ファリード・ザカリアと同じように、アメリカ後の世界を展望した興味深い本が、ポール・スタロビンの「アメリカ帝国の衰亡」、原書のタイトルは、そのものずばりの「AFTER AMERICA」である。
冒頭のアメリカの台頭と凋落のところでの論旨が、非常に面白くて、日本の経済社会の推移とも良く似ていて、参考になるので、この点を踏まえて、日本の将来を考えてみたい。
歴史上の「もしも・・・」が、すべてアメリカに有利に働き、時として相手の不運がアメリカに思わぬ幸運を齎して、アメリカと言う超大国は、「そもそも偶然に生まれた帝国だった」と言う著者の視点が非常に興味深いのだが、そのアメリカの時代がピークを過ぎて、世界のいたるところで、既にアメリカ後に向けた動きが始まっていると言う前提で、アメリカの覇権が終焉を迎えた後の世界を展望している。
多極化世界の実現や世界政府の誕生など色々な仮説を展開しているのだが、これらの論点については、後日、ブックレビューで論じてみたい。
さて、アメリカが世界で最も豊かな国になったのは、1905年で、この時点で、一人当たり国民総生産で、当時の覇権国家イギリスを追い越して「アメリカの世紀」が幕を開けた。
スタロビンは、アメリカ経済が急成長したのは、普遍的な経済原則をうまく使いこなした結果でも、自由市場のマジックでもなんでもなく、今日の中国やインドに急速な発展を齎したのと同じ、混沌たる経済環境の産物だったのだと言う。
独立後、経済社会の発展のために、イギリスの法制度や経済社会体制やシステムを積極的に導入したのだが、実際には、経済が一気に拡大した19世紀のアメリカほど法が軽視された社会はなく、その時代の産業を支配したのは、法の論理ではなく、泥棒男爵や胡散臭い三流実業家たちの論理だったと言うのである。
泥棒男爵とは、19世紀後半以降、石油産業を独占して巨万の富を築いたジョン・ロックフェラーや私利私欲のためなら不正取引をも厭わなかった大物実業家や銀行家たちに与えられた侮蔑的ニックネームである。
スタロビンは、彼らが如何にして法を操作し、如何に法の精神を蔑ろにしたか、一貫して政府の力の及ばないところで事業を展開し、徹底して不正な取引を行っていたかは、大陸横断鉄道敷設事業が如実に物語っていると言う。
これら泥棒男爵が牛耳っていた独占資本システムを、更に補強するために作られたのが国際金融センターの「ウォール・ストリート」で、アメリカが最も混乱を極めていた南北戦争の時代に誕生し、政府の規制外で成長した。
(ロンドンの金融センター「シティ」も、同じような似たり寄ったりの必ずしも誇れない歴史を持っているようで、このあたりは、浜矩子教授の「ザ・シティ金融大冒険物語」を読めば面白い。)
金融危機の張本人としてオバマ大統領が、greedyだと糾弾しなくても、ウォール・ストリートは、そもそも誕生からして、由緒正しい(?)のである。
20世紀後半から、軍事目的で開発されたインターネットを民間に開放して引き起こされた産業革命、すなわち、ICT革命が、自由市場経済を標榜するアメリカの企業家精神に火をつけて、再びアメリカ経済を活性化させて、マイクロソフトやインテルと言った先進的な企業を生み出し、更に、グーグルなど多くの21世紀型の企業を排出し続けている。
これらのダイナミックな動きも、泥棒男爵とは全く違う風土土壌だが、アメリカには、自由な天地を求めて、下克上を厭わずに、縦横無尽・自由闊達に企業活動が出来る自由市場と言う環境があったればこそで、ドラスチックに古い経済社会を破壊しつつ新しい活路を切り開きながら、快進撃を続ける中国やインドと同じような土壌が、息づいていると言うことであろう。
「清水、魚棲まず」で、弱肉強食、下克上の混沌状態の経済社会の方が、バイタリティがあって、これこそ、ケインズの言う「アニマル・スピリット」の発露を誘発する。なまじっか、社会全体が、小賢しくなって、革新的経営戦略の追求など経営の質の向上ではなく、表面面の内部統制システムにばかり腐心しているような社会には、夢のある明日を生み出すパワーがないと言うことであろうか。
21世紀に入って、小泉竹中経済路線で、市場原理を活性化しようと言う動きが功を奏したのか起業やベンチャーが活発化したのだが、ホリエモンや村上ファンドを叩き潰してしまってからは、全く、泣かず飛ばずで、新規事業や新産業の登場は鳴りを潜めて寂しくなってしまった。
最早、日本には坂の上の雲がなくなってしまったかのようである。
更に困ったことには、不況の影響で株価が低迷して、企業の時価総額が異常に下落してしまって、今や日本の名門企業もバーゲン価格となり、何時でも、中国やインドのバーゲンハンターや、技術や販路を渇望している新興国企業のM&Aの標的と成り下がってしまっている。
さて、話は飛ぶが、何故、アメリカが凋落して行くのかと言うことについて、スタロビンは、フロンティアと楽観性の消失が重要な要因だとしている。
生命のリスクをも厭わぬパイオニア精神を涵養してきたフロンティア、そのフロンティアを追い求めて来たアメリカも年齢を重ねて、愈々、「フロンティア後」の世界に入り込んでしまった。小学校で「鬼ごっご」は駄目だと言うような過保護社会が全米に蔓延し、アメリカ人がリスクを避けるようななって、リスクにどれだけ耐え得るかと言う「リスク耐性指数」が異常に下落してしまったと言うのである。
また、「世界一楽観的な国」であったアメリカが、中国やインドなどの新興国や発展途上国に遅れを取って、アメリカより悲観的なのは、パレスチナ人、独仏伊と日本だけになってしまったと嘆いている。
このスタロビンの話は、アメリカの話なのだが、全く、日本に当て嵌まる話であり、まだ、若さと活力が残っているアメリカと比べて、名実ともに老体化している日本の方が、もっと深刻な筈だと言う気がしている。
冒頭のアメリカの台頭と凋落のところでの論旨が、非常に面白くて、日本の経済社会の推移とも良く似ていて、参考になるので、この点を踏まえて、日本の将来を考えてみたい。
歴史上の「もしも・・・」が、すべてアメリカに有利に働き、時として相手の不運がアメリカに思わぬ幸運を齎して、アメリカと言う超大国は、「そもそも偶然に生まれた帝国だった」と言う著者の視点が非常に興味深いのだが、そのアメリカの時代がピークを過ぎて、世界のいたるところで、既にアメリカ後に向けた動きが始まっていると言う前提で、アメリカの覇権が終焉を迎えた後の世界を展望している。
多極化世界の実現や世界政府の誕生など色々な仮説を展開しているのだが、これらの論点については、後日、ブックレビューで論じてみたい。
さて、アメリカが世界で最も豊かな国になったのは、1905年で、この時点で、一人当たり国民総生産で、当時の覇権国家イギリスを追い越して「アメリカの世紀」が幕を開けた。
スタロビンは、アメリカ経済が急成長したのは、普遍的な経済原則をうまく使いこなした結果でも、自由市場のマジックでもなんでもなく、今日の中国やインドに急速な発展を齎したのと同じ、混沌たる経済環境の産物だったのだと言う。
独立後、経済社会の発展のために、イギリスの法制度や経済社会体制やシステムを積極的に導入したのだが、実際には、経済が一気に拡大した19世紀のアメリカほど法が軽視された社会はなく、その時代の産業を支配したのは、法の論理ではなく、泥棒男爵や胡散臭い三流実業家たちの論理だったと言うのである。
泥棒男爵とは、19世紀後半以降、石油産業を独占して巨万の富を築いたジョン・ロックフェラーや私利私欲のためなら不正取引をも厭わなかった大物実業家や銀行家たちに与えられた侮蔑的ニックネームである。
スタロビンは、彼らが如何にして法を操作し、如何に法の精神を蔑ろにしたか、一貫して政府の力の及ばないところで事業を展開し、徹底して不正な取引を行っていたかは、大陸横断鉄道敷設事業が如実に物語っていると言う。
これら泥棒男爵が牛耳っていた独占資本システムを、更に補強するために作られたのが国際金融センターの「ウォール・ストリート」で、アメリカが最も混乱を極めていた南北戦争の時代に誕生し、政府の規制外で成長した。
(ロンドンの金融センター「シティ」も、同じような似たり寄ったりの必ずしも誇れない歴史を持っているようで、このあたりは、浜矩子教授の「ザ・シティ金融大冒険物語」を読めば面白い。)
金融危機の張本人としてオバマ大統領が、greedyだと糾弾しなくても、ウォール・ストリートは、そもそも誕生からして、由緒正しい(?)のである。
20世紀後半から、軍事目的で開発されたインターネットを民間に開放して引き起こされた産業革命、すなわち、ICT革命が、自由市場経済を標榜するアメリカの企業家精神に火をつけて、再びアメリカ経済を活性化させて、マイクロソフトやインテルと言った先進的な企業を生み出し、更に、グーグルなど多くの21世紀型の企業を排出し続けている。
これらのダイナミックな動きも、泥棒男爵とは全く違う風土土壌だが、アメリカには、自由な天地を求めて、下克上を厭わずに、縦横無尽・自由闊達に企業活動が出来る自由市場と言う環境があったればこそで、ドラスチックに古い経済社会を破壊しつつ新しい活路を切り開きながら、快進撃を続ける中国やインドと同じような土壌が、息づいていると言うことであろう。
「清水、魚棲まず」で、弱肉強食、下克上の混沌状態の経済社会の方が、バイタリティがあって、これこそ、ケインズの言う「アニマル・スピリット」の発露を誘発する。なまじっか、社会全体が、小賢しくなって、革新的経営戦略の追求など経営の質の向上ではなく、表面面の内部統制システムにばかり腐心しているような社会には、夢のある明日を生み出すパワーがないと言うことであろうか。
21世紀に入って、小泉竹中経済路線で、市場原理を活性化しようと言う動きが功を奏したのか起業やベンチャーが活発化したのだが、ホリエモンや村上ファンドを叩き潰してしまってからは、全く、泣かず飛ばずで、新規事業や新産業の登場は鳴りを潜めて寂しくなってしまった。
最早、日本には坂の上の雲がなくなってしまったかのようである。
更に困ったことには、不況の影響で株価が低迷して、企業の時価総額が異常に下落してしまって、今や日本の名門企業もバーゲン価格となり、何時でも、中国やインドのバーゲンハンターや、技術や販路を渇望している新興国企業のM&Aの標的と成り下がってしまっている。
さて、話は飛ぶが、何故、アメリカが凋落して行くのかと言うことについて、スタロビンは、フロンティアと楽観性の消失が重要な要因だとしている。
生命のリスクをも厭わぬパイオニア精神を涵養してきたフロンティア、そのフロンティアを追い求めて来たアメリカも年齢を重ねて、愈々、「フロンティア後」の世界に入り込んでしまった。小学校で「鬼ごっご」は駄目だと言うような過保護社会が全米に蔓延し、アメリカ人がリスクを避けるようななって、リスクにどれだけ耐え得るかと言う「リスク耐性指数」が異常に下落してしまったと言うのである。
また、「世界一楽観的な国」であったアメリカが、中国やインドなどの新興国や発展途上国に遅れを取って、アメリカより悲観的なのは、パレスチナ人、独仏伊と日本だけになってしまったと嘆いている。
このスタロビンの話は、アメリカの話なのだが、全く、日本に当て嵌まる話であり、まだ、若さと活力が残っているアメリカと比べて、名実ともに老体化している日本の方が、もっと深刻な筈だと言う気がしている。