日蓮生誕800年】天変地異、疫病の流行……災難が続くいま、救いの道を示せるのはこの男しかいない。
鎌倉中期。人々は天変地異や疫病、飢饉に苦しめられていた。僧侶・日蓮は、為政者が悪法に染まり、仏たちがこの国を去ったが故に災難が続くと結論づける。鋭い舌鋒で他宗に法論を挑むが、それは浄土宗や禅宗を重用する幕府の執権・北条氏を敵に回すことでもあった――。苦しむ民を救うため、権力者たちと戦い続けた半生を描く感動作。(新潮社)
と言うのが、直木賞作家佐藤賢一のこの本。
釈迦が本懐を明かされた真実正直の教えは法華経のみで、法華教以前に説かれた爾前経は、方便の経、真実を明かしていない仮の教えであると、真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊として、エスタブリッシュメントたる幕府とそれを信仰する諸宗派を、徹底的に否定して糾弾するのであるから、誹謗中傷、弾圧は勿論、松葉が谷、小松原、龍ノ口など襲撃や法難に遭遇し、伊豆や佐渡への流罪など苦難の連続、
しかし、上行菩薩であるとの悟りを得て、法華経の流布に、一切の妥協を排して、不倒不屈の精神で、心血を注いで邁進する。
最明寺入道北条時頼に、1260年8月31日「立正安国論」を提出した。
”旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり死を招くの輩既に大半に超え悲まざるの族敢て一人も無し、・・・
(略)
汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、此の詞此の言信ず可く崇む可し。”(立正安国論)
その後二回、三度に亘って幕府に正法への改宗を求めたが、相容れられず、幕府からのあらゆる懐柔策や妥協を蹴って、
”同じき五月の十二日にかまくらをいでて此の山に入れり。これをひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほうぜんがために、身をやぶり命をつつれども破れざれば候へ。又賢人の習ひ、三度国をいさむるに用ゐずば山林にまじわれということは定まれるれいなり。”(報恩抄)
として、身延へ入山して布教活動に勤しむ。預言した他国侵逼難、蒙古襲来の報を聞く。
此の小説は、ここで終っている。
死後に西方浄土に行くのではなく、この現世こそ浄土であり、世の中の人総て、善人も悪人も出家者も在家も男も女も差別なく成仏できると説き続けた。
”抑 地獄と仏とはいずれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経文もあり、或は西方等と申す経も候。しかれどもしさいにたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみえて候。”(重須殿女房御返事)
”爾前の経経の心は、心より万法を生ず。譬へば心は大地のごとし、草木は万法のごとしと申す。法華経はしからず。心すなはち大地、大地即ち草木なり。爾前の経経の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし。法華経はしからず。月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり。”(白米一俵御書)
鎌倉中期。人々は天変地異や疫病、飢饉に苦しめられていた。僧侶・日蓮は、為政者が悪法に染まり、仏たちがこの国を去ったが故に災難が続くと結論づける。鋭い舌鋒で他宗に法論を挑むが、それは浄土宗や禅宗を重用する幕府の執権・北条氏を敵に回すことでもあった――。苦しむ民を救うため、権力者たちと戦い続けた半生を描く感動作。(新潮社)
と言うのが、直木賞作家佐藤賢一のこの本。
釈迦が本懐を明かされた真実正直の教えは法華経のみで、法華教以前に説かれた爾前経は、方便の経、真実を明かしていない仮の教えであると、真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊として、エスタブリッシュメントたる幕府とそれを信仰する諸宗派を、徹底的に否定して糾弾するのであるから、誹謗中傷、弾圧は勿論、松葉が谷、小松原、龍ノ口など襲撃や法難に遭遇し、伊豆や佐渡への流罪など苦難の連続、
しかし、上行菩薩であるとの悟りを得て、法華経の流布に、一切の妥協を排して、不倒不屈の精神で、心血を注いで邁進する。
最明寺入道北条時頼に、1260年8月31日「立正安国論」を提出した。
”旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり死を招くの輩既に大半に超え悲まざるの族敢て一人も無し、・・・
(略)
汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、此の詞此の言信ず可く崇む可し。”(立正安国論)
その後二回、三度に亘って幕府に正法への改宗を求めたが、相容れられず、幕府からのあらゆる懐柔策や妥協を蹴って、
”同じき五月の十二日にかまくらをいでて此の山に入れり。これをひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほうぜんがために、身をやぶり命をつつれども破れざれば候へ。又賢人の習ひ、三度国をいさむるに用ゐずば山林にまじわれということは定まれるれいなり。”(報恩抄)
として、身延へ入山して布教活動に勤しむ。預言した他国侵逼難、蒙古襲来の報を聞く。
此の小説は、ここで終っている。
死後に西方浄土に行くのではなく、この現世こそ浄土であり、世の中の人総て、善人も悪人も出家者も在家も男も女も差別なく成仏できると説き続けた。
”抑 地獄と仏とはいずれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経文もあり、或は西方等と申す経も候。しかれどもしさいにたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみえて候。”(重須殿女房御返事)
”爾前の経経の心は、心より万法を生ず。譬へば心は大地のごとし、草木は万法のごとしと申す。法華経はしからず。心すなはち大地、大地即ち草木なり。爾前の経経の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし。法華経はしからず。月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり。”(白米一俵御書)