犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

弁証法の勘違い

2007-08-19 14:08:03 | 国家・政治・刑罰
弁証法の正-反-合の動きについては、安易な技術論と勘違いされることが多い。「異なった価値観を持つ人間同士の議論によって、コミュニケーションの基本となる相手の立場や気持ちを感得する能力が育つ」「意見の違う人と議論することにより、現代における価値観の対立により発生する問題の解決には色々な選択肢があることが理解でき、新たな解答が生み出される」といった類の言説である。しかし、結論先取り、結論先にありきの対決において、いかにして反対意見を尊重し、多様性を認められるというのか。行き着く先は他人の誹謗中傷、発言者の人格批判、細かい表現上の揚げ足取り、重箱の隅をつつく嫌がらせである。このようなものは最初から弁証法ではない。

例えば、警察署・検察庁における被疑者の取調べ状況を録画・録音すべきかという問題がある。賛成派は次のような理由を挙げる。(1)被疑者は脅されて調書に署名させられることが多く、このような人権侵害が冤罪の温床となっている。(2)密室での取調べである限り、調書に書かれた通りの供述が実際になされたかは不明であり、裁判では調書の内容が真実かどうかについて水掛け論が長々と続いてしまう。(3)欧米及びアジアではすでに取調べの可視化が進められており、取調べの録画・録音は、もはや世界的な潮流であり、日本が取調べの可視化に背を向け続けるならば、いずれ世界から信用されなくなる。(4)現代社会では、透明性とそれに見合った説明責任が要求されている。以上のような理由を挙げられれば、何となくそのような気がしてくる。

これに対して、反対派も次のような理由を挙げる。(1)生の人間同士のぶつかり合いである取調べにおいて、常にカメラやテープが回っているとなれば、被疑者が取調官よりも機械を気にしてしまい信頼関係が崩れる。(2)被疑者は公判で一言一句が精密に再生されることばかりに神経が集中してしまい、心理的に圧迫されて、犯罪事実を思い起こすという本筋からずれる。(3)再生と反訳に膨大な時間と労力を要し、その過程における改ざんの有無が争われ、結局裁判はますます長くなる。(4)現代社会における透明性と説明責任の論理は、そもそも被疑者の取調べにはそぐわない。以上のような理由を挙げられれば、やっぱり何となくそのような気がしてくる。

このような両派が、それぞれ自己の主張を裏付ける事例のデータ、大量の資料を添付したレジュメを持って一堂に会して議論した場合に、何らかの弁証法的止揚が起きるか。これはまず無理である。人生を賭けて反対論を唱えて来た人が、たった1日で説得されて賛成派に変わるわけがない。逆も同じである。だとすれば、一体何のために議論をしているのか。疲れ果てた後の妥協案や折衷案は、弁証法的止揚とは似ているようで、全く異なる政策論である。

弁証法の正-反-合の動きは、賛成派と反対派との議論のことではない。政治的な議論とは、人間が自らを賛成派と反対派のいずれかの立場に立たせることである。議論に入るためには、まず名刺代わりに自分は賛成派か反対派かを明らかにしなければ、そもそも席に座れない。ところが、これでは弁証法にならない。弁証法における真理とは、「賛成派と反対派が対立していることそのもの」である。その意味で、賛成派と反対派の論争から、弁証法的に思わぬ新たな解答が出ることはない。これが弁証法である。