犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 32・ 死刑存置論と死刑廃止論のディベートには意味がない

2008-04-19 15:46:05 | 実存・心理・宗教
死刑存置論と死刑廃止論の争いは、人間の生命がかかわる以上、本来であれば純粋に形而上学的な議論でなければならないはずである。しかし、これがディベートやディスカッションのような形で争われると、完全に形而下的な政策論になる。現に、22日の判決において死刑が宣告されたならば、この議論は死刑存置論にとって非常に有利になるだろう。これに対し、判決において無期懲役刑が宣告されたならば、死刑廃止論にとって非常に有利となるだろう。形而下的な政策論は、有利不利の勝負によって正義や真実を決定する。

真実でなく勝負を求めるならば、それは根拠によって主張を裏付け、他者を論破し、論駁する方向に進む。人間の生命そのものを論じる際にこのような争いをすることは、無意味であるばかりか有害である。例えば、死刑確実と思われた凶悪犯人が無期懲役刑となり、十数年後に仮釈放されたところ、数日後に再び連続殺人事件を犯した。このようなことがあれば、世論における正義は一気に死刑存置論に傾く。逆に、冤罪を訴え続けた被告人に死刑判決が下され、死刑が執行された数日後に、真犯人が自首してきた。このようなことがあれば、世論における正義は一気に死刑廃止論に傾く。

このような極端な例は実際には少ないが、形而下における確率の問題である以上、これに近いことは起きる。従って、死刑存置論は冤罪の発覚を恐れるし、死刑廃止論は凶悪犯罪の発生を恐れる。それでは逆に、死刑存置論は凶悪犯罪の発生を喜び、死刑廃止論は冤罪の発覚を喜ぶのか。これは微妙なところである。反対派の論破、論駁で熱くなっているのであれば、これは相手を打ち負かすだけの何よりの有利な論拠であり、一気に勢いづくところである。これは、ディベート形式に伴う変形ニヒリズムである。「あってはならない」と主張していることが実際に起きると、論争に有利になるという皮肉である。

厳罰化を主張するならば「凶悪犯罪はあってはならない」と叫び、人権論を推進するならば「冤罪はあってはならない」と叫ぶ。しかし、論争に勝つためには、自らが「あってはならない」と叫ぶところの出来事はなければならず、反対派が「あってはならない」と叫ぶところの出来事は本当にあってはならない。従って政治的な人間は、自らが「あってはならない」と言っていたことが起きたときには、ぞろぞろと集まって怒りを表明する。この怒りの根底には、抑え切れない笑いと喜びがある。自らが大っぴらに待ち望むことはせず、反対派に不利な事実が起きたところに一気に付け込む。これも近代のニヒリズムの変形である。

BPO(放送倫理・番組向上機構)は光市母子殺害事件をめぐる報道について、多くが極めて感情的に制作されていたこと、弁護団対遺族という対立構図を描いたこと、公平性の原則を満たさなかったことなどを指摘する意見書を出したが、これは死刑存置論と死刑廃止論の政治的な対立においては非常に正しい。政治とは、自らの欲求が満たされないことに対する怒りと、それを妨害する反対派に対する苛立ちであり、ニヒリズムの変形だからである。これに対して、遺族の怒りや絶望は、このようなニヒリズムを超越している。「娘を返せ」「息子を返せ」「妻を返せ」「夫を返せ」という絶望の問いを問い続けることの絶望は、ディベートやディスカッションでどうなるものでもない。

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