刑法は、複雑な人間の欲望を捉えることができていない。その結果、「犯罪者も私たちと同じ人間です。温かく社会復帰を受け入れましょう」といった善意の嘘ばかりが蔓延することになる。「刑罰は国家権力による人権侵害であり、刑法の謙抑性の原則から懲役刑は可能な限り短いものでなければならない」などという小難しい本を書いたものの、自分のゼミの学生以外には全然売れない法学部の教授にしてみれば、「裁判長! ここは懲役4年でどうすか」などという本が売れるのは、世も末だと言いたくなるところであろう。その通りである。世の末に突き進んで爆笑した理論は、世の末を嘆く理論よりもはるかに強い。