
中国は、中国共産党の第19期中央委員会第6回総会で11日、党100年の歴史を総括する「歴史決議」を採択した。歴史決議をした指導者は毛沢東、鄧小平に次ぎ習近平総書記(国家主席)が3人目で、40年ぶりであり、習氏の異例の3期目が確実視されており、習氏の「1強体制」をさらに固める新体制に突入しようとしている。
ところで、この本で興味深い指摘は、中国は、世界的な影響力と世界的な承認を追求し、中国の富が大きくなるにつれて、他国に従われ、賞賛される国になりたいという指導者の要望は大きくなるが、世界で優位に立つと言う中国の野心は、自国の文化を普遍的に他国に共有させようという主張には基づいてはいない。中国は、他国が自らの望みに従うことを望んでいたとしても、他国が中国モデルを模倣することを期待しているわけではない。と言っていることである。
「一帯一路」計画にしろ、国境を越えた教化に一切頼ることなく、統合と相互の結びつき、相互依存を作り出している。中国は、他国が中国を支持して従うことを望み、中国が、指揮し、おそらく他国を利用する国になりたいのであって、篝火やモデルになりたいわけではなく、他国を中国の小さなコピーにしたいとは考えていない。と言う。
したがって、この本で、著者は、遅れた国が先進国を模倣することによって成長発展を目指してきたその歴史展開を論じているので、中国は、「模倣の時代」の終わりを示した。と述べている。
何故なら、中国は、西洋式の政治的変化を試したり、装ったりすることなしに、的を絞った技術的手段の「借用」によって、繁栄と発展、社会の統制、国家の国際的影響力と名声を取り戻す機会を捉えて、様々な次元で西洋をしのぐことに成功した、すなわち、西欧を模倣することなしに今日を築き上げた中国の歴史と現在の成功が、これを示している。中国が世界に教えるのは、西洋の技術や消費傾向さえも必要なものだけ選択的に採用しながら、西洋の規範や制度を拒否することには利点がある。と言うことだと説いている。
確かにそう言われれば、中国経済は、国家資本主義だと言われるが、マーケットメカニズムは必要に応じて適当に活用してグローバル経済に同化しているが、実質的には、計画経済的な国家統制なり規制によってコントロールしており、政治や社会システムは、西洋流の自由主義的な民主主義体制は取っておらず、中国流の共産主義を通している。
和魂洋才をもじれば、漢魂洋才かも知れないが、半分魂を洋化してしまっている日本と違って、中国は徹底した隔離主義を維持しているのである。
尤も、最近の中国は新マルクス主義だと言われているが、ロシアから学んだ共産主義は、儒教など中国本来の思想的バックグラウンドとは全く異質の西洋オリジナルの思想だが、これは、中国にビルトインされた核心的かつ根本的なバックボーンであるから不問と言うことであろうか。
孔子学院の動きなどを考えれば、思想統制には無関心である筈はないのだが、鄧小平の「韜光養晦(爪を隠し、才能を覆い隠し、時期を待つ戦術)」のように、実質的にアメリカの後塵を拝して覇権を握れていない間は、下手に出ていると言うことであろうか。
しかし、どんどん、アメリカを追い上げて、アメリカの背中が見え始めた今日、習近平の対外政策を考えれば、爪を隠す段階からはるかに強気に転じてきており、強硬の一途を辿る徹底的な思想統制が、香港やウイグルやチベットは勿論、国内だけでおさまるはずがないと思える。
さて、習近平政府の思惑はともかく、実際に中国は、中国システムや思想を世界に教化するするつもりはないのか、案外、中華思想から考えてみるのも面白いかも知れない。
その前に、日経連載中の安部龍太郎の「ふりさけ見れば」で、唐から、日本を正式な国家として認知するための条件を示されたのだが、律令体制など国体の承認に未達であったので、日本国がどのように評価されているのか確認するために、門外不出の国書閲覧の密命を受けて、阿倍仲麻呂が、帰国できずに唐に止め置かれると言うような話が書かれていたような気がする。
これなど、完全な中国体制の教化であろう。
いずれにしろ、大唐帝国のように並びなき覇権を確立すれば、右へ倣えは、指示命令はなくても、当然の帰結だと言うことであろうが、中国が、外国に対して国家思想や体制の教化に無関心であるとは思えない。
念のために、Britannicaを引用すると、中華思想とは、
中国が世界の文化,政治の中心であり,他に優越しているという意識,思想。中国では伝統的に漢民族の居住する黄河中下流を中原と称し,異民族を夷狄 (いてき) ,あるいは蛮夷と呼んできた。・・・この思想は古く周代に始り,以後近代まで連綿として引継がれ,中国人独特の世界観を形成してその歴史や文化に多大な影響を与えてきた。漢民族の優位が確保されている限りにおいては寛容で開放的な博愛主義となって現れるが,ひとたび優位が否定された場合には,きわめて偏狭な保守排外主義の傾向が示される。
ところで、この本で興味深い指摘は、中国は、世界的な影響力と世界的な承認を追求し、中国の富が大きくなるにつれて、他国に従われ、賞賛される国になりたいという指導者の要望は大きくなるが、世界で優位に立つと言う中国の野心は、自国の文化を普遍的に他国に共有させようという主張には基づいてはいない。中国は、他国が自らの望みに従うことを望んでいたとしても、他国が中国モデルを模倣することを期待しているわけではない。と言っていることである。
「一帯一路」計画にしろ、国境を越えた教化に一切頼ることなく、統合と相互の結びつき、相互依存を作り出している。中国は、他国が中国を支持して従うことを望み、中国が、指揮し、おそらく他国を利用する国になりたいのであって、篝火やモデルになりたいわけではなく、他国を中国の小さなコピーにしたいとは考えていない。と言う。
したがって、この本で、著者は、遅れた国が先進国を模倣することによって成長発展を目指してきたその歴史展開を論じているので、中国は、「模倣の時代」の終わりを示した。と述べている。
何故なら、中国は、西洋式の政治的変化を試したり、装ったりすることなしに、的を絞った技術的手段の「借用」によって、繁栄と発展、社会の統制、国家の国際的影響力と名声を取り戻す機会を捉えて、様々な次元で西洋をしのぐことに成功した、すなわち、西欧を模倣することなしに今日を築き上げた中国の歴史と現在の成功が、これを示している。中国が世界に教えるのは、西洋の技術や消費傾向さえも必要なものだけ選択的に採用しながら、西洋の規範や制度を拒否することには利点がある。と言うことだと説いている。
確かにそう言われれば、中国経済は、国家資本主義だと言われるが、マーケットメカニズムは必要に応じて適当に活用してグローバル経済に同化しているが、実質的には、計画経済的な国家統制なり規制によってコントロールしており、政治や社会システムは、西洋流の自由主義的な民主主義体制は取っておらず、中国流の共産主義を通している。
和魂洋才をもじれば、漢魂洋才かも知れないが、半分魂を洋化してしまっている日本と違って、中国は徹底した隔離主義を維持しているのである。
尤も、最近の中国は新マルクス主義だと言われているが、ロシアから学んだ共産主義は、儒教など中国本来の思想的バックグラウンドとは全く異質の西洋オリジナルの思想だが、これは、中国にビルトインされた核心的かつ根本的なバックボーンであるから不問と言うことであろうか。
孔子学院の動きなどを考えれば、思想統制には無関心である筈はないのだが、鄧小平の「韜光養晦(爪を隠し、才能を覆い隠し、時期を待つ戦術)」のように、実質的にアメリカの後塵を拝して覇権を握れていない間は、下手に出ていると言うことであろうか。
しかし、どんどん、アメリカを追い上げて、アメリカの背中が見え始めた今日、習近平の対外政策を考えれば、爪を隠す段階からはるかに強気に転じてきており、強硬の一途を辿る徹底的な思想統制が、香港やウイグルやチベットは勿論、国内だけでおさまるはずがないと思える。
さて、習近平政府の思惑はともかく、実際に中国は、中国システムや思想を世界に教化するするつもりはないのか、案外、中華思想から考えてみるのも面白いかも知れない。
その前に、日経連載中の安部龍太郎の「ふりさけ見れば」で、唐から、日本を正式な国家として認知するための条件を示されたのだが、律令体制など国体の承認に未達であったので、日本国がどのように評価されているのか確認するために、門外不出の国書閲覧の密命を受けて、阿倍仲麻呂が、帰国できずに唐に止め置かれると言うような話が書かれていたような気がする。
これなど、完全な中国体制の教化であろう。
いずれにしろ、大唐帝国のように並びなき覇権を確立すれば、右へ倣えは、指示命令はなくても、当然の帰結だと言うことであろうが、中国が、外国に対して国家思想や体制の教化に無関心であるとは思えない。
念のために、Britannicaを引用すると、中華思想とは、
中国が世界の文化,政治の中心であり,他に優越しているという意識,思想。中国では伝統的に漢民族の居住する黄河中下流を中原と称し,異民族を夷狄 (いてき) ,あるいは蛮夷と呼んできた。・・・この思想は古く周代に始り,以後近代まで連綿として引継がれ,中国人独特の世界観を形成してその歴史や文化に多大な影響を与えてきた。漢民族の優位が確保されている限りにおいては寛容で開放的な博愛主義となって現れるが,ひとたび優位が否定された場合には,きわめて偏狭な保守排外主義の傾向が示される。