
今月の第二部は、菅原専助の「染模様妹背門松」。
大坂の豪商油屋の娘お染が,宝永7年(1710)に、丁稚の久松と道ならぬ恋のはてに心中した実際におきた事件が題材となったお染久松の浄瑠璃で、近松半二の「新版歌祭文」と双璧の文楽である。
油屋の娘お染(清十郎)が、主家筋の山家屋清兵衛(玉志)への嫁入が決まっているのだが、丁稚の久松(勘彌)と相思相愛で、久松の子を身籠っていて、切羽詰っている。
お染の母おかつ(簑二郎)や久松の父百姓久作(和生)の説得で、久松は在所へ帰り、お染は嫁ぐことを了承したのだが、心中を恐れて閉じ込められた蔵の中で久松が、座敷でお染が、夫々命を絶つ。
大恩あるお主の家に疵を付けた身は死ぬしかないと久松、久松を死なせて嫁入して生き恥を晒すよりは、一緒に死んで未来で契りを交わした方が良いとお染、世に出ることのないお腹の子を不憫に思いながら、二人はあの世へ旅立つのである。
両方の浄瑠璃とも、お染久松の道ならぬ悲恋を軸としたストーリーと最後のシーンの自殺は同じなのだが、その間に、入り組んだ複雑な人間模様の数々が芝居になっていて面白い。
この「染模様妹背門松」は、お染に横恋慕している番頭善六(勘十郎)が、嫌がるお染に執拗にアタックしたり、お染の兄多三郎(清五郎)の恋人おいと(紋臣)を張り合っている大阪屋源右衛門(幸助)と語らって、多三郎を追い出そうと画策したりするのだが、悉く失敗するなど、随所にチャリバが絡んで面白く、勘十郎が、器用な人形遣いで、観客を笑わせ魅了する。
まず、面白いのは、冒頭の「油店の段」で、多三郎が、おいとを身請けするために、源右衛門から借りた定家の色紙(偽物、また、証文に、期日までに返せなければ、おいとを源右衛門に渡すと書いてある)を油屋に質入れして、善六から300両を借りて身請けし、その内、100両を源右衛門に貸すのだが、その証文は、イカ墨で書いてあるので、文字が消えてしまう。
これは、善六と源右衛門の罠だったが、来客として来ていたお染の許嫁清兵衛が、本物の定家の色紙を見せて、イカ墨のカラクリを暴いて、二人をやり込める。
もっと面白いのは、善六が、久松がお染に書いた恋文を清兵衛に読ませて二人の道ならぬ恋を暴こうとしたのだが、清兵衛が、善六がお染に出した恋文に差し替えて読んだので、善六は大慌て、二人は這う這うの体で逃げ出す。
勘十郎の善六が、咲大夫と燕三の名調子にのって、至芸を見せて面白い。
もう一つの見せ場は、「質店の段」で、死を覚悟した久松と腹帯を母に知られたお染が窮地に立って居る所へ、久松の父久作が在所からやって来て、久松のために買ってきた皮足袋で久松を打擲して帰ろうと説得し、お染の母のおかつ(簑二郎)も現れて、久松にお染と別れてくれと頼む。
夫々の親が、子を思って必死になって意見をして説得する、その思いを、清助の三味線にのって切々と訴えかける千歳大夫の浄瑠璃語りが、聴衆の胸を打つ。
親が子を思う愛しさは痛い程分かるのだが、ただ一点しか見ていない若い二人には、何も見えず何も聞こえず、必死に運命に耐えている姿が、人形ながら慟哭していて、益々、死への決心を強めて行く。
そんな姿を清十郎のお染と勘彌の久松が、押さえに抑えて耐えながら、決心とは裏腹に、親の意見に同意する健気で優しい姿を好演していて切ない。
最後の「蔵前の段」で、お染が、久松が閉じ込められている蔵の前に忍んで行き、蔵の窓から顔を出した久松が、丁度、シェイクスピアのロメオとジュリエットばりに、悲しくも切ない胸の内を吐露して心中への決心を確かめ合う。
ロメオとジュリエットの場合には、激しくも芽生えた恋の絶頂感が渦巻いていたのだが、お染久松には、もう残されたこの世での逢瀬はない。
私には、若い二人にとって、心中してでも、あの世で添い遂げると言う決心をして短い人生を閉じるのが良いのか、親の説得を飲んで次の人生に賭けるのが良いのか、分からない。
生きていれば、幸も不幸も色々な人生に遭遇できるのだが、後で振り返れば一睡の夢。
同じ生きるのなら、一本筋の通った生き方をしたいと思うのだが、もう、この歳になると、何となく惰性で生きて来たような気がして、反省しきりである。
大坂の豪商油屋の娘お染が,宝永7年(1710)に、丁稚の久松と道ならぬ恋のはてに心中した実際におきた事件が題材となったお染久松の浄瑠璃で、近松半二の「新版歌祭文」と双璧の文楽である。
油屋の娘お染(清十郎)が、主家筋の山家屋清兵衛(玉志)への嫁入が決まっているのだが、丁稚の久松(勘彌)と相思相愛で、久松の子を身籠っていて、切羽詰っている。
お染の母おかつ(簑二郎)や久松の父百姓久作(和生)の説得で、久松は在所へ帰り、お染は嫁ぐことを了承したのだが、心中を恐れて閉じ込められた蔵の中で久松が、座敷でお染が、夫々命を絶つ。
大恩あるお主の家に疵を付けた身は死ぬしかないと久松、久松を死なせて嫁入して生き恥を晒すよりは、一緒に死んで未来で契りを交わした方が良いとお染、世に出ることのないお腹の子を不憫に思いながら、二人はあの世へ旅立つのである。
両方の浄瑠璃とも、お染久松の道ならぬ悲恋を軸としたストーリーと最後のシーンの自殺は同じなのだが、その間に、入り組んだ複雑な人間模様の数々が芝居になっていて面白い。
この「染模様妹背門松」は、お染に横恋慕している番頭善六(勘十郎)が、嫌がるお染に執拗にアタックしたり、お染の兄多三郎(清五郎)の恋人おいと(紋臣)を張り合っている大阪屋源右衛門(幸助)と語らって、多三郎を追い出そうと画策したりするのだが、悉く失敗するなど、随所にチャリバが絡んで面白く、勘十郎が、器用な人形遣いで、観客を笑わせ魅了する。
まず、面白いのは、冒頭の「油店の段」で、多三郎が、おいとを身請けするために、源右衛門から借りた定家の色紙(偽物、また、証文に、期日までに返せなければ、おいとを源右衛門に渡すと書いてある)を油屋に質入れして、善六から300両を借りて身請けし、その内、100両を源右衛門に貸すのだが、その証文は、イカ墨で書いてあるので、文字が消えてしまう。
これは、善六と源右衛門の罠だったが、来客として来ていたお染の許嫁清兵衛が、本物の定家の色紙を見せて、イカ墨のカラクリを暴いて、二人をやり込める。
もっと面白いのは、善六が、久松がお染に書いた恋文を清兵衛に読ませて二人の道ならぬ恋を暴こうとしたのだが、清兵衛が、善六がお染に出した恋文に差し替えて読んだので、善六は大慌て、二人は這う這うの体で逃げ出す。
勘十郎の善六が、咲大夫と燕三の名調子にのって、至芸を見せて面白い。
もう一つの見せ場は、「質店の段」で、死を覚悟した久松と腹帯を母に知られたお染が窮地に立って居る所へ、久松の父久作が在所からやって来て、久松のために買ってきた皮足袋で久松を打擲して帰ろうと説得し、お染の母のおかつ(簑二郎)も現れて、久松にお染と別れてくれと頼む。
夫々の親が、子を思って必死になって意見をして説得する、その思いを、清助の三味線にのって切々と訴えかける千歳大夫の浄瑠璃語りが、聴衆の胸を打つ。
親が子を思う愛しさは痛い程分かるのだが、ただ一点しか見ていない若い二人には、何も見えず何も聞こえず、必死に運命に耐えている姿が、人形ながら慟哭していて、益々、死への決心を強めて行く。
そんな姿を清十郎のお染と勘彌の久松が、押さえに抑えて耐えながら、決心とは裏腹に、親の意見に同意する健気で優しい姿を好演していて切ない。
最後の「蔵前の段」で、お染が、久松が閉じ込められている蔵の前に忍んで行き、蔵の窓から顔を出した久松が、丁度、シェイクスピアのロメオとジュリエットばりに、悲しくも切ない胸の内を吐露して心中への決心を確かめ合う。
ロメオとジュリエットの場合には、激しくも芽生えた恋の絶頂感が渦巻いていたのだが、お染久松には、もう残されたこの世での逢瀬はない。
私には、若い二人にとって、心中してでも、あの世で添い遂げると言う決心をして短い人生を閉じるのが良いのか、親の説得を飲んで次の人生に賭けるのが良いのか、分からない。
生きていれば、幸も不幸も色々な人生に遭遇できるのだが、後で振り返れば一睡の夢。
同じ生きるのなら、一本筋の通った生き方をしたいと思うのだが、もう、この歳になると、何となく惰性で生きて来たような気がして、反省しきりである。