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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ターミナル・ケアをどう考えるか

2013年06月26日 | 生活随想・趣味
   先日、遠い縁戚の老婦人が、脳梗塞で亡くなった。
   死のベッドで、家族間で問題になったのは、延命措置をとるかとらないかであった。
   結局、病床の本人の苦悶状態を見て、堪えられなくなった親族が安らかに見送るのが本人のためと自然死を選んだと言う。
   しかし、場合にもよるのだが、どんなことをしてでも、望みがあれば、出来るだけ永く生き長らえる道を選択して、あらゆる延命措置をとる人たちも結構多い。
   私など、そうなれば、生に執着するつもりはないので、娘たちに、延命措置など無用だと言い続けている。

   さて、問題は、この延命措置が良いのか悪いのかを、社会ベース、国家ベースで考えれば、どう言うことになるのか、トーマス・フリードマンたちが、「かっての超大国アメリカ」で、ターミナル・ケアと言うかたちで取り上げているので、考えてみたいと思う。

   CBSの「60ミニッツ」番組で、”メディケアは、患者が死ぬ前の最期の2か月間の診療費と入院費だけに、550億ドルを費やしており、これは、国土安全保障省や教育省の予算に相当する額である。また、その医療費の20~30%が、治療には殆ど意味をなさなかったと推定される。”と報じていたのを受けて論じている。
   寿命が延び、それを更に伸ばすために高価なテクノロジーや投薬を利用できるようになればなるほど、その組み合わせは国を破綻させる――すべての分野で医療費の増加を鈍らせない限りそうである。このため、政府が金を出すターミナル・ケアには、ある程度、暗黙の医療の割り当てが必要になる。と言うのである。

   
   医療に割り当てる公的資金をいくらにするか、予算措置をとっていない先進国はアメリカだけであり、持続できないような医療レベルを国民に約束して、白紙小切手を切り続けるわけには行かないので、社会の必要と個人の望みとを基盤に、全体の医療のレベルは、何処までが適切で、支払可能で、持続可能かを決めなければならない。
   そして、支払い可能で持続可能な範囲を決める時、ことに最後の1年のターミナル・ケアについて決める時は、科学的証拠に基づくものでなければならない。と言うのだが、要するに、医療行為が意味ある回復や延命に通じるのであればやるべきだが、一部のハイテク医療行為は、患者の利益にもならないものもあり、どうしても、命が終わる時まで医療を望むのであれば、自分の金でやれ、納税者の金で支払うのなら、厳格に規制すべきであると言うのである。

   日本の場合においても、国民健康保険制度の危機が問題となっており、システムはアメリカと違っても、国家財政が関わっていると言う意味においては、全く、同じ問題に遭遇している。
   先日、NHK BS1でのABCニュースで、同じ手術について、複数の病院に見積もりをとったら5倍くらいの開きがあったと報道していたのだが、フリードマンたちは、
   一本化された医療情報システムの確立が必要で、医療費を抑制する一環として、処置のみを基準とするのではなく、質が実証されて、コスト効率の高いサービスを基準に、病院や医師が医療費を支払われるシステムに移行する必要がある。と主張している。

   昔、保険代理店業を営んでいた友人が、人々の寿命が延びると言うことが、人類の不幸の始まりで、益々、年金や保険行政を悪化させ、人類社会を窮地に追い込んでいるのだと言っていたのだが、複雑な気持ちで聞いていた。
   医療に関するイノベーションや高度なテクノロジーの発展が、人々の命を守り、寿命を延ばすの大いに貢献しているのだが、そのために、益々、社会保障制度に負担をかけて財政を悪化させて行くので、ターミナル・ケアの水準を見直して、ダウングレードしなければならないと言うアメリカの現実をどう見るのか。
   一寸考えさせられたので、記事にしてみた。
   
コメント
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