犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

永井均・小泉義之著 『なぜ人を殺してはいけないのか?』 第2章

2007-04-06 19:23:32 | 読書感想文
犯罪被害者をめぐる議論に欠けていたものは、哲学的思考の可能性である。哲学的な問いを棚上げした犯罪被害者保護政策は、技術的な側面ばかりが肥大化して、大局観を失う恐れがある。犯罪とは人生であり、犯罪被害も人生であり、それは刑法や少年法の条文だけで語れるものではない。各自の人生の問題について、他人や条文に答えを教えてもらうことは背理である。

被告人の人権と犯罪被害者の人権との調整という問題について、哲学的思考の可能性を追求するならば、それは根底にウィトゲンシュタイン哲学における「独我論の伝達」の問題に突き当たる。人権とは、かけがえのない「個人」の尊厳に基づくものであるが、その「個人個人」にとって人権が保障されることによって、人権が一般化してしまう。世界でたった「一人」の人権が、「一人ひとり」の人権となることによって、哲学的な緊張感が失われてしまう。絶対的な単数形が、いつの間にか複数形に変形されているからである。

自分の人生は自分の人生であり、自分が他人の人生を生きることはできない。また、他人の人生は他人の人生であり、自分が他人の人生を生きることはできない。これと同じように、自分の人権は自分の人権であって、他人の人権が自分に保障されることはない。また、他人の人権は他人の人権であって、自分の人権が他人に保障されることはない。これはお互い様である。自分も他人も、お互いに「多くの人間の中の1人」であって、人間の数だけ人権がある。その反面として、自分も他人もお互いに「世界中でたった1人の人間」であって、世界でたった1つの人権が保障されている。

このような哲学的な「独我論の伝達」の問題は、超越的な視点を採ってしまえば、あっという間に消える。「自分と他人が生きているこの世界」を、客観的な視点に立って見下ろしてしまえば、自分の人権が他人の人権を存在させており、かつ他人の人権が自分の人権を存在させているという独我論の反転の構造は見えなくなる。「国民一人ひとりが、自分がかけがえのない存在であると同時に他人もかけがえのない存在であることを真に実感し、お互いの人権を尊重し合いましょう」といった論理を聞かされれば、何となく納得してしまう。

超越的な視点に基づいて被告人の人権と犯罪被害者の人権とを調整しようとすれば、どちらの人権も相対化されて、結局は政治的な政策問題に収まる。このような議論は、質の悪い水掛け論に終わる場合が多い。被告人の人権とは、伝統的に自分の人権は自分の人権であるという唯我独尊の人権論であって、それは哲学的な独我論の対極にある。唯我独尊とは自己中心であり、自己が中心となるためにはその周辺に他人が存在していなければならないが、独我論ではそもそも自己中心になることができないからである。

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