土日は、朝はゆっくりと起きるのだが、週日は意識して早く起きる。
老後の隠退生活で、何も週日に拘る必要もないのだが、私の重要な義務は、孫娘の幼稚園への送り迎えなので、毎朝、8時半頃に家を出て幼稚園に送り届けなければならない。娘が喧しいので、それ相応の格好をして家を出なければならないので、サラリーマン時代の朝の通勤と同じである。
僅か片道1キロくらいの道のりだが、鎌倉は地形が入り組んでいて、アップダウンの激しい道なので、この頃では、帰ってくれば汗だくで、着替えをしても汗が引くのに結構時間が掛かる。
しかし、この毎日の往復二回の幼稚園通いで、最低1日に6000歩歩くことになるので、私には、良い運動になっており、体調管理にはプラスになっているので、喜ばなければならないのであろうとは思っている。
落ち着いたところで、まず、日経新聞を開く。
記事情報の殆どは、パソコンのインターネットやテレビで取得済みなので、飛ばし読み。
録画したNHK BS1の「キャッチ!世界のトップニュース」を見ると、少し時間はあるので、パソコンを叩いて、メールで送られてきているワシントンポストやBloombergやロイターのニュース記事や、インターネットでニューヨークタイムズや雑多な記事を読んでいると、すぐに、昼になってしまう。
午後は、専ら、読書に勤しむことになり、合間を見て、庭に出て花木の世話をしながら気晴らしをしている。
昔は、と言うよりも、コロナ前には、観劇やコンサートに東京に出かけたり、横浜の書店を巡ったり、また、気が向いたら、鎌倉の古社寺などにカメラをぶら下げて散策するなど、外出していたのだが、この頃は、近くの店に買い物に出るくらいで、晴耕雨読の毎日となってしまっている。
録り溜めた録画の能狂言やオペラや映画などを観ていると、瞬く間に時間が消えてしまう。
午後遅くは、塾に通っている孫息子の勉強をフォローしたり、ブログを書いたりしていると、夕刻となって、孫娘の迎えに幼稚園へ行く時間となり、そうこうしている内に、夕食時間となる。
さて、読書だが、書斎のあっちこっちに足の踏み場もないほど、本を積み上げてあり、倉庫には何百冊も眠っているので、読む本には事欠かない。
しかし、今でも、月に五冊は、新しいハードな本を買い続けている。
書店に行けなくなったので、新しい本は、専ら、アマゾンのネット情報で探す。ない本がないほどの情報網の宝庫で、USA版をも使って駆使すれば、検索次第で、いくらでも、新しい本や重要な本の情報が、芋づる式に取得できる。Project Syndicate の記事の著者情報などからも、新しい著作の情報を得ることもあり、とにかく、インターネットからは、実書店の書棚からは得られない新鮮な情報が取得できて、非常に役に立っている。
いずれにしても、一冊でも二冊でも本を読んで、新しい知識を得たい、新しい真善美に遭遇するチャンスを得たい、と思って読み続けており、これが別に苦痛ではなく、私の日々の生活の一部になっている。
同年齢の友人たちが、毎日退屈だなあ、と言っているのだが、そんなことを感じたこともなければ、むしろ、時間がなくて、焦っている。
老人会に入るわけでもなく、同好会や趣味の会やスポーツジムに通うわけでもなく、全く、一人で我が道を歩いているだけなのだが、やりたいことはいくらでも飛出してきて、やり繰りに困るほどである。
コロナが治れば、もう少し、アクティブな生活のリズムに戻したいと思っているのだが、さて、それで良いのか、このまま、何となく終幕に向けて行きそうな気がして、考え込んでいる。
老後の隠退生活で、何も週日に拘る必要もないのだが、私の重要な義務は、孫娘の幼稚園への送り迎えなので、毎朝、8時半頃に家を出て幼稚園に送り届けなければならない。娘が喧しいので、それ相応の格好をして家を出なければならないので、サラリーマン時代の朝の通勤と同じである。
僅か片道1キロくらいの道のりだが、鎌倉は地形が入り組んでいて、アップダウンの激しい道なので、この頃では、帰ってくれば汗だくで、着替えをしても汗が引くのに結構時間が掛かる。
しかし、この毎日の往復二回の幼稚園通いで、最低1日に6000歩歩くことになるので、私には、良い運動になっており、体調管理にはプラスになっているので、喜ばなければならないのであろうとは思っている。
落ち着いたところで、まず、日経新聞を開く。
記事情報の殆どは、パソコンのインターネットやテレビで取得済みなので、飛ばし読み。
録画したNHK BS1の「キャッチ!世界のトップニュース」を見ると、少し時間はあるので、パソコンを叩いて、メールで送られてきているワシントンポストやBloombergやロイターのニュース記事や、インターネットでニューヨークタイムズや雑多な記事を読んでいると、すぐに、昼になってしまう。
午後は、専ら、読書に勤しむことになり、合間を見て、庭に出て花木の世話をしながら気晴らしをしている。
昔は、と言うよりも、コロナ前には、観劇やコンサートに東京に出かけたり、横浜の書店を巡ったり、また、気が向いたら、鎌倉の古社寺などにカメラをぶら下げて散策するなど、外出していたのだが、この頃は、近くの店に買い物に出るくらいで、晴耕雨読の毎日となってしまっている。
録り溜めた録画の能狂言やオペラや映画などを観ていると、瞬く間に時間が消えてしまう。
午後遅くは、塾に通っている孫息子の勉強をフォローしたり、ブログを書いたりしていると、夕刻となって、孫娘の迎えに幼稚園へ行く時間となり、そうこうしている内に、夕食時間となる。
さて、読書だが、書斎のあっちこっちに足の踏み場もないほど、本を積み上げてあり、倉庫には何百冊も眠っているので、読む本には事欠かない。
しかし、今でも、月に五冊は、新しいハードな本を買い続けている。
書店に行けなくなったので、新しい本は、専ら、アマゾンのネット情報で探す。ない本がないほどの情報網の宝庫で、USA版をも使って駆使すれば、検索次第で、いくらでも、新しい本や重要な本の情報が、芋づる式に取得できる。Project Syndicate の記事の著者情報などからも、新しい著作の情報を得ることもあり、とにかく、インターネットからは、実書店の書棚からは得られない新鮮な情報が取得できて、非常に役に立っている。
いずれにしても、一冊でも二冊でも本を読んで、新しい知識を得たい、新しい真善美に遭遇するチャンスを得たい、と思って読み続けており、これが別に苦痛ではなく、私の日々の生活の一部になっている。
同年齢の友人たちが、毎日退屈だなあ、と言っているのだが、そんなことを感じたこともなければ、むしろ、時間がなくて、焦っている。
老人会に入るわけでもなく、同好会や趣味の会やスポーツジムに通うわけでもなく、全く、一人で我が道を歩いているだけなのだが、やりたいことはいくらでも飛出してきて、やり繰りに困るほどである。
コロナが治れば、もう少し、アクティブな生活のリズムに戻したいと思っているのだが、さて、それで良いのか、このまま、何となく終幕に向けて行きそうな気がして、考え込んでいる。