犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 38・ 殺した側からは無限に言葉が出てくる

2008-04-21 13:43:33 | 言語・論理・構造
光市の母子殺害事件の弁護団は、4月12日に広島市中区で講演を行い、元少年が昨年12月に遺族の本村洋氏に出した手紙の内容を紹介している。その手紙には、「命尽き果てるまで謝罪を続けていきたい」、「生きていたいということが本村さんをどれだけ苦しめているかを知ってしまったぼくは、身の置き所がない」などと書かれていたという。この謝罪が本心であるのか演技であるのか、それは言語というものの性質上、解明することはできない。赤色・青色のスペクトル問題と同様であり、裁判における情状の点において、閉鎖的な言語ゲームの中で扱われるのみである。問題なのは、元少年側は閉じられた言語ゲームの中で無限に言葉を創作できるのに対して、本村氏の側は開かれた言語ゲームの中で絶句せざるを得ないということである。

元少年の一挙手一投足は、構成要件該当性の判断を根底から左右するものであり、法律的に意味がある。「亡くなった実母のイメージを弥生さんに重ね、甘えたい気持ちが強くなり、後ろから抱きついた」といった主張や、「激しく抵抗されたのでパニック状態になり、体を押さえ続けたが、気が付かないうちに右手が首を押さえていた」といった主張は、そのように言うや否や現実となる。言葉が世界を作る以上、元少年は詳しく思い出してみれば、いくらでもそのように考えられるからである。語り得るものは、沈黙する必要がない。「自分はそのような心理であった」と言うや否や、世界はそのように存在したことになり、他人はその中に入ることができなくなる。閉じられた言語ゲームである裁判所の事実認定は、これを証拠から強引に認定するが、真実は神のみぞ知る(もしくは神も知らない)。

これに対して、本村氏の側は、開かれた言語ゲームの中において絶句せざるを得ない。例えば本村氏は、帰宅して押し入れの中に2人の遺体を発見した瞬間について、どのように言語で記述できるのか。信じられなかった。背筋が凍った。鳥肌が立った。頭に血が上った。膝が崩れる思いだった。心臓が高鳴った。とっさに頭の中で現実を否定した。このあたりが限界である。これは、苦しい過去は思い出したくないということでなく、言語による心理描写の限界である。人間は正当にも、これを絶句という反語でのみ語る。さらには、葬儀場で棺の顔の部分の蓋が閉じられ、最後のお別れをし、火葬炉の中に棺が消えてゆく時の胸が張り裂けそうな思いは、一度でも葬儀を体験した人であれば直感的にわかる。そして、この直感を表現する言葉など、この世のどこにもないこともわかるはずである。開かれた言語ゲームにおいては、人間は絶句によって物事を語る。

元少年のほうは、いくらでも語る言葉を持っており、いくらでも新たなストーリーが作れる。そして、「命尽き果てるまで謝罪を続けていきたい」との絶対的に正しい言語を用いて、いくらでも反省の弁を述べることができる。この新たな言葉の誕生は、死刑を避けたいという効果から逆算して創作することが可能であり、それが記述へのモチベーションとなっている。これに対して、本村氏のほうは、語り得ないものを追い詰めるために、悪戦苦闘して進むしかない。ところが、本質が絶句である以上、言葉を言えば言うほど遠ざかる。さらには、特定の効果からの逆算を行う裁判の閉鎖的な言語ゲームにおいては、本村氏の言葉はすべて「遺族の被害感情」という形に変形されざるを得ない。法律的には、語り得ないことの沈黙によって示されるものには意味がないからである。かくして、被告人の能弁と、被害者遺族の絶句とが、論理の形式として不可避的に現れる。


光母子殺害差し戻し審を学ぶ(中国新聞) - goo ニュース

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