犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

埋葬の一環としての裁判参加

2007-08-08 17:28:25 | 国家・政治・刑罰
刑法の構成要件においては、殺された被害者は一応法益侵害の客体として登場してくるのに対し、被害者の遺族は全く登場しない。これは、人間の自然な存在様式からすれば、非常に不自然な切り取り方である。家族関係や友人関係は、その関係自体が目的であり、人間の日常的な行動様式である。それ以外の目的は外部に存在しない。これに対して、犯罪行為とは非日常的な出来事の最たるものである。刑法の構成要件とは、非日常の枠組みを日常の枠組みに押し付ける技術である。そして、この無理な押し付けのひずみが、被害者遺族の裁判参加への自然な欲求として表れている。

家族関係や友人関係は、最初から互いの人倫的な意志によって規定づけられている。これも生死の弁証法から見る限り、根底にはお互いの死の不安が作用している。家族の共同性とは、その成員の死を看取る共同性である。これは理屈ではない。現に古今東西の地球上の人類は、このようにしか生きてこなかったし、現に生きていない。この自然の人間の行動様式が人工的な制度によって破られるのが、近代の刑事裁判である。あくまでも主役は殺人を犯した加害者であり、被害者の遺族は法廷の秩序を乱した場合には退廷を命じられる。

ヘーゲルは『精神現象学』において、次のようなことを述べている。死者はそのままでは空虚な個物となり、他に対して受動的に存在するものでしかなくなる。こうした死者の陵辱の行為を防ぎ止めるのが家族であり、家族は自ら行為を起こすことによって、死者を共同世界の仲間に引き入れる。この共同世界は、死者を破壊しようとする自然の力を抑制しする。血縁者のなすべきことは、血縁の死者を破壊から救い出すことである。

加害者は「死人に口なし」とばかりに、被害者の落ち度や正当防衛を主張する。これを目撃したならば、遺族としてはこれを絶対に否定しなければならない。これは感情ではなく、家族の共同性の論理そのものである。その関係自体が目的である家族関係は、お互いの死を自覚している人間の共同存在の本質に深く規定されている。実際に家族の一部が家族の外の人間によって殺されたならば、残された家族は、さらなる陵辱の進行を食い止めなければならない。もちろん復讐という意味ではない。埋葬の手続きの一環である。

遺族が法廷で遺影を掲げることも、加害者に対して直接問いただすことも、ヘーゲルが述べる広い意味での埋葬に含まれる。これは、他の共同態的な関係によっては決してなし得ないものであり、家族共同体の究極的な使命である。近代刑法の理念は、そもそもフォイエルバッハの功利主義であり、ヘーゲルから「人間を動物のように扱う理論である」と批判された理屈である。被害者の裁判参加は、動物ではない人間の自然な行動様式である。法律学から見れば、遺族が感情的になって法廷で暴れているのを理性の力でつまみ出すという構図しか存在しないが、これが行き詰まりを迎えるのは当然である。