佐倉市議会はしおか協美
市政にキョウミ
 



久しぶりにお会いした友人、

お元気そうで何よりで、

雷電の里うどんをお土産に頂きました。

雷電神社⛩は雷除けだそうですが、

「雷電くるみの里」と道の駅になっているくら

い東御市生まれの雷電は天下無双力士として知

られていますし、佐倉市臼井にも石碑とお墓が

あるのでとても嬉しかったです。

そもそも生まれは1767年信濃国小県郡大石村

(現東御市滋野乙)。雷電の幼名太郎

吉が少年だったある夏の午後、母のけんが庭で

据風呂に入っていたところ、急に雷鳴ととも

に激しい夕立がしてきたので太郎吉は、母を風

呂桶ごとかかえて、家の土間に運び込んだとい

う親孝行な逸話があったり、更には、細く険し

い碓氷峠の山道を荷を積んだ馬をひいてきたと

ころ、加賀百万石のお殿様の行列に出会い、せ

狭い道、よけることもできず困った太郎吉は荷

をつんだ馬の足を持って目よりも高くさしあ

げ、無事行列をお通しし、「あっぱれじゃ。」

とお殿様からお褒めにあずかったと

の逸話が残っています。

1784年17才で江戸相撲に入り、

恵まれた素質と熱心な稽古の甲斐あって、1790

年には関脇優勝。

大関に昇進し、16年27場所の長期間にわたり

大関の栄位を保持し、生涯成績は254勝

10敗、勝率96.2%という歴代最強の勝率でした。

その強さを証明する一つとして、雷電には禁じ

れた手が三つ、

「張り手」「かんぬき」「突っ張り」を使えば

必ず相手に怪我をさせるからというので封じら

れたそうです。

雷電は1811年、腰痛のため惜しまれつ

つ引退。

その後、松江藩の殿様松平治郷(不昧

公)は、1788年松江藩に召し抱えました。

雷電は、お抱え力士として活躍し雲州関為右衛

門と自らも称し、藩務にも精を惜しまず、引退

後は松江藩相撲頭取を任ぜられたそうです。彼

がいかに厚遇されたかを知るに十分なものが、

松江市にある松平家の累代の霊廟の一隅に雷電

の墓があるので一度は墓参してみたいと思いま

す。その後33歳で故郷に帰り家を立派に再興。

雷電は臼井臼井上宿出身の八重(おはん)を妻

としてめとり1825年59歳、この地臼井

で亡くなり、亡骸は江戸まで運ばれて赤坂の報

土寺に土葬されました。

臼井(旧淨行寺)にも墓所が作られ祀られ、

後に妻が所持していた遺髪は郷里の長野県東御

市と松江(西光寺)に分けられ祀られました。

4箇所の墓所は現存していますが、

親子三人で葬られているのは臼井だけです。

佐倉・臼井の地に縁の深い雷電爲右衞門の





ご命日の法要が上の写真の石碑前にて

毎年2月11日に

ありますので是非、こちらもいらして下さい。


 
 
 
 

 

 


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