犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

どういうわけか逆説

2007-08-12 15:46:27 | 国家・政治・刑罰
人間はなぜか、「許して下さい」と言われると、許したくなくなるものである。これに対して、「許してもらえるとは思っていません」と言われると、何となく許してやりたいと思ってしまうものである。これは簡単な逆説である。このような現象の良い悪いを論じたところで、実際に世の中はこのようになっているのだから仕方がない。それだけのことである。

法廷の被告人についても、あまりにも「弁償をしたので寛大な刑をお願いします」と強く主張されると、刑を軽くしてもらうことが主目的であり、弁償はそのための手段であったことが見え透いてしまう。これに対して、被告人が「弁償はあくまでも被害者のために行いました。これによって刑を軽くしてほしいとは思っていません」と述べるならば、被害者側としては刑を重くしてほしいという主張の矛先が鈍るものである。被告人に大弁護団がついて、死刑回避のために戦えば戦うほど、多くの国民は「こんな被告人は早く死刑になればいい」と思ってしまう。これは別に大衆の無知や感情論だと非難される筋合いのものではなく、逆説の真実がそのまま表れた結果である。

社会契約論は、人間の理性に信頼を置くものである。従って、意思表示からはその通りの法律効果を発生させなければならず、それによって法的安定性の維持が図られることになる。このパラダイムは、哲学的な真実が逆説の形をとって表れない場面では、非常に上手く回る。例えば、私的自治の原則に基づく売買契約においては、売主は「売りましょう」という意思表示をし、買主は「買いましょう」という意思表示をし、これが合致することによって契約が成立することになる。ここでは、「売りましょう」が「売りたくありません」を意味するといった逆説は登場しない。それゆえに、近代社会のパラダイムが上手く回る。今やそれが行き過ぎて契約書が無駄に長くなり、文字が小さくなって読めないというバカバカしい効果も生じているが、これも近代社会のパラダイムの延長である。

これに対して、刑罰という哲学的な問題を含む場面では、必然的に逆説の真実に触れざるを得なくなる。近代法治国家は、“法律要件→法律効果”のパラダイムによる統一を図り、民事裁判における“売買契約→債権債務の発生”と、刑事裁判における“犯罪行為→刑罰権の発生”とを同列に置いた。しかし、「私はこの不動産を売りますので代金を払って下さい」という意思表示と、「私は人を殺しましたが死刑になりたくありません」という意思表示とは、同列に並ぶものではない。前者は求めれば与えられるが、後者は求めることによって遠ざかるものである。

近代刑法では、どんな凶悪犯人にも防御権があり、弁護人をつけて戦う権利がある。このパラダイムは、それ自体が強烈な逆説を生むことになる。どういうわけだか多くの人間は、「弁護士をつけて徹底的に戦います」という被告人よりも、「弁護士などいりません。厳罰を受けます」という被告人を支持したくなる。人間として率直に受け容れることができ、正義感に合致し、人間的に尊敬できる。もちろん近代国家では無罪の推定が働き、弁護士をつける権利が憲法に書いてあることも十分わかった上で、それでも自分の倫理観を問い詰めてみれば、どうしても凶悪犯人に大弁護団がついて戦う構図には違和感を覚えてしまう。これは、近代刑法のパラダイムが逆説の発生を力ずくで抑え込んでおり、賛成反対の議論以前に不自然であることに基づくものである。