インターネットを叩いていたら、
MATSURISTORY・COMの「有名な歴史的瞬間をとらえた41枚の珍しい写真」が出てきて、興味を感じて、見ていると、その中に、ベルリンのことについての写真が3枚出てきた。
そのまま借用させて頂くと、次の通りである。
ベルリンの壁が崩壊して以来初めて、ブランデンブルグ・ゲートに通り道が出来たため、西ドイツと東ドイツが自由に両サイドを移動できるようになりました。
ベルリンでのジョン・F・ケネディーの「Ich bin ein Berliner」演説中に撮影された後方からの眺め。 [1963年]
ベルリンの壁の破壊の日に穴の隙間から花を渡す東ドイツの兵士。 [1989年]
東ドイツが、1961年8月13日、東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリンの周囲をすべて隔離したのが、ベルリンの壁の始まりで、1989年秋の東欧革命後の東ドイツ国内の混乱のなか、同年11月9日に東ドイツ政府の不用意な発表から、壁の国境検問所がなし崩し的に無効になり、壁の崩壊が始まった。
ベルリンの壁が存在したのは、1961年から1989年まで、
壁は、米ソ冷戦の象徴でもあり20世紀の歴史を凝縮しており、壁の崩壊は、共産主義優位の末路であり、「歴史は終った」かに見えたが、多難な世紀末と、想像を超えた新世紀の始まりであった。
ケネディの演説は、壁が築かれた直後であり、花の写真は、壁の崩壊の日の一瞬であり、ブランデンブルグ門の車の渋滞は、壁の崩壊直後である。
このブログに、ベルリンの壁崩壊時に東ベルリンに入ったときの思い出を記しているので、そのまま引用すると、
”ベルリンの壁が崩壊して、東ベルリンに自由に入国できるようになった直後、どうしても、この目で見たくて、休日を利用して、東ベルリンに入った。
早朝、鉄道経由で、確かフリードリヒ通り駅Bahnhof Berlin Friedrichstraßeだと思うが、この検問所から東ベルリンに入った。
ビザなしだったと思うのだが、門限が決まっていて、夜何時だったか忘れたが、この時間までに出国する必要があり、忙しかったが、私的旅行だったので、私の行きたかったのは、ブランブルグ門、フンボルト大学、ペルガモン博物館などで、偶然、マチネー公演があって、ベルリン国立歌劇場でオペラ「ホフマン物語」を鑑賞できた。
ブランデンブルグ門は、壁の内側、東ベルリン側にあるので、それまで、アプローチできなかったので、感動冷めやらず、長い間、殆ど人影のいない門の傍で、感慨に耽っていた。
ベルリンの壁のかけらだと言うので、記念にと思って安かったので買って帰ったのだが、どう見ても、新しい代物、ナチスの勲章や襟章の方が、記念になったかもしれない。
その直後、経済団体が、東ベルリンで、東西経済交流の大会議を開いたので、参加したが、西ヨーロッパは、勿論、ソ連や東ヨーロッパからも沢山要人たちが参加した大規模な国際会議であった。
その成果よりも、強烈に覚えているのは、第1日目の朝のセッションが終わった直後に、同時通訳用のレシーバーの過半が消えて帰ってこなくなったことである。
当時、ソ連が日本製の電卓を水深測量計に改造して使っていたと言うから、貧しくて文明機器の不足していた東側の参加者が、通信機器か何かに転用しようと持ち帰ったのであろうと、噂していたが、共産主義体制崩壊の末路を見たようで、複雑な気持ちになった。”
翌年に、東欧事務所設立準備のために、東西ベルリンを起点にして、東ドイツに入ってライプチッヒとドレスデン、そして、チェコスロバキアのプラハとハンガリーのブダペストを訪れた。
この時は、ポッダムを訪れて、ポツダム宣言所縁の故地やサンスーシー宮、そして、ルターの宗教改革の口火を切った『95ヶ条の論題』を掲げたヴィッテンベルクの教会なども訪れて、歴史を実感した。
どの大都市も、戦争や革命騒ぎで、壊滅的な打撃を受けるも、戦後復興も全く手付かずで、崩壊したそのままの状態でフリーズしたような哀れな姿を露呈していて、あらためて、ソ連支配の東欧諸国の失われた戦後の歴史の悲惨さを感じて愕然とした。情勢は、体制移行の過渡期で、殺伐とはしていたが、移動や視察には、何の支障も不安を感じることもなかった。
東ドイツに入れば、舗装が無残に剥がれて疲弊した道路を、ぺろぺろの貧弱な小型乗用車トラバントが走っていて、
田舎に出たら、ヒットラーが、非常時には、滑走路に転用しようとした中央分離帯のないハイウエイが、そのまま残っていて、延々と真っすぐに伸びている異様さ。
その後、仕事の関係で、何度かベルリンを訪れたが、西ベルリンの方ばかりで、東西ドイツの統合で近代化した東ドイツの様子は分からない。
ベルリンの象徴とも言うべきブランデンブルグ門だが、私の行った時には、殆ど人が居らず、壁の欠片やナチスの勲章などを売る露天がちらほらある程度で、側に立って手に触れて何時間佇んでいても問題なかった。それに、爆撃で崩壊して形態だけは残っていた国会議事堂の中にも、人が居らず、自由に入れたのを覚えている。
二回目の東ベルリン訪問の時には、ホテルの隣に、ベルリン・コーミッシェ・オーパー(Komische Oper Berlin)があったので、オペラ「魔弾の射手」を観たのだが、まだ、軍国主義の風潮が覚めやらないのか、衣装が、厳つい軍服のオンパレードでビックリした。
ベルリンの写真を観て、懐かしくなって、思い出を反芻してみた。
MATSURISTORY・COMの「有名な歴史的瞬間をとらえた41枚の珍しい写真」が出てきて、興味を感じて、見ていると、その中に、ベルリンのことについての写真が3枚出てきた。
そのまま借用させて頂くと、次の通りである。
ベルリンの壁が崩壊して以来初めて、ブランデンブルグ・ゲートに通り道が出来たため、西ドイツと東ドイツが自由に両サイドを移動できるようになりました。
ベルリンでのジョン・F・ケネディーの「Ich bin ein Berliner」演説中に撮影された後方からの眺め。 [1963年]
ベルリンの壁の破壊の日に穴の隙間から花を渡す東ドイツの兵士。 [1989年]
東ドイツが、1961年8月13日、東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリンの周囲をすべて隔離したのが、ベルリンの壁の始まりで、1989年秋の東欧革命後の東ドイツ国内の混乱のなか、同年11月9日に東ドイツ政府の不用意な発表から、壁の国境検問所がなし崩し的に無効になり、壁の崩壊が始まった。
ベルリンの壁が存在したのは、1961年から1989年まで、
壁は、米ソ冷戦の象徴でもあり20世紀の歴史を凝縮しており、壁の崩壊は、共産主義優位の末路であり、「歴史は終った」かに見えたが、多難な世紀末と、想像を超えた新世紀の始まりであった。
ケネディの演説は、壁が築かれた直後であり、花の写真は、壁の崩壊の日の一瞬であり、ブランデンブルグ門の車の渋滞は、壁の崩壊直後である。
このブログに、ベルリンの壁崩壊時に東ベルリンに入ったときの思い出を記しているので、そのまま引用すると、
”ベルリンの壁が崩壊して、東ベルリンに自由に入国できるようになった直後、どうしても、この目で見たくて、休日を利用して、東ベルリンに入った。
早朝、鉄道経由で、確かフリードリヒ通り駅Bahnhof Berlin Friedrichstraßeだと思うが、この検問所から東ベルリンに入った。
ビザなしだったと思うのだが、門限が決まっていて、夜何時だったか忘れたが、この時間までに出国する必要があり、忙しかったが、私的旅行だったので、私の行きたかったのは、ブランブルグ門、フンボルト大学、ペルガモン博物館などで、偶然、マチネー公演があって、ベルリン国立歌劇場でオペラ「ホフマン物語」を鑑賞できた。
ブランデンブルグ門は、壁の内側、東ベルリン側にあるので、それまで、アプローチできなかったので、感動冷めやらず、長い間、殆ど人影のいない門の傍で、感慨に耽っていた。
ベルリンの壁のかけらだと言うので、記念にと思って安かったので買って帰ったのだが、どう見ても、新しい代物、ナチスの勲章や襟章の方が、記念になったかもしれない。
その直後、経済団体が、東ベルリンで、東西経済交流の大会議を開いたので、参加したが、西ヨーロッパは、勿論、ソ連や東ヨーロッパからも沢山要人たちが参加した大規模な国際会議であった。
その成果よりも、強烈に覚えているのは、第1日目の朝のセッションが終わった直後に、同時通訳用のレシーバーの過半が消えて帰ってこなくなったことである。
当時、ソ連が日本製の電卓を水深測量計に改造して使っていたと言うから、貧しくて文明機器の不足していた東側の参加者が、通信機器か何かに転用しようと持ち帰ったのであろうと、噂していたが、共産主義体制崩壊の末路を見たようで、複雑な気持ちになった。”
翌年に、東欧事務所設立準備のために、東西ベルリンを起点にして、東ドイツに入ってライプチッヒとドレスデン、そして、チェコスロバキアのプラハとハンガリーのブダペストを訪れた。
この時は、ポッダムを訪れて、ポツダム宣言所縁の故地やサンスーシー宮、そして、ルターの宗教改革の口火を切った『95ヶ条の論題』を掲げたヴィッテンベルクの教会なども訪れて、歴史を実感した。
どの大都市も、戦争や革命騒ぎで、壊滅的な打撃を受けるも、戦後復興も全く手付かずで、崩壊したそのままの状態でフリーズしたような哀れな姿を露呈していて、あらためて、ソ連支配の東欧諸国の失われた戦後の歴史の悲惨さを感じて愕然とした。情勢は、体制移行の過渡期で、殺伐とはしていたが、移動や視察には、何の支障も不安を感じることもなかった。
東ドイツに入れば、舗装が無残に剥がれて疲弊した道路を、ぺろぺろの貧弱な小型乗用車トラバントが走っていて、
田舎に出たら、ヒットラーが、非常時には、滑走路に転用しようとした中央分離帯のないハイウエイが、そのまま残っていて、延々と真っすぐに伸びている異様さ。
その後、仕事の関係で、何度かベルリンを訪れたが、西ベルリンの方ばかりで、東西ドイツの統合で近代化した東ドイツの様子は分からない。
ベルリンの象徴とも言うべきブランデンブルグ門だが、私の行った時には、殆ど人が居らず、壁の欠片やナチスの勲章などを売る露天がちらほらある程度で、側に立って手に触れて何時間佇んでいても問題なかった。それに、爆撃で崩壊して形態だけは残っていた国会議事堂の中にも、人が居らず、自由に入れたのを覚えている。
二回目の東ベルリン訪問の時には、ホテルの隣に、ベルリン・コーミッシェ・オーパー(Komische Oper Berlin)があったので、オペラ「魔弾の射手」を観たのだが、まだ、軍国主義の風潮が覚めやらないのか、衣装が、厳つい軍服のオンパレードでビックリした。
ベルリンの写真を観て、懐かしくなって、思い出を反芻してみた。