犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

河原理子著 『犯罪被害者』 前半

2007-04-02 19:44:01 | 読書感想文
犯罪被害者遺族の苦悩は、犯罪捜査という「公益」と、大切な人の死という「私的な部分」とのせめぎ合いに基づいている。大切な人の死は、それが犯罪によるものであろうとなかろうと、極めて個人的なものである。このような個人の人生に関する問題の前には、「公益」などという天下国家の些事は姿を消す。しかしながら、大切な人の死が犯罪による場合には、近代法治国家は「公益」によって「私的な部分」を強制的に奪う。

このような被害者遺族の苦悩は、近代法治国家における捜査から裁判に至る制度そのものが被害者を疎外するシステムになっていることに基づく。近代立憲主義と民主主義は、刑法や刑事訴訟法の精密な条文と裁判制度を生み出した。これらの壮大な構築物は、個人の人権を定めていることにより、逆に必然的に全体主義となる。「私的な部分」は、強制的に「公益」に取り込まれる。この点に関しては、人権論も反人権論も同じ穴のムジナである。

近代法の理念は、それが「近代法の理念」であることによって、まさに普遍的ではないことを示している。普遍的なものであれば、それは時代を超えて真実であり、古代にも中世にも真実であったはずである。時代を超えた真実とは、人間は大切な人の死を悲しむ存在であるということに尽きる。そして、それが他者による殺人行為によってもたらされた場合には、さらなる深い悲しみと怒りを伴うということである。現在も歴史の真っ只中であり、今後も「近代法の理念」はいくらでも変わりうるが、人間が大切な人の死を悲しむ存在であることは変わらない。

犯罪被害者遺族の立ち直りを軽々しく論じる立場は、人間が生死という弁証法的な事実をそのまま生きている現実を見落としている。人間は、通常の病死や寿命であっても、大切な人の死を悼む。そして、仏壇に手を合わせ、墓参りをして、いつまでも故人を偲ぶ。大切な人の死という現象は、残された人間にとっては、その人の最期の瞬間の記憶と切り離すことができない。ここで被害者遺族に立ち直りを求めることは、「殺されたこと」と「死んだこと」とを切り離すよう要求することに他ならない。そのような器用な心理状態を作ることなど、人間にはもとより不可能である。

これと同じように、「罪を憎んで人を憎まず」という心理状態も、人間には不可能である。他人を憎んだり憎まなかったりするのは人間であって、その人間が生死という弁証法的な事実を生きているという現実を見るならば、このような議論は明らかに無理である。「罪を憎んで人を憎まず」という格言は、実際にはそのようなことは無理難題であるという逆説を前提とした上で、欺瞞的に意味を持つにすぎない。

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