goo blog サービス終了のお知らせ 

熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

秀山祭九月大歌舞伎・・・染五郎の「竜馬は行く」

2008年09月03日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   昨年の秀山祭で演じられた「竜馬が行く」の続編「風雲篇」が、今月の歌舞伎座の冒頭狂言である。
   初代中村吉右衛門の追悼記念公演なので、他の舞台は当代吉右衛門の演じる重厚な古典歌舞伎が主体だが、この舞台だけは、その曽孫の染五郎の現代的でフレッシュなこの演目が彩りを添えていて面白い。

   池田屋事件で薄暗い舞台が開く。
   続いて、帆船の軍艦が沖に繋留されている神戸海軍総練所のの場面に変わり、塾頭の坂本竜馬(染五郎)を訪ねて、中岡慎太郎(松禄)が登場。
   竜馬は、旅の途中、おりょう(亀治郎)を助けて運命的な出会いをするのだが、
   この舞台では、その後の、大阪の薩摩藩邸を訪ねて、西郷吉之助(錦之助)に薩長同盟を画策する竜馬の働きが見もので、二人とも良い味を出していて清々しい。
   大詰は、寺田屋事件で、新撰組に切り込まれた竜馬が、おりょうの機転で逃げ延びて、九死に一生を得る場面だが、屋根の上に逃げた瀕死の状態の竜馬におりょうが縋り付いて夕日を仰ぐ感動的なシーンで終わる。
   劇中で、竜馬がおりょうを口説きながらハネムーンの話を切り出すのだが、実際に、その後、二人は土佐へ旅立つ。

   風雲急を告げる幕末の獅子たちの動向については、何となく芝居がかり過ぎて大仰な感じで少し違和感を感じるのだが、竜馬の動きだけを追っていると非常に丁寧に良く出来た舞台だと思う。
   それに、染五郎の竜馬役も板についており、今回、おりょうの亀治郎が、頭のシャープな気風の良さと、優しさ温かさを滲ませた女の魅力を見せていて、中々素晴らしい。
   この亀治郎だが、午後の部では、新橋演舞場の舞台で、海老蔵を相手に「加賀見山旧錦絵」で召使お初と、「色彩間苅豆」でかさねを熱演しているのだから、NHKの武田信玄もそうだったが、たいした役者である。

   ところで、薩摩藩邸に乗り込んで、下関が欧米列強に痛打されて壊滅的な打撃を受けた長州を助けてやってくれと頼む竜馬に対して、西郷が、貴方も勝海舟も幕臣であり土佐の人間であり利害が違うのではないかと問い詰められて、勝も自分も、とっくの昔に幕府も藩も忘れてしまって、日本の行く末だけを案じているのだと説く。
   西郷は感動して、始めて本当の武士を見たと言うのだが、最後まで、国のかたちを心配して逝った司馬遼太郎の命の叫びであったのであろう。

   その前のシーンで、助けられたおりょうが、長州や薩摩やと言って大仰にいきり立つ男たちに向かって、戦う相手が間違っているのではありませんかと胸の透くようなことを言うのだが、このような人々が居たからこそ、日本人は、明治維新を乗り切って近代国家に脱皮できたのである。

   民主党が言うことを聴かない、仲間内の公明党が足並みを揃えない、自民党の反対勢力が動き出して抑えられない、内閣の人気投票がどんどん落ちて目も当てられない、そんなことをぼやきながらあっさりと政権を放棄して辞任を表明した福田と言う途轍もなき総理大臣こそ、小泉首相より、この歌舞伎を見るべきであろうと思った。
   党利党略、野党との対決だけにウツツを抜かすような人物は、絶対に国のリーダーになってはならないし、総理大臣とは、国家のため、人々の幸せの為に命を投げ出しても悔いのない志の高い人のみが務めるべき椅子なのだが、あまりにも、その劣化と軽さに涙する以外になくなってしまった。

   アメリカの大統領選挙も大詰だが、バラク・オバマの「合衆国再生」を読めば、如何に、格調の高い素晴らしい候補者であるかが分り、激しい感動を覚える。
   国のかたち、国家のあり方はかくあるべきで、志の高い崇高な理念と激しく逆巻く怒涛をものともせず突き進む情熱と燃える様な愛情を持った人物に国の将来を託さない限り、日本の明日はない。
   そう思うと、巣を潰されたありのようにもの凄い勢いで右往左往している日本の政治家達の蠢きが喜劇のように見えて、また悲しくなる。

   宇宙船地球号が、悲鳴をあげて崩れかけようとしている現実を如何に見るのか、人類に残された時間さえ、もう僅かしか残っていないというのにである。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする