楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

雲巌寺 十景 五橋 三井(芭蕉の道を歩く 31)

2012年12月15日 10時57分50秒 | 芭蕉の旅
(雲巌時入り口の朱塗りの橋は瓜瓞橋(りてっきょう)


(那須・黒羽7)
黒羽から雲巌寺までの長い道のりは全て上り坂になっている。
今でも道路に人の姿を見るのは稀で、行きかう車も少ない。
滞在先の浄法寺邸から12kmも先にある、
そんな山の中に位置する「東山 雲巌寺」を、
芭蕉が訪ねたのは何故だろう。
それは雲巌寺の山中に仏頂和尚の庵があったからだ。
芭蕉が深川にいたとき、同じく深川の臨川寺に仏頂和尚がいて、
芭蕉と交流があったからだ。

黒羽 雲巌寺を訪ねた芭蕉は、「おくのはそ道」に次のように書いている。

「当国雲巌寺のおくに、仏頂和尚山居跡あり。
・縦横の五尺にたらぬ草の庵
          むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞こえ給ふ。
―中略ー
山はおくあるけしきにて、谷道遙に、松杉黒く苔したりて、
 卯月の天今猶寒し。十景の尽る所、橋を渡って山門に入る。」

仏頂和尚の庵は縦横五尺に足りぬ庵は、
今のメートルに直せば150cm四方の広さであった。
雨風さえ防ぐ事が出来れば良かったと思われ、
禅僧にふさわしい住まいであったように思われる。

ここで詠んだ芭蕉の俳句は、

・啄木(きつつき)も 庵はやぶらず 夏木立

であるが、この庵を想像すると、芭蕉の気持ちが良く理解できる。
きつつきも、高徳の僧侶が住む庵はつつくことなく、
安泰であろう、と詠んだに違いない。
(現在は仏頂和尚の山居の跡は、
通行止めになっていて見ることはできない。)


(仏頂和尚山居入り口と思われる所、閉鎖されている山道)

この文中にある、
「山はおくあるけしきにて、谷道遥かに、松杉黒く苔したたりて・・・」
は、山や谷のある景色、遥かに長い道のり、松や杉が天を覆い、
苔むした岩からは清水がしたたり落ちている。
そんな様子が良く表現されている。

その後に続く「十景の尽る所、橋を渡って山門に入る。」
の「十景」は曾良の俳諧書留に、
十景、五橋、三井が記されているので、理解できたが、
それがどこにあるのかが解からなかった。

雲巌寺に行き本堂で頭を下げる段になって、
賽銭箱の横に「東山 雲巌寺」の小冊子があり、
金千円なりで求めることが出来るが、
その小冊子の裏表紙に、
地図入りで十景、五橋、三井(さんせん)が掲載されていた。

(雲巌寺十景、五橋、十井が載っている冊子の裏表紙)

それによると、十景の内、海岩閣、十梅林、飛雪亭、は無くなっており、
竹林塔は立入禁止で確認できない。
確認できるのは、鉢盂峰(はつうほう)、玉几峰、竜雲洞、水分石、千丈石、
玲瓏岩である。
五橋はすべて確認でき、三井は、岩虎井、神竜池、はあるが立入禁止で確認できず、
都寺泉(すうずせん)は何処にあるかも不明である。


(竹林塔はこの観音堂の後あたりに)

先ず十景の内、鉢盂峰(はつうほう)、玉几峰、竜雲洞については、
方丈、仏殿、山門をむすぶ一直線上を南に向った山を鉢盂峰(はつうほう)、
鉢盂峰(はつうほう)の左へ延びるなだらかな稜線を玉几峰、
さらに左にある山の頂きが竜雲洞を指している。
水分石、千丈石、玲瓏岩は、五橋のうちの一つ、
独木橋(どくもっきょう)の廻りにある。

(方丈を背に鉢盂峰、玉几峰、竜雲洞が見える)

(水の流を分けている水分石)

(白糸の滝が流れる千丈石)

(紅葉に染まる玲瓏岩)

北西の背後を山で囲まれた雲巌寺は、
南東を武茂川で囲まれている。
雲巌寺に入るには、囲まれた武茂川を渡らなければならず、
渡るのに必要なのが五橋となる。

五橋の最初は独木橋(どくもっきょう)、
雲巌寺入り口の朱塗りの太鼓橋が瓜瓞橋(りてっきょう)、
雲巌寺裏門前の橋が瑞雲橋、
これを過ぎて道なりに進むと右手にある涅槃橋、
最後が梅船橋で、
この五橋が、雲巌寺の前面を取り巻く武茂川を渡る橋である。

(独木橋)

(五橋の一、瓜瓞橋(りてっきょう)雲巌寺入り口の朱塗りの橋)

(瑞雲橋)

(涅槃橋)

(梅船橋)

(武茂川)

さて最後に三井であるが、神龍池は方丈の東にあるようであるが、
立入禁止で確認できず、巌虎井は三仏堂前の庭にあるが、
これまた立入禁止で柵の中に入れずおよその場所を、
カメラにおさめたが、確かな場所はわからない。
都寺泉(すうずせん)にいたっては場所もわからない。

(三井の一、巌虎井は木の根元あたり(推測)

しかし芭蕉は、「十景の尽る所、橋を渡って山門に入る。」とあるから、
十景を観て、橋を渡って雲巌寺に入ったのであろう。

(十景の一、美しい十梅林跡)

・山深き 紅葉にひそむ 雲巌寺  hide-san
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夕焼けと富士

2012年12月12日 11時16分24秒 | つれづれなるままに考えること
快晴の毎日が続き、寒さが更新している。

冬の空は塵が風に飛ばされ、空気が綺麗で遠くまでよく見渡せる。

我が家のベランダから西を望めば、

夕焼けに映える街並みの中に、富士山が雄姿を見せる。

(夕焼けが美しい)


(夕焼けの右下に見える富士山)


(富士山の雄姿1)


(富士山の雄姿2)
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黒羽 雲巌寺(芭蕉の道を歩く 30)

2012年12月10日 10時28分37秒 | 芭蕉の旅
(「東山 雲巌寺」の入り口、階段の上に山門が見える)
Dsc00828_2

(那須・黒羽6)
芭蕉の館を出て、黒羽雲巌寺へ向う、
国道461号線を12kmあると言う。
橋を渡って、(前田T字路)の信号を右折して、
稀にしか対向車がない田舎道をひたすら走る。
山が迫ってきて、雲巌寺左の矢印を左方向に進む。

欄干にある擬宝珠が金色に輝いている橋を渡る。
変だなと首をかしげると、
次の橋の擬宝珠は銅製の錆びてくすんだ色をしている。

まもなく右側に雲巌寺バス停があり、駐車場がある。
バスは終点で、ここでUターンできる広い場所とバスを待つ小屋がある。
道路を挟んで左側が写真でも良く見る、
「雲巌寺」と長い階段と朱塗りの欄干を持つ太鼓橋がある。

(雲巌寺の入り口、手前の太鼓橋を渡る)
Dsc00828_3

ここで奥の細道を思い出した。
「卯月(うづき)の天いま猶(なお)寒し。
 十景尽くる所、橋をわたって山門にはいる。」

とある。

曾良の「おくのほそ道―俳諧書留」に、
十景、五橋、三井(さんせん)について述べている。

雲巌寺十景:
海岩閣、竹林 、十梅林、竜雲洞、玉几峰(ぎょっきほう)、
鉢盂峰(はつうほう)、水分石、千丈岩、飛雪亭、玲瓏岩。

五橋:
独木橋(どくもっきょう)、瑞雲橋、瓜瓞橋(りてっきょう)、
涅槃橋、梅船橋。

 三井(さんせん):神竜池、都寺泉(すうずせん)、岩虎井。

これらは一体どこを指すのか、解らなかったが、
黒羽 東山雲巌寺の方丈で手を合わせたとき、
その横にあった「雲巌寺の解説兼絵葉書」を、
お布施 金千円也で求めたものに記されていた。

その雲巌寺解説書の表紙には「東山 雲巌寺」とある。

その冊子によれば、
雲巌寺十景の内、海岩閣旧跡は、
方丈の裏に当るが、豊臣秀吉の北条責めの時、
那須一族が雲巌寺にこもったため焼失したと言う。

十景の内
鉢盂峰(はつうほう)は、方丈、仏殿、山門を南に一直線に結んだ、
向こうに見える山を指し、
その左になだらかに上る所を玉几峰(ぎょっきほう)、さらに左の山頂があるところが竜雲洞という。

(方丈を背に、仏殿、山門を南に一直線に結んだ先の山が鉢盂峰(はつうほう)、
その左のなだらかに上る所が玉几峰(ぎょっきほう)、その左の山の頂が竜雲洞)
0007

五橋のうち、
瓜瓞橋(りてっきょう)は雲巌寺入り口の朱塗りの橋で、
瑞雲橋は雲巌寺見学後の退出する裏口に掛かる橋。

その他の十景、五橋、三井についても、
詳しいことは東山雲巌寺の小冊子を参照頂きたい。

さて、朱塗りの欄干橋―瓜瓞橋(りてっきょう)を渡り、
階段を登ると山門、その奥が仏殿、手前右側が鐘楼、
左手に佛頂禅師と芭蕉の句歌碑があり、

佛頂禅師
・縦横の 五尺にたらぬ 草の庵(いお)
               むすぶもくやし 雨なかりせば 
芭蕉翁 
 ・啄木(きつつき)も 庵(いお)は破らず 夏木立   

とある。

(山門の先にある仏殿)
0000
(右手の鐘楼)
0003
(左の句歌碑)
0002

一つの碑に和歌と俳句が並んで刻まれている。
仏殿右横の階段を上がって、左の方に美しい方丈がある。
この方丈の裏が海岩閣旧跡で今は無い。
方丈の扁額には、

「人面は知らず何れの処にかえる、桃花舊に依って春風に咲(え)む」とある。

(美しい方丈)
0004
(方丈の扁額)
0005
(坂の左手を昇った所に佛頂和尚の山居の跡はあるらしい)
0008

庫裏の先を裏山に登ったところが、
芭蕉が訪ねた仏頂和尚山居の跡だそうだが、
今は通行止めになっているのは残念である。
芭蕉が訪ねた仏頂和尚山居の跡こそ、
「おくのほそ道」にある

「当国雲巌寺のおくに、仏頂和尚山居の跡あり。

・縦横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵(いお)
          むすぶもくやし雨なかりせば

 と松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞こえ給ふ。」

の仏頂和尚の歌も空々しく聞こえてくるからだ。

縦横 五尺に足らぬ草庵ー畳半畳分ーの佇まいをどんなであったか、
見てみたいものと思った。
修行の禅僧が世捨て人として生きる空間を。
この仏頂和尚と芭蕉は、深川の臨川寺(りんせんじ)からの親交があった人である。

帰りは方丈と逆に右手へ庫裏の横を抜けて、
階段を降りて三仏堂に突き当たり、
なだらかな道を右へ下ると裏門に出る。

(三仏堂)
0005_2

(裏門)
0009

裏門を出たところで、道路の落ち葉を掃除している小母ちゃんがいた。
「ご苦労様です」と声を掛けると、
「こんにちは」と返事が返ってきた。
このところ急に寒くなってきて、いくら掃いても落ち葉は尽きない。
「どんなにやっても、きりがないですね」と話すと、
「やらないより、掃いたほうが良いでしょう。
このお寺は住職と小坊さんの二人で、
門前にまで手がまわらないと思うので、
頼まれているわけではないが、こうしてきれいにしているのです。」
「御功徳な事でございます。その心がけでは、極楽へいけますよ。」
と言って別れたが、小僧と住職の二人にしては、
あの広い伽藍を、奇麗に維持するのはただ事ではないと思われる。

この裏門を出て道路に出ると橋があり、瑞雲橋という。
五橋について案内看板があり、これで五橋が良くわかった。

(瑞雲橋)
0008_2
(五橋に加えて新道が出来たので八橋となっている)
0007_2
(武茂川の清流)
0009

時計を見ると、17時近く山際は薄暗がりになっている。
急いで駐車場に戻り帰宅した。
帰宅すると20時で、本日の歩行は11818=約7kmであった。
車の走行距離は400kmを越えていた。

(薄暗くなった鉢盂峰(はつうほう)
0010

・短さは 今の時間と 秋の夕暮れ  hide-san



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大雄寺と芭蕉の館(芭蕉の道を歩く 29)

2012年12月06日 10時25分04秒 | 芭蕉の旅

(大雄寺)

(那須・黒羽5)
修験光明寺跡をでて凡そ四キロ、那珂橋西の信号を右折して、
那珂川を渡る。落ち鮎の簗漁(やなりょう)が盛んな所で、
生きの良い鮎の塩焼きが食べられるのだが、
時間も迫っているし、場所も知らない。
橋を渡って最初の信号を左折すると、黒羽観光交流センターへ出るはずである。
信号を左折すると黒羽観光交流センターはすぐ見つかった。
大田原市役所の黒羽庁舎の中にあるからで、
庁舎は大きな駐車場を備えた立派な建物である。

黒羽観光交流センターを右に見て、最初の交差点を右折すると、
道路は上り坂になり道なりに行くと左手に石柱が見える。
大雄寺で、手前左側に駐車場もある。
その先三~四十メートル左に芭蕉公園入り口があるはず。

先ずは大雄寺に入る。
参道入り口の両側に石柱があり、
右側に黒羽山、左側に大雄寺の文字が見える。
少し行くと長い階段が見え、
数段上に右手に「不許葷酒入山門」の石柱が建っている。
(「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」と読み、
葷酒はねぎ・にらなど臭気のある野菜と酒のことで、
臭気と酒気のある者は山門内に入る事を許可しない、という意味。
永平寺など禅宗のお寺の門前に建てられている事が多い。)

(不許葷酒入山門の石碑)

石の階段を上がっていくと、左右に仁王の石造が置かれている。
右側が阿形の仁王で左が吽形の石造で、
右から読むと阿吽の石像と言う事になる。

よく阿吽の呼吸と言うが、
もともとは、呼吸を意味するもののようですが、
二人以上が一つの事をするときの、
微妙 なタイミングや気持ちの一致を表す言葉である。

「阿」は考えてみれば「アイウエオ」の「ア」であり、
辞書の一番最初に出てくる。
「吽」辞書の最後の「ン」であるから、
「ア」から「ン」までに辞書に出てくるものは、
この世の中の全てであり、喜怒哀楽、艱難辛苦、
自然天然、森羅万象の
全ての間を通り抜けて到達する本堂、
すなわち、極楽を意味している。

神社仏閣の阿吽の仁王、阿吽の獅子や狛犬の間を抜けて、
お祈りをすれば、極楽へ行けると言う事であろう。

その間の階段を登ると、山門がある。
山門を抜けると、左手に観音菩薩立像があり、
「黒羽藩主大関氏累代の墓」の案内が左を指している。

(右側の阿像)

(左側の吽像)

(黒羽藩大関氏累代の墓の案内が見える)

さらに先にある階段を登ると「大雄寺参禅道場」の墨痕鮮やかな看板が見える。
ここは禅道場への渡り廊下になっている。
渡り廊下を跨ぎ通ると、横に長い見事な総茅葺の本堂、
参禅道場、庫裏が見える。
先客はあるものの、鳥のさえずる声が聞こえるだけで、
水を打ったように静かである。
静かに手を合わせ、頭をたれて本堂から下がる。

(大雄寺参禅道場)

(渡り廊下)

(茅葺の本堂)

大雄寺を出て、少し進むと右側に駐車場があり、
芭蕉公園駐車場と書かれている。
左側には、大きな「芭蕉公園」の看板がある。
山道を入ると、すぐ左に階段があり、その上の方に旧浄法寺桃雪邸がある。

芭蕉は「おくのほそ道」に次のように書いている。

「黒羽の館代浄法寺何がしの方に音信(おとづ)る。思ひがけぬ主(あるじ)の悦び、
 日夜語りつづけて、其の弟桃翠など云うが、・・・」
とある。

芭蕉は黒羽藩大関氏の城代である浄法寺桃雪の家を訪ねた。
大層歓迎されてよほど居心地が良かったのであろう、
其の弟桃翠の家にも泊まったりしながら、
14日間も滞在している。

ここ浄法寺邸跡に芭蕉句碑、

・山も庭も 動き入るるや 夏座敷  芭蕉

がある。

(芭蕉公園の入り口看板)

(旧浄法寺桃雪邸)

(「山も庭も・・・」の句碑)

さらに進むとT字路となるので、ここは右折すると左手に飲食店があり、
又道路にぶつかる。
途中の芭蕉句碑、

・田や麦や 中にも夏の ほととぎす  芭蕉

がある。

(「田や麦や・・・」の句碑)

ここを左折すると、竹薮の中を通るようになり、
右へ上る階段がある。
進むと広場に出て、「芭蕉公園」である。
山間部にしては、かなり広い場所で、広場の左手に句碑が建っている。

・鶴鳴くや その声に芭蕉 やれぬべし   芭蕉

とある。

(竹薮の道)

(芭蕉公園)

(句碑がある公園)

(句碑「鶴鳴くや・・・」)

その先、左手にもう一つ昇りの階段とその上に東屋があり、
昇っていくと芭蕉の館が、広場の向こうにある。
広場の左には、史跡「黒羽城址 三の丸跡」の標柱があり、
その奥に奥の細道の文学碑とともに、

・かさねとは 八重撫子の 名成るべし  曾良

の句が載っている。

(もう一つの階段道と東屋)

(芭蕉の館)


(黒羽城址 三の丸の標柱)

(「かさねとは・・」の句がある文学碑)

芭蕉の館前には馬に乗った芭蕉と曾良の銅像があり、
その脇にも文学碑が置かれている。

館の中の電灯が気になり、早々と芭蕉公園を出る。

(芭蕉の館2)

(騎馬の芭蕉と曾良の銅像)


もうすこし あればと願う わがままに 
            時は静かに 流れ行くなり   hide-san
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西教寺、翠桃のお墓と修験光明寺跡(芭蕉の道を歩く 28)

2012年12月02日 10時11分16秒 | 芭蕉の旅
(西教寺本堂)

(那須・黒羽4)
玉藻稲荷神社より引き返し、突き当った道路を左折し、
交差する道を右へ右へと行き、次の交差点を右折すると右側に西教寺がある。
那須の篠原の道は分かに分かれていて、非常に判りづらい。
何度も、交差点で引き返し、引き返ししながら、西教寺に到着した。

奥の細道で、(那須野は目印の無い道で、道なれたこの馬に乗っていき、
馬が止った所で返してくださいと、野良の農夫が馬を貸してくれた。)
と芭蕉が書いている様に、回りが水田の道路は、
地図がなければ動きが取れない。
地図はあっても、折れ曲がる道が判りづらく、
人に尋ねようにも人がいなくて、進むのに苦労する。

この西教寺には、曾良の句碑がある。

・かさねとは 八重撫子の 名成るべし   曾良

である。

(曾良の句碑)

(「かさねとは・・・」の句碑)

奥の細道にある、
馬を借りたあとを小さな女の子が追いかけてくる。
名前を聞くと「かさね」という。そこで曾良が詠んだ句である。

西教寺の手前を左に入り、水田の中を道なりに進むと、
左手に十数基並んだ墓地があり、翠桃の墓がある。

翠桃については、奥の細道で、
(那須の黒羽という所に知人(しりびと)あれば、
是より野越にかかりて、直道(すぐみち)をゆかんとす。
―中略―
 黒羽の館代浄法寺何がしの方に音信る(おとづる)。)

と書いている。

(翠桃の墓)

館代とは城代のことで、黒羽の城代 浄法寺桃雪の家と、
弟の翠桃の家を交互に泊まり、奥の細道で最大の十四日間逗留している。
その翠桃のお墓である。
墓碑が並んでいる写真の一番左の墓碑が翠桃のもので、
碑面の「不説軒一忠・・・」までの法名は読むことができる。


(左端が「不説軒」の法名がある翠桃本人のお墓)

また兄の桃雪の住まいについては、「旧浄法寺邸」として、
芭蕉公園の入り口に復元されている。

旧住居の玄関に、ご近所の女性が数人休んでいらっしゃった。
顔を出して挨拶すると、
「美人が揃っているので驚かれたでしょう。」と声をかけられた。
昔鳴らした美女たちが、玄関先にずらりと並んで休憩中であった。
ボクもそれ相応な年齢であるから、驚きもせず、
「芭蕉はどの部屋に泊まられたのか、どちらの美人の方がご存知ですか?」
とお訪ねすると、中でも少し若作りの美人(?)が、
「一番奥の部屋です。」指差して答えた。
「有難うございます」と答えて三間続きの座敷を、外側から見に行く。
城代のお邸にしては少し狭いと思われたが、
今でも田舎、と思える城代の家としては、充分であったに違いない。

(昔の美人が座っていた旧浄法寺邸跡)

(浄法寺邸の一番左の座敷に芭蕉は泊まったと言う)

話が脱線してしまった。
翠桃のお墓で、地面が食い込むのではないかと心配しながら、
車をUターンさせ、修験光明寺跡へ向う。
案内に沿って、左折すると三叉路に出て、
どれを行けば良いか車を止めて思案していると、
運良く車が通りかかったので、地図を見せながらお訪ねする。

「一番右側の道を行くと案内があります」男性は親切に教えてくれた。
人っ子一人見ない田舎では、会話をできる人がいて、
お役に立てることが余程嬉しいらしく、
満面の笑みをたたえて教えてくださった。

「修験光明寺跡」は案内看板が、
山すその道路わきの草地に建っているだけで、
修験光明寺行者堂跡らしきものは見えない。
それもその筈、光明寺行者堂跡は左の山の中へ入らなければならない。

(修験光明寺跡の案内)

(枝が覆いかぶさった山道の階段)

左手の木が追いかぶさる山に入ると階段が見える。
これからどんな深い山に登るのかと、恐る恐る昇ると、
階段は意外に少なく、すぐ頂上らしき所についてしまった。
左手を見ると、句碑が建っている。

・夏山に 足駄をおがむ かどでかな   はせを

芭蕉の句碑である。

(修験光明寺行者堂跡の句碑)

修験光明寺行者堂跡と伝えられているが、
今はこの句碑しかない。
この句碑は、阿部能成(あべよししげ)氏の揮毫であるという。
阿部能成氏は、ボクが結婚するころまで、学習院大学の学長で、
もと文部大臣であったので良く覚えている。
今の平成天皇が学ばれたころの学長の筆になるという。

修験光明寺行者堂跡をでて、大雄寺へ向う。

(安部能成の揮毫という句碑)

・木洩れ日に 碑文が浮ぶ 行者堂   hide-san
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