熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

アンドルー・ワイル著「ワイル博士の医食同源」

2021年08月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ”心とからだが癒やされる食生活 これが、究極の食事だ!”と言うアンドルー・ワイル博士のこの本、食ついでに一寸触れてみたい。
   冒頭の
   第1章 満足な食事の原理 から面白い。
   満足な食事とは何か 混乱する栄養情報をおして、たべものや栄養が健康に及ぼす影響について、博士はどのように考えているのか、7つの基本原則を興味深く説いて示しているのである。

   ①人は生きるために食べる
   ②食は快楽の主源である
   ③健康食と快楽食は矛楯しない
   ④食事は貴重な社交の場である
   ⑤食べるものを見れば、その人が分かる
   ⑥食は健康を左右する印紙のひとつである
   ⑦食生活の改善は健康対策と健康づくり戦略のひとつである

   まず、「満足な食事」とは、どう言うことか。
   からだや健康に良いというだけではなく、五感を満足させ、快楽と慰安をもたらす食事を意味する。満足すべき最適な食事とは、カロリーや栄養素など、からだの基本的な要求を満たした上で、さらに病気のリスクをへらし、抵抗力を高め、生まれつき備わっている治癒のメカニズムを強化するものでなければならない。人が世界をどのように感じ、どのように歳を重ねて行くかを決定する重要な要因は、その人の食生活にある。食べ物がクスリとしても機能し、多様な病気の発症や経過に影響を及ぼしていると信じている。と言う。

   食は快楽の主源だと言うこと
   心理学者は、食物を主要な強化作因だと考えている。たべものは行動を形成する本能的な力を強化するものだと言うのである。
   動物に餌を与えて訓練するのはその例で、サーカスや映画で、野生状態ではあり得ないような藝を動物に教えるとき、訓練士が道具として使う餌は、とりわけ、強力な強化作因になる。
   人間も動物と同じで、空腹の時にはたべものの誘惑には勝てず、それを口にするためにはどんなことでもしてしまいかねない。
   たべものは大分の人にとっては快楽の重要な供給源であって、食の快楽を犠牲にするような健康食はうまく行かない。と言う。

   健康食と快楽食は矛楯しない
   食べたいものに限って体に悪いと言う嘆き節は、悪いのは人間の味覚ではなく、かっては珍味であったものが容易に手に入るような環境を人間が作ってしまったから。
   面白いのは、「からだにいい食べ物が、何故あんなに不味いのか」との疑問だが、これは、健康にいい食べ物を説く人の多くが、たべることが本当に好きではないか、もっと正確に言えば、神経化学的にたべることから有意な快楽を引き出すプログラムが出来ていないからで、ダイエット本の著者、栄養学者、食事療法の指導者、食事指導をする医療の専門家の考えが、そのカテゴリーに当てはまり、彼らは、元来、美味しいものを愛する人ではない。と言っていることである。
   食に快楽を感じ、健康のためにその快楽を犠牲にしたいとは思わない。「満足な食事」という概念には、健康を促進し、かつ快楽を与えると言う食べ物の二つの要素が含まれている。好きなものを諦めることなく食生活を改善すれば、最適な健康と長寿への道に向かうことが出来る。と言うのである。

   ⑤たべるものをみれば、その人が分かる と言うのは、宗教によって禁忌がつきまとう食習慣を考えれば、この意味が良く分かる。
   勿論、地域や歴史的な展開などによって、社会的、文化的なアイデンティティを規定する食の力は、使われる特定の食材、食材の組み合わせ、舌触り、歯ごたえ、香味ですぐに分かる独特の調理法に負うところも多い。特定の文化に固有の香味は、母国を離れた人には恋しく、健康増進のために、食習慣を変えることは難しい。

   聖俗を問わず、特定の食べ物が重要な役割を果たして、儀礼的な食事が、仲間や家族や地域社会など、集団の成員同志の間の絆を更新する典型的なケースを、ユダヤ人の「過ぎ越しの祝祭」の儀式に参加して経験している。
   ウォートン・スクール留学の時に、学友のジェイコブス・メンデルゾーンが、このパスオーバーの日に、私をフィラデルフィア郊外のユダヤ人街につれて行ってくれて、自宅での儀式に招待してくれたのである。
   私も、あのユダヤ人特有のキャップを頭に頂き、一族郎党の居並ぶ長テーブルに位置して、経典の輪読の輪に加わり、見よう見まねで式を終えた。
   この時、酵母入りのパンではなくて、マツォー(種なしバン)を食べる。何故、これを食べるのか問うて、奴隷として酷使されていたエジプトから、パンを発酵する余裕もなく脱出した遠い祖先へ思いを馳せる。細かく刻んだ胡桃やリンゴ、ワイン、」香料を混ぜて作った、この日に食べるハローシスは、エジプトに捕らわれていたユダヤ人がファラオの王宮を建てるときに使ったモルタル。このハローシスのかけらをマツォーに乗せて、ピリッと辛い西洋ワサビを添えて食べて、人生に於ける喜びと悲しみを思い出すのだという。
   何を食べたのか、全く記憶はないのだが、貴重な経験であった。
   ついでながら、その後、ジェイの部屋に入って、壁を見たら、こんもりとして楠を描いたような額が掛っているのに気がついた。近づいて、よく見たら、枝の先には人名が書かれている。系統樹と言うか、家系樹だったのである。ここはフランス、ここはイタリア、ここはアメリカと説明しながら、ジェイは、自分はここだと教えてくれた。ところが、幹の真ん中あたりで、先が途切れて黒い塊のようになって、中心が空白になっているところがあって、これは何だと聞いたら、ドイツだという。
   ナチスの犠牲であったのは自明で、絶句して、それ以上聞かなかった。
   ユダヤ社会の一面を垣間見て、無性に感動して、フィラデルフィアに帰ったのを覚えている。
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