熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

萬狂言・・・春公演「節分」「花盗人」「千切木」

2013年05月01日 | 能・狂言
   4月29日、国立能楽堂での「萬狂言 春公演」に出かけた。
   プログラムは、「節分」「花盗人」「千切木」であった。
   「節分」は、一度観たことがあるので、お馴染みだが、日本に遠征してきた蓬莱の島から来た鬼(野村太一郎)が、入り込んだ家の女(小笠原匡)に一目惚れしてしまって、必死に女を口説いたり気を惹こうと小唄を謡ったりするのだが、女が靡かないので、しまいには、おいおい泣き出し、女に、騙されて、自分の持つ宝物(隠れ蓑、隠れ笠、打ち出の小槌)を取られてしまうと言う、如何にも締まらない鬼の話である。
   太一郎が、近く釣狐を開くための前座の舞台のようだったが、元気溌剌と、実にエネルギッシュな舞台を展開していた。

   私が、特に興味を持ったのは、「花盗人」で、次のような話。
   見事な花を咲かせる桜の木の持ち主・何某(扇丞)が、桜の木の枝が折られているのを見て、相手を捕まえようと張っているところに、花盗人(萬)がやって来て枝を手折ろうとしたので、捕まえて幹にくくりつける。花盗人は、嘆きながら、中国の祚国が花を折ろうとして谷に落ちて死んだと言う漢詩を読みながら独り言を言うので、何某が傍によると、古歌を引いて桜を折っても咎にならないと言うので、興味を感じた何某が、花に纏わる一首を詠めれば許すと言う。歌詠みに成功したので、何某は、酒まで振舞って酒宴を催し、お土産に、桜の枝を手折ってわたすと、花盗人はいそいそと退場する。

   ところが、この狂言は、和泉流なのだが、この和泉流と大蔵流とでは違っていて、大蔵流では、花盗人が新発意(出家して間もない僧)となっていて、酒盛りの後、酔った新発意が、桜の大枝を折って逃げるのを、花見の者たちが追いかけると言った調子で、主人公の質が変わると話の中身も違ってくる。
   「花折」と言う狂言があって、シテの新発意が、桜の枝を折って花見客に与えて、アドの住持に叱られると言う話なので、大蔵流は、これを、アレンジ展開したと言うことであろうか。
   大蔵流では、このように捕えられるのが新発意なので、出家狂言、和泉流では、花盗人が男であることから、雑狂言の盗人物となっていると言うのが面白い。

   いずれにしろ、花盗人も何某も、和歌や漢詩などに大変興味を持った高い教養の持ち主で、かなり、詩歌などに造詣が深くないと、狂言の面白さなど、狂言そのもを楽しめないと言うことで、狂言の質の高さを示している。
   先月、国立能楽堂の定例公演で上演された大蔵流の「花争」は、花見にかけて、太郎冠者と主人が、桜花のことを、「花」と言うか「桜」と言うか、夫々が、桜花を謡った古歌を引き合いに出して争うと言う狂言だったが、これなども、言葉の遊び以上に含蓄深い対話が交わされていて、かなり、高度なユーモアと笑いが求められていて興味深い。

   ところで、岩波の「狂言集 上下」には、「節分」や「千切木」は収容されているのだが、この「花盗人」は含まれていない。
   両派の台本が、大分違うからなのかも知れないのだが、この本には、100曲以上が収容されているので、上演されるような狂言の大半は、載っており、舞台鑑賞の前後に読んでいて、結構面白くて参考になる。

   さて、太郎冠者の野村萬さんは、人間国宝で、公益社団法人日本芸能実演家団体協議会会長、公益社団法人能楽協会理事長、日本芸術院会員と言う肩書を持つ83歳の日本芸術界の最高峰の人物でありながら、芸は、実に真摯誠実であり、老いの片鱗さえ見せない矍鑠とした舞台にはいつも感動しながら鑑賞させて貰っている。
   歌舞伎には、台詞が入っていなくて、喧しい程プロンプターの声が客席まで聞こえる役者が結構多くて、感興を削ぐことがままあるのだが、殆どそんなことのない能でも、たまには、後見が謡うことはあるのだが、狂言では、何十回も観ているが、台詞が途切れたことは全くなくて、萬さんなどは、狂言が言葉の芸術であるから、実に、誠心誠意語り続けていて感動ものである。やはり、これこそが、狂言の、一番歴史と伝統のある古典芸能としての値打ちではないかと思っている。

   人の物を盗むのは、気が引けるのだが、頼まれた以上やむを得ないと、逡巡しながら、桜の枝に手をかけるまでの、盗人ながらの誠実さなども実に興味深いのだが、両手を縛られて漢詩や和歌を開陳しながら、何某を引きずり込んで感心させて酒まで振舞わせて、その上に、土産に花の枝を折って貰い、歌を謡って名残を惜しまれると言うハッピーエンドは、萬さんの人間そのものを観ているような気がして、私には非常に興味深かった。
   何某の扇丞も、これに良く応えて、味のある狂言の世界を展開していて面白かったし、ただ単に、おかしみだけを強調したり言葉遊びを展開するだけの狂言ではない、程度の高い同好の士の心の触れあいと交流のようなほのぼのとしたものを感じて、良かった。

   さて、最後の狂言「千切木」は、大勢が登場する舞台で、連歌の当屋(野村祐丞)が、嫌われ者の太郎(野村万蔵)を排除して開こうとした連歌の初心講に、当の太郎が聞きつけて来て邪魔をするので袋叩きにする話である。
   痛めつけられたのを聞いて怒った妻(万禄)が、太郎をけしかけて各戸へ仕返しに行くのだが、居留守をつかわれてままならず、気の弱い太郎は、戸外で空威張りして虚勢を張る。
   夫を叱咤激励して褒めたり賺したり、愛情深い夫思いの妻と、争いを避けたくて難をかわそうとする太郎の夫婦の掛け合いが面白く、よくある世間話がオーバーに展開された狂言で、複雑な(?)笑いを誘う。
   太郎の万蔵と妻の万禄とのテンポの早い丁々発止の掛け合いが面白い。 
コメント
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