犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 2・ 奪われた未来はどこへ行ったのか

2008-04-02 12:05:48 | 時間・生死・人生
少年であろうと成人であろうと、人を殺した経験がある者とない者との間には、本質的な差異が生じる。人種が違ってしまったと言っても過言ではない。これは、一度きりの人生を生きなければならない人間存在の必然的な形式である。人を殺すとはどのようなことか、殺人の経験がない圧倒的多数の者にはわからない。経験者だけが物事を正確に語れるということ、経験した者でなければ物事はわからないということも、人間存在の必然的な形式である。人間は自分の人生を生きるしかなく、他人の人生を生きることができないからである。その意味で、人を殺した経験がある人には、死刑判決を受けるか否かの大前提として、人を殺すとはどのようなことか、その意味をわかってもらわなければ話が始まらない。

死とは、時間性の喪失である。生きている者が刻一刻とその存在を明滅するならば、死者においては時間がなく、その存在は永遠かつ無である。平均寿命を超えて天寿を全うした人の死については、「未来が奪われた」という感はない。また、若くして命を落とした場合であっても、それが本人自身の病気や自然災害であったならば、「未来が奪われた」という感情は起こりにくい。そのような感情は、病魔や自然といった抽象的なものに対して成立するのみである。これに対して、犯罪による死だけは、実際に未来を奪った人間が具体的に存在している。人間が人間の時間を奪うとはどのようなことか。人間が人間の未来を奪うとはどのようなことか。これに答える権利があり、義務がある者は、その殺人者本人をおいて他にはない。

奪った未来の時間はどこへ行ったのか。それは、殺した者が持っているとしか言いようがない。奪うということは、そのような意味である。物理的な物質でない時間について、果たして奪うという行為が成立するのか、実証的に捉えればここで行き止まりである。そして、具体的な証拠による事実認定を技術的に進めることに議論が移ってしまう。しかしながら、法律的にはこれが正論であるとしても、人間の倫理は、何か大切なものを論じることを忘れているのではないかという直観を呼び起こす。生き残った者の現実において、「殺された者は未来を奪われた」という感じがするのであれば、それは実際にその通りだとしか言いようがないからである。人間は時間性の中にしか生きられず、それゆえに年を取る。生きることと老いることは同義である。人を殺すということは、その実現されなかった可能性を含めて、他者の時間性を自己の時間性において引き受けるということである。

ここにおいて、人間は初めて正当に問いうる。他者の時間性を奪い、それを自らにおいて引き受けるということは、死をもって償うということか。それとも、殺された人数分の時間性を生きるということか。ここでも、安易な言説が哲学的思考の邪魔をする。いわく、「死刑に処せられるよりも、罪を背負って生きてゆくことのほうが苦しい。死刑よりも、終身刑のほうが苦しい」。このような言説は、時間性において、突き詰め方がいかにも不十分である。終身刑になったところで、その犯人もいずれは病気か何かで死ぬ。そして、50歳でガンで死ぬか、90歳で老衰で死ぬかは、その犯人の健康次第である。さて、殺された人間の奪われた時間の長さは、その犯人の健康状態なるものによって左右されてしまうのか。犯人が殺した人数分の時間性を生きるということならば、答えは必然的にそのようになるはずである。

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