犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ヘーゲルと天賦人権論との関係

2007-08-24 19:34:50 | 国家・政治・刑罰
ヘーゲル研究者の間では、彼が国家主義的か否かについて長々と論争があるようであるが、これは研究者でない人間が生きる上ではどうでもいい問題である。どの人間も人格として自由であり、対等平等であるというのが、個人主義に基づく市民社会の理念である。ヘーゲルもこの立場にあるならば、なぜ政治学者・法律学者は18世紀のヘーゲルを通り越して、13世紀のマグナ・カルタを持ち出すのか。そして、紀元前のソクラテスまでには遡らないのか。これは、「ヘーゲル某」という人間の問題ではない。この世の中に人間の数だけある「某」それぞれの問題である。

ヘーゲルは具体的な理念として、国家主義になりかねない公的扶助よりも、市民間による共互助の持つ役割を強調している。それならば、法律学がヘーゲルの理論を援用しないのはなぜか。これは、Sollenの枠組みではWerdenの枠組みなど手に余るという点に尽きる。この世の現実問題を解決しようとしているところに、「もう解決しています」という正解は使い物にならない。それでは、13世紀のマグナ・カルタを持ち出せば使い物になるかというと、これはもっと使い物にならない。政治学における社会契約論の詳細な研究は役に立たず、現実の衆愚政治における選挙運動は毎度のことである。誰かの理論に頼って正解が出るようなものでないことは、もはや十分にわかってしまった。

日本国憲法の精神を尊重する立場は、18世紀のアメリカ独立宣言およびフランス革命における人権宣言を金科玉条とすることが多い。そうであれば、なぜヘーゲルを避けて通れるのか。ヘーゲルがホッブズ、ロック、ルソーといった啓蒙思想家と決定的に違うのは、自由を目指して王制を倒したはずの革命が、実際には恐怖政治をもたらした事実を直接見てしまったということである。ヘーゲルが個人主義に基づく市民社会の理念に理解を示しつつ、単純に人権宣言に賛成しないのも当然である。後の世のヘーゲル研究者が、彼が国家主義的か否かについて長々と論争しても、そんなことは本人に聞いてみなければわからない。また、後の世の政治学者・法律学者にとっては、ヘーゲルは難しすぎて捨てられるか、簡単すぎて捨てられるかのいずれかになる。

ヘーゲルの述べる「普遍意思」と、ルソーの述べる「一般意思」とは、同じようなものを指してはいるが、弁証法を経由しているか否かによって決定的な差異がある。国家の目的は公共の幸福であり、法律を整備し、権利を守り、社会制度を確立し、自由な社会を目指す。こう言ってしまえば、両者は同じである。中世封建的な制度を認めない点においても、両者は同じである。ところが、ヘーゲルは天賦人権論などには頼らないし、頼れるはずもない。それゆえに、現代の立憲主義のシステムにおいては、ヘーゲルの理論はなかなか現実に使いにくい。

ヘーゲルのいうところの自由とは、『精神現象学』で展開されているように、あくまでも人間の内側から生じている自由である。ここで、「ヘーゲルは『人間の内側から生じている自由である』と言った」という形で捉えてしまうと、後世の人間はまた「ヘーゲル某」という人間が残した思想の研究に走ってしまい、弁証法の核心を取り落とすことになる。これが現代の立憲民主主義において、学問の自由という人権に守られつつ、研究に没頭している哲学研究者である。ヘーゲルは国家主義的か否か、そんなことは本人に聞いてみなければわからない。