熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

蜷川幸雄のシェイクスピア・・・間違いの喜劇

2006年02月18日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   彩の国さいたま芸術劇場で、蜷川幸雄演出で、シェイクスピアの『間違いの喜劇』が上演されている。
   とにかく、シェイクスピアの戯曲の中でも飛びぬけて面白い喜劇なので、蜷川幸雄の舞台も、男優ばかりでの上演だが、これが、抜群に愉快で、身体全体からシェイクスピア劇の楽しみが伝わる感じで2時間が瞬く間に過ぎてフィナーレになる。

   あの「恋に落ちたシェイクスピア」で御馴染みの様に、シェイクスピアの頃は、総て男優が劇を演じていたのだが、蜷川もこれに倣って、前回の「お気に召すまま」に引き続いて今回も男優ばかりで上演している。
   歌舞伎などは、元々、出雲の阿国が創設したにも拘らず、風紀の乱れを理由に男ばかりで演じられるようになったが、シェイクスピア劇の場合は、後年、女優が加わるようになった。
   オペラも、昔は、去勢された男の歌手カストラートが、ソプラノを歌っていた。とにかく、逆な場合の宝塚も含めてだが、モノセックスで演じられるパーフォーマンス・アートは、それなりに、味があって面白い。

   一度、ロンドンのイングリッシュ・オペラで、ギルバート=サリバンのオペラ「パシフィック・オーバチュア」が、男性歌手ばかりで演じられたのを見たが、開国時代の日本を舞台にしているので歌舞伎に倣ったのであろうが、歌手が総て欧米系で、これが、中途半端な歌舞伎役者のような恰好で出てきて歌うのであるから、かなり強烈な違和感を感じたことがある。

   しかし、今回の蜷川の舞台は、主役アンティフォラス兄の妻エイドリアーナを演じる内田滋など西洋人の夫人のような顔立ちで実にチャーミングであり、あのじゃじゃ馬馴らしのキャタリーナのようにおきゃんでパンチの利いた個性豊かな婦人像を巧みに演じていて素晴しい。
   それに、その妹ルシアーナを演じる月川悠貴は、胸の膨らみさえあれば正真正銘の女であり、控えめだが実に魅力的な女を演じている。
   エミリア役の鶴見辰吾は、義経の平宗盛の印象の為か、一寸、男を感じたが、とにかく、この舞台の女形(?)は、台詞も演技も実に上手くて、女優さながらであった。

   私は、シェイクスピア戯曲を見始めた最初の頃、もう20年ほど前になるが、一度だけ、ロンドンのバービカン劇場で、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの「間違いの喜劇」を見たことがある。
   舞台は、左右に、八の字型に立った出入り口の多い建物の壁があり、そこから、役者たちが派手に出入りしていたのを覚えているが、とにかく、単純な舞台セットで、役者も派手な衣装を着けていた。
   英語の中途半端な解説を読んだだけなので良く分からなかったが、良くも似た二組の役者を揃えたものだと思った印象がある。

   この劇は、双子の兄弟が幼い時に生き別れて異国で別々に住んでいる。成人してから、弟が、兄を探しに旅に出て、偶然シラクサに来てそこに住んでいる兄と間違えられて引き起こす周囲を巻き込んだ兄弟のどたばた喜劇である。
   更に、兄弟の夫々の召使が同じ双子の兄弟であり、名前も二組の兄弟とも完全に同じと来ているので、本人たち主従も間違えるし家族も街の人々も兄弟の区別がつかなくて間違うので、思いもかけない誤解を招き色々な悲喜劇を捲き起こす。
   シラクサに朝着いて、その日の夕方までに起こる悲喜劇だが、最後には、二人の両親ともめぐり会いハッピーエンドで終わる。
   有り得ない話だと思えばそれまでだが、こうなれば自分が一体誰なのかアイデンティティの危機を感じざるを得ず、また、実際にも良く似たそんな取り違えの人生を結構おくっているのが人間なのである。

   舞台は、カメオの様に彫像で装飾された黒いガラス張りの貴族のパラッツィオ風のファサードが衝立のように立っていて、真ん中に大きな玄関口、左右に小さな通用口があり、ここから登場人物が出入りする。
   このファサードの前で、劇が演じられるのであるが、街の雰囲気を出す為に、舞台の袖左右に3~4人ずつ四六時中住民役の役者が座っている。
   下手舞台下に楽士が3人いて色々な楽器を器用に演奏しながら舞台を盛立てているが、雰囲気を出す為のバックミュージックは、スピーカーから流れている。

   ところで、双子の兄妹が取り違えられる劇がシェイクスピアにもう一つある。昨夏、歌舞伎座で同じく蜷川幸雄が演出した「十二夜」で、この場合は、兄と妹で、男装して男になっていた妹ヴァィオラと兄のセバスチャンとが間違えられる。
   両劇とも最後の場面で両者が一緒に登場するまでは、かち合う場面がないので、夫々、兄弟、或いは、兄妹は、1人で二役を演じることが出来るが、最後は一緒に出ざるを得ないのでそうは行かない。
   「十二夜」では、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの時は、セバスチャンは舞台大詰めになってからしか出てこないので、二人で演じていたが、歌舞伎では、菊之助が二役で通し、最後は、別な役者が菊之助のマスクを被って出てきた。
   「間違いの喜劇」では、最後に良く似た別の役者が出て来て舞台を締めくくるが、どれほど良く似ているかが興味の対象でもある。

   今回の蜷川版では、アンティフォラス兄・弟は、小栗旬、召使のドローミオ兄・弟を、高橋洋が演じていて、畳み掛けるようなテンポの速い舞台展開を小気味よく演じていて、面白かった。
   小栗は颯爽とした良い男で、沢山観に来ている若い女の子の視線が熱い。高橋は、コミカルな道化風で実に器用で愉快である、それに、一寸中途半端だが、ドローミオ兄弟の台詞を使い分ける腹話術が効果的であった。
   私には、アンティフォラス兄弟の父親役を演じる吉田鋼太郎だけが本格的なシェイクスピア役者であるような気がした。実に堂々とした素晴しい役者で、何時も上手いと思って観ている。
   商人バルサザーを演じた瑳川哲郎は、控えめだがやはりベテランの味、とにかく、芸達者な先輩が有能な若手を自由に泳がせて素晴しい舞台を作っていて、蜷川が役者の個性を実に上手く引き出している。

   全体的には、蜷川幸雄の何時ものサプライズの舞台ではなく、極めてオーソドックスな正統派のシェイクスピア劇のような気がした。
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