project-syndicate.のもう一つの次の論文について考えてみたい。
CEOs Are the Problem Jun 2, 2021 DARON ACEMOGLU
アセモグルは、この「CEOが問題である CEOs Are the Problem」という論文で、最近の欧米企業のステイクホルダー重視への経営の急旋回について、興味深い議論を展開しているのである。
まず、
企業の美徳重視の最新のシグナルの波は、ステークホルダー資本主義(企業は、総ての利害関係者、すなわち、消費者(顧客)、従業員、株主、債権者、仕入先、得意先、地域社会、行政機関等々総てのために経営すべし)の新しい時代が到来したと言うサインだと見做してはならない。それよりも、企業のリーダーは、国民の圧力を感じて、自分たちが引き起こした問題に対する解決策の一環として自分たちを位置づけようとしているのである。と言う。
アセモグルの見解は、リーダーの資質や頭の構造など変るはずもなく、企業や経営者たちが、真の経営に目覚めて、株主資本主義を捨てて、ステイクホールダー重視の経営に変ったのではなく、単に国民の圧力に屈して当座しのぎの経営をしているのであって、CEOは、変っておらず、外から法的規制などで徹底的に箍を嵌めて変革しなければダメだと説いているのである。
エクソンモービルは、最近、温室効果ガス排出量を削減する5カ年計画を発表し、グリーンな未来へのコミットメント宣言広告を頻発した。タバコ大手のフィリップ・モリスは、喫煙者に、禁煙への補助計画を宣伝している。Facebookは、新しいインターネット規制を求めている。そして、これらの動きは、アメリカ最大の企業のCEOを代表するビジネスラウンドテーブルが、すべての利害関係者にサービスを提供するようビジネスに求める声明を発表してから2年も経たないうちに起こった。
今日の企業幹部は、企業責任の新しい時代を迎えているのであろうか、それとも、彼らは単に自分の権力を守ろうとしているのであろうか。と問いかける。
何十年もの間、ビジネスリーダーや著名な学者は、企業の唯一のコミットメントは株主であると信じていた。1970年に、ニューヨークタイムズに、ミルトン・フリードマンの " ビジネスの社会的責任は、利益を増やすことである “The Social Responsibility of Business Is to Increase Its Profits”という署名記事が出て、この見解が主流となった 。ハーバード・ビジネス・スクールのマイケル・ジェンセンが、フリードマンの教義に理論的かつ経験的なサポートを提供した記事を書き、それに続いて、沢山の学術論文が出て、アカデミア内では、株主への利益追求至上主義とも言うべき株主資本主義が、さらに勢いを増していった。と言う。
ROEアップによる株価重視の経営が至上命令のようになって、経営者たちは、長期的な企業経営を軽視して直近の短期的利益アップに奔走し始めて、ストックオプション等とも連動して経営者たちの報酬がうなぎ登りに上昇した。
フリードマンは、企業の社会的責任の追及については、利益にプラスにならなければ、株主にへの背信行為だと切って捨てており、長い間、アメリカでは、株主至上主義的な経営が継続した。
ICT革命の時流にも乗って成長を謳歌したアメリカでは、経営者たちの報酬が異常に高騰し、資本家やウォール街に富が集中し、賃金の上昇や生活水準の上昇から見放された一般庶民との深刻な経済格差の拡大と、同時に深刻化した地球温暖化による公害や環境破壊問題が、アメリカの民主主義や社会を蝕み始めた。
1980年代までに、ゼネラル・エレクトリックのジャック・ウェルチのような大企業のCEOや多数の経営コンサルティング会社の多くは、株主価値に対する熱狂ぶりを多少修正して、株主価値のより良い反映として、企業は、従業員の削減、賃金の伸びの制限、および業務のオフショアリングを開始するなど経営の変質はあったが、
しかし、株価至上主義経営は変らず、株価の上昇に執着する一部の経営幹部を、行き過ぎた行動に走らせ、エンロン、WorldComなどの詐欺の粉飾決算などの企業悪は後を絶たなかった。
今や、株主価値の最大化が企業の唯一の目的であってはならないという合意が高まってきている。
さすれば、どうするのか、
経営幹部が、より広範な利益を検討する権限を与えられたと感じるように、経営幹部のための新しい憲章を作成する必要があると、ビジネスラウンドテーブルは思っているようだが、アセモグルは、経営陣にさらに裁量権を与えるようどのような解決策にも注意すべきである。なぜなら、株主優位性の問題は、株価への執着を生み出し、株主に対して労働者を競わせると言うことではなく、トップマネージャーに膨大な力を与えたからであった。言う。
多くのCEOは、現在、自分の個人的なビジョンに従って会社を経営している。社会的監視はほとんどなく、役員報酬は急増する一方。パンデミックによって引き起こされた前例のない苦難にもかかわらず、大きな打撃を受けた企業のCEOは、昨年、数千万ドルを家に持ち帰った。過度の権限を与えられたCEOに、ステークホルダーの利益を自身で適当に追求せよと言ったあいまいな命令を付与すると、その乱用が確実に起こる。一部の企業は、CEOのペットプロジェクト(メトロポリタン美術館や好みのチャータースクールプログラムなど)や、本当に単なる影響力行使のベールに包まれた「慈善活動」に数百万ドルを終やしたりするのである。
現在のインセンティブ構造では、企業が慈善活動や美徳を宣伝しているとしても、膨大な量の消費者データを収集し、労働者や市民の権限を弱体化させ、横暴な新しい形態の監視を確立するのを止めることはほとんど出来ない。彼らが人件費を削減するために過度の自動化を追求することや、株主のためにさらに収益を生むために仕事を破壊することを妨げるものは何もない。 これらの反社会的傾向を逆転させる方法は、ビジネスラウンドテーブルが好むものとは大きく異なる次の2つのアプローチを通じてである。
第一に、経営幹部に対する法的および制度的制約を強化する必要があること。あまりにも長い間、マネージャーは刑事犯罪行為に対する刑事訴追を避けてきた。2008年の金融危機につながる巨大な職権乱用でさえ、ほとんど完全に処罰されなかった。ジャーナリストのジェシー・アイジンガーが指摘するように、今日のエグゼクティブフレンドリーな法的状況は、野心的で利己的な検察官が、自分のキャリアを増進させようと慮って、企業や経営者に対して刑事告発に手を抜く傾向がある。
さらに重要なことは、より明確なレッドラインを設定するために法律が必要である。積極的な租税回避に従事し、収益を支払うかどうかを決定することは、CEOに任せてはならない。企業が二酸化炭素排出量を削減することは、オプションであってはならない。そして、企業を絶え間ない自動化から遠ざけ、技術の変化を早急にリダイレクトする必要がある。これらの問題はすべて、社会の機能を維持するための方針に基づいて行われ、私利私欲のCEOの善意に委ねてはならない。
2 番目は、第1の補完である。エクソンモービル、フィリップ・モリス、フェイスブックは、CEOは、突然、世間への精神を高めたからではなく、市民社会からの強力な圧力によって、美徳シグナリングを出した。このような圧力は、経営幹部に、さらに裁量権を与える改革を阻止するために必要である。脱税、過度な業務の自動化、汚染、または、株主や貪欲な経営者を豊かにするための会計上のトリックなど、容認できない企業行動として列挙して法律で特定すれば、市民活動は、より良く機能する。
エクソンモービル、フィリップ・モリス、フェイスブックが、社会的に革新的ななビジネスモデルの改革に取り組んでいると信じるべき理由はない。彼らの広報活動は、彼らが感じているプレッシャーの反映である。市民活動は、機能し始めており、さらに効果的になる可能性がある。
しかし、これこそが、企業に対する、より良く組織化されたより強力な要求となる。 批判を和らげ、批評家を排除するために設計されたホワイトウォッシングキャンペーンではない。
企業の責任はあまりにも重要すぎて、企業のリーダーに任されるべきではない。
と結論する。
アセモグルは、経営者の倫理観など、全く信用して居らず、すべからく、今日の企業経営の悪化は、CEOの責任、CEOの問題、であると言っているのである。
21世紀の初頭まで、会社の監査役として働いていたので、株主至上主義のアメリカの経営思想は、痛いほど強烈に日本の経営を直撃していたのを経験している。
私が、ウォートン・スクールでMBA教育を受けていたのは、1974年までで、まだ、フリードマンの害毒の影響はそれ程なかったと思うのだが、三方良しの精神で商売をする日本では、昔から、「ステークホルダー資本主義」は常識であり、当時は、アメリカはそうであろうが、経営のやり方は、国によって違って当然だと思っていた。
それに、私自身、昔から、ガルブレイスを勉強していて、外部経済に与える企業経営の悪弊や企業の社会的責任や、ローマクラブの影響もあって成長の限界や環境破壊の問題などに興味を持っていたので、企業経営は、どうあるべきかについては興味があり、勉強していたので、利益優先、株主至上主義には、かなり、距離を置いて見ていた。
良かれ悪しかれ、”世界で脚光「ステークホルダー資本主義」、企業経営の潮流になるのか”という信じられないような現象が起こっており、企業経営の軸足が、社会、そして、人間の生活を重視する傾向に移りつつある(尤も、アセモグルの言うように信用は出来ないが)と言う革命的な経営環境の変化に驚いている。
これも、人民パワーの為せる技と言うべきか、
トランプ現象も含めて、ある日、世論が雪崩を打って胎動して、突然社会を大きく動かせる。
そんなことが起こりそうだと言うことは、まだまだ、民主主義は健全だと言うことであろうか。
CEOs Are the Problem Jun 2, 2021 DARON ACEMOGLU
アセモグルは、この「CEOが問題である CEOs Are the Problem」という論文で、最近の欧米企業のステイクホルダー重視への経営の急旋回について、興味深い議論を展開しているのである。
まず、
企業の美徳重視の最新のシグナルの波は、ステークホルダー資本主義(企業は、総ての利害関係者、すなわち、消費者(顧客)、従業員、株主、債権者、仕入先、得意先、地域社会、行政機関等々総てのために経営すべし)の新しい時代が到来したと言うサインだと見做してはならない。それよりも、企業のリーダーは、国民の圧力を感じて、自分たちが引き起こした問題に対する解決策の一環として自分たちを位置づけようとしているのである。と言う。
アセモグルの見解は、リーダーの資質や頭の構造など変るはずもなく、企業や経営者たちが、真の経営に目覚めて、株主資本主義を捨てて、ステイクホールダー重視の経営に変ったのではなく、単に国民の圧力に屈して当座しのぎの経営をしているのであって、CEOは、変っておらず、外から法的規制などで徹底的に箍を嵌めて変革しなければダメだと説いているのである。
エクソンモービルは、最近、温室効果ガス排出量を削減する5カ年計画を発表し、グリーンな未来へのコミットメント宣言広告を頻発した。タバコ大手のフィリップ・モリスは、喫煙者に、禁煙への補助計画を宣伝している。Facebookは、新しいインターネット規制を求めている。そして、これらの動きは、アメリカ最大の企業のCEOを代表するビジネスラウンドテーブルが、すべての利害関係者にサービスを提供するようビジネスに求める声明を発表してから2年も経たないうちに起こった。
今日の企業幹部は、企業責任の新しい時代を迎えているのであろうか、それとも、彼らは単に自分の権力を守ろうとしているのであろうか。と問いかける。
何十年もの間、ビジネスリーダーや著名な学者は、企業の唯一のコミットメントは株主であると信じていた。1970年に、ニューヨークタイムズに、ミルトン・フリードマンの " ビジネスの社会的責任は、利益を増やすことである “The Social Responsibility of Business Is to Increase Its Profits”という署名記事が出て、この見解が主流となった 。ハーバード・ビジネス・スクールのマイケル・ジェンセンが、フリードマンの教義に理論的かつ経験的なサポートを提供した記事を書き、それに続いて、沢山の学術論文が出て、アカデミア内では、株主への利益追求至上主義とも言うべき株主資本主義が、さらに勢いを増していった。と言う。
ROEアップによる株価重視の経営が至上命令のようになって、経営者たちは、長期的な企業経営を軽視して直近の短期的利益アップに奔走し始めて、ストックオプション等とも連動して経営者たちの報酬がうなぎ登りに上昇した。
フリードマンは、企業の社会的責任の追及については、利益にプラスにならなければ、株主にへの背信行為だと切って捨てており、長い間、アメリカでは、株主至上主義的な経営が継続した。
ICT革命の時流にも乗って成長を謳歌したアメリカでは、経営者たちの報酬が異常に高騰し、資本家やウォール街に富が集中し、賃金の上昇や生活水準の上昇から見放された一般庶民との深刻な経済格差の拡大と、同時に深刻化した地球温暖化による公害や環境破壊問題が、アメリカの民主主義や社会を蝕み始めた。
1980年代までに、ゼネラル・エレクトリックのジャック・ウェルチのような大企業のCEOや多数の経営コンサルティング会社の多くは、株主価値に対する熱狂ぶりを多少修正して、株主価値のより良い反映として、企業は、従業員の削減、賃金の伸びの制限、および業務のオフショアリングを開始するなど経営の変質はあったが、
しかし、株価至上主義経営は変らず、株価の上昇に執着する一部の経営幹部を、行き過ぎた行動に走らせ、エンロン、WorldComなどの詐欺の粉飾決算などの企業悪は後を絶たなかった。
今や、株主価値の最大化が企業の唯一の目的であってはならないという合意が高まってきている。
さすれば、どうするのか、
経営幹部が、より広範な利益を検討する権限を与えられたと感じるように、経営幹部のための新しい憲章を作成する必要があると、ビジネスラウンドテーブルは思っているようだが、アセモグルは、経営陣にさらに裁量権を与えるようどのような解決策にも注意すべきである。なぜなら、株主優位性の問題は、株価への執着を生み出し、株主に対して労働者を競わせると言うことではなく、トップマネージャーに膨大な力を与えたからであった。言う。
多くのCEOは、現在、自分の個人的なビジョンに従って会社を経営している。社会的監視はほとんどなく、役員報酬は急増する一方。パンデミックによって引き起こされた前例のない苦難にもかかわらず、大きな打撃を受けた企業のCEOは、昨年、数千万ドルを家に持ち帰った。過度の権限を与えられたCEOに、ステークホルダーの利益を自身で適当に追求せよと言ったあいまいな命令を付与すると、その乱用が確実に起こる。一部の企業は、CEOのペットプロジェクト(メトロポリタン美術館や好みのチャータースクールプログラムなど)や、本当に単なる影響力行使のベールに包まれた「慈善活動」に数百万ドルを終やしたりするのである。
現在のインセンティブ構造では、企業が慈善活動や美徳を宣伝しているとしても、膨大な量の消費者データを収集し、労働者や市民の権限を弱体化させ、横暴な新しい形態の監視を確立するのを止めることはほとんど出来ない。彼らが人件費を削減するために過度の自動化を追求することや、株主のためにさらに収益を生むために仕事を破壊することを妨げるものは何もない。 これらの反社会的傾向を逆転させる方法は、ビジネスラウンドテーブルが好むものとは大きく異なる次の2つのアプローチを通じてである。
第一に、経営幹部に対する法的および制度的制約を強化する必要があること。あまりにも長い間、マネージャーは刑事犯罪行為に対する刑事訴追を避けてきた。2008年の金融危機につながる巨大な職権乱用でさえ、ほとんど完全に処罰されなかった。ジャーナリストのジェシー・アイジンガーが指摘するように、今日のエグゼクティブフレンドリーな法的状況は、野心的で利己的な検察官が、自分のキャリアを増進させようと慮って、企業や経営者に対して刑事告発に手を抜く傾向がある。
さらに重要なことは、より明確なレッドラインを設定するために法律が必要である。積極的な租税回避に従事し、収益を支払うかどうかを決定することは、CEOに任せてはならない。企業が二酸化炭素排出量を削減することは、オプションであってはならない。そして、企業を絶え間ない自動化から遠ざけ、技術の変化を早急にリダイレクトする必要がある。これらの問題はすべて、社会の機能を維持するための方針に基づいて行われ、私利私欲のCEOの善意に委ねてはならない。
2 番目は、第1の補完である。エクソンモービル、フィリップ・モリス、フェイスブックは、CEOは、突然、世間への精神を高めたからではなく、市民社会からの強力な圧力によって、美徳シグナリングを出した。このような圧力は、経営幹部に、さらに裁量権を与える改革を阻止するために必要である。脱税、過度な業務の自動化、汚染、または、株主や貪欲な経営者を豊かにするための会計上のトリックなど、容認できない企業行動として列挙して法律で特定すれば、市民活動は、より良く機能する。
エクソンモービル、フィリップ・モリス、フェイスブックが、社会的に革新的ななビジネスモデルの改革に取り組んでいると信じるべき理由はない。彼らの広報活動は、彼らが感じているプレッシャーの反映である。市民活動は、機能し始めており、さらに効果的になる可能性がある。
しかし、これこそが、企業に対する、より良く組織化されたより強力な要求となる。 批判を和らげ、批評家を排除するために設計されたホワイトウォッシングキャンペーンではない。
企業の責任はあまりにも重要すぎて、企業のリーダーに任されるべきではない。
と結論する。
アセモグルは、経営者の倫理観など、全く信用して居らず、すべからく、今日の企業経営の悪化は、CEOの責任、CEOの問題、であると言っているのである。
21世紀の初頭まで、会社の監査役として働いていたので、株主至上主義のアメリカの経営思想は、痛いほど強烈に日本の経営を直撃していたのを経験している。
私が、ウォートン・スクールでMBA教育を受けていたのは、1974年までで、まだ、フリードマンの害毒の影響はそれ程なかったと思うのだが、三方良しの精神で商売をする日本では、昔から、「ステークホルダー資本主義」は常識であり、当時は、アメリカはそうであろうが、経営のやり方は、国によって違って当然だと思っていた。
それに、私自身、昔から、ガルブレイスを勉強していて、外部経済に与える企業経営の悪弊や企業の社会的責任や、ローマクラブの影響もあって成長の限界や環境破壊の問題などに興味を持っていたので、企業経営は、どうあるべきかについては興味があり、勉強していたので、利益優先、株主至上主義には、かなり、距離を置いて見ていた。
良かれ悪しかれ、”世界で脚光「ステークホルダー資本主義」、企業経営の潮流になるのか”という信じられないような現象が起こっており、企業経営の軸足が、社会、そして、人間の生活を重視する傾向に移りつつある(尤も、アセモグルの言うように信用は出来ないが)と言う革命的な経営環境の変化に驚いている。
これも、人民パワーの為せる技と言うべきか、
トランプ現象も含めて、ある日、世論が雪崩を打って胎動して、突然社会を大きく動かせる。
そんなことが起こりそうだと言うことは、まだまだ、民主主義は健全だと言うことであろうか。