犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

丸田隆著 『裁判員制度』

2007-08-07 17:13:45 | 読書感想文
「私の意見は正しい、私の意見に反対する人は間違っている」という典型的な本である。哲学の本を読んだ後に読むと、非常にわかりやすい。丸田氏は、アメリカ留学体験から得た知識をもとに、日本の裁判員制度は欠陥だらけであると主張する。そして、このような間違った制度になりかけているのは、法務省や最高裁の責任であると述べる。丸田氏は、当初の理念を失い、国民の司法参加の理想からどんどん後退していく裁判員制度の制度設計の現実に落胆しつつ、国民に対してあるべき制度を訴えようとする。根拠から主張を導く理論武装としては、データもソースも多く、完璧に近い。しかし、一歩引いた地点から理論武装という行動自体を眺めてみると、非常に虚しい。

丸田氏の主張は、極めて熱い。国民の期待に応える司法制度の構築、司法制度を支える法曹のあり方、国民的基盤の確立、国民の司法参加といった立派な言葉が並び、国民主権を定めた憲法の趣旨を力説する。その反面、8割近くの国民が「裁判員に選ばれたくない」と回答している世論調査の結果には、全く興味がなさそうである。「統治客体意識から統治主体意識へ」、「国民の司法を国民自らが実現する」、「司法に対する国民の信頼を高める」といった抽象論が並ぶが、どうにも理論倒れであり、机上の空論である。

丸田氏いわく、国民が裁判に参加するのは主権者の責務である。それはそれでいいとしても、実際問題として裁判に呼ばれてしまった場合、会社や仕事はどうするのか。同氏によれば、365日間働き続けることも立派であるが、裁判員に選ばれたことを機会に3~4日間休むことも、働きすぎの日本人にとってはちょうど良いとのことである。育児で裁判員などやっていられないという批判も多いため、同氏は裁判所には保育所を置くべきであると提案する。また、裁判員が関係者にストーカーや逆恨みをされないための方策として、毎回駐車場を別のところにしたり、帰り道のルートを変えたりすることを提案している。何が何だか、立派な抽象論から具体論に移ると、最後がギャグになってしまう。理論と実践の調和というパラダイムは、いつでもこのようなところに落ち着くようである。

裁判は、人間が人間を裁く場所である。人生が人生を裁き、実存が実存を裁く。しかしながら、政治的な議論は、どうにもこの点を捉えておらず、緊張感がない。丸田氏いわく、国民の司法参加は、統治客体意識から統治主体意識への転換を促すものであり、今や委託民主主義の時代ではなく、私人が公的なことに関わる決意と責任が求められているそうである。これは、あらゆる統治領域における市民の参加を意味し、市民とは国民主権の担い手として公共的関心を持ち、自己責任を持って社会に参画する人間のことであるらしい。国民、市民、私人、公人、このような文法でしか人生を捉えられない人間が、殺人罪を語ろうとする。これでは、人間が何に苦しんでいるのかわからないのも当然である。