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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

秀山祭九月大歌舞伎・・・「妹背山婦女庭訓 吉野川」

2016年09月19日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   夜の部の冒頭は、「妹背山婦女庭訓 吉野川」、2時間に及ぶ大舞台である。
   大判事清澄に吉右衛門、その子久我之助に染五郎、そして、太宰後室定高に玉三郎、その娘雛鳥に菊之助、さらに、腰元桔梗に梅枝、小菊に萬太郎と言う願ってもない布陣で、素晴らしい舞台を魅せてくれた。
   いわば、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」、「ウエストストーリー」のジャパニーズ・バージョンと言うべき名場面を、悲しく、そして、美しく謳い上げる。

   「山の段」で、舞台中央に、吉野川が流れていて、上手の背山に、大判事清澄の館、下手の妹山に太宰館が設えられていて、竹本の太夫と三味線も上手下手に床が設置されていて、花道も左右にあると言う、全く判で押したような対照的なな形で、全山、豪華絢爛と咲き乱れる吉野山の桜が、舞台を荘厳していて、息を飲む美しさ。
   両家は、領地争いで不和の関係にありながら、大判事の子息久我之助と定高の息女雛鳥は、恋に落ちて相思相愛。それに加えて、蘇我入鹿の横暴によって、両家は窮地に追い込まれて、絢爛と咲き乱れる華を散らす。

   両花道を、大判事の吉右衛門と定高の玉三郎と言う東西随一の千両役者が登場して、川を隔てて対話を交わし始めると、一気に舞台のテンションが高揚する。
   咲き誇る吉野の桜をバックに、妹山館の雛祭りの飾り付けの絢爛さが、悲劇を暗示して悲しい。


   吉野川を挟んで、大判事の館には謹慎を命じられた久我之助がいて、太宰の館には雛人形が美しく飾られているが、雛鳥は久我之助とのかなわぬ恋に泣いている。流れの早い吉野川が、二人を隔ててていて、川岸から手を差し伸べ切ない恋情を交わすのだが甲斐なき足掻き、そこへ二人の親が帰ってくる。
   桜の枝を手に、大判事と後室定高が川越しに言葉を交わす。子よりも家が大事と言えども、わが子可愛さ。久我之助が出仕し、雛鳥が妾にと言う入鹿の命令に服すと承諾したら、桜の花を散らさずに川に流して無事を知らせると約束する。
   定高は、雛鳥に、久我之助の命を助けるために、入鹿への輿入れを説得し、大判事は久我之助の忠義を全うしたいとの強い願いを聞き入れて切腹を許す。
   雛鳥が飾ってあった女雛の首を落としたのを見て、定高は入鹿の命令を拒む決心と悟って娘の首を討つ決意をし、方や、一気に腹に刀を突き立てた久我之助が、雛鳥が後を追わぬように、大判事に桜花のついた枝を吉野川に流すように頼む。それを見た雛鳥は、久我之助の無事を喜び、定高も花の枝を川へ投げ入れ、雛鳥に刀を振りおろす。
   大判事と久我之助も、妹山からの桜を見て安心するが、妹山からの断末魔の叫びを聞いて、雛鳥の死を悟り、定高も瀕死の久我之助の姿を垣間見る。自分は死んでも相手は助けたい、相手の子どもは助かるようにと願って投げた桜花は、所詮儚いあだ花。
   意を決した定高は、久我之助の息あるうちに雛鳥を嫁入りさせたいと、雛道具とともに、雛鳥の首を川の流れに乗せて背山へ送り、大判事がそれを弓で手繰り寄せる。
   玉三郎の定高が、蒔絵の駕籠に雛鳥の首を入れて、浮となる琴に駕籠を括り付けて、吉野川に流す、実に悲しい「雛流し」のシーンである。
   あたかも、塔婆や燈籠などを流して、死者を供養する流れ灌頂。大判事は瀕死の久我之助を介錯し、二人の首を左右に抱えて岸辺に佇み、泣き崩れていた定高と交感する。
   残された大判事と定高は、若くして儚く散った二人に悲しい祝福を与えて、両家の遺恨が静かに消えて行く幕切れ、名作である。

   この舞台では、男を問われると言うか、日和見主義と言うか悪行の権化と言うべき入鹿に、何の抵抗もせずに唯々諾々と従ってきた大判事と、主の采女を守り通すために一切入鹿に屈しなかった久我之助の男としての意気地の好対照。
   先の演目の造り阿呆を押し通して身の保全を図った一条大蔵卿のように、反入鹿である筈の大判事が、小心故か世渡り上手かは別として、久我之助は、入鹿の忠臣然としたそんな父親を許せなかった筈だが、この舞台では、鎌足の娘であり天智帝の寵姫である采女を入鹿の毒牙から守り通した、久我之助の忠義を全うする健気な姿に接して、入鹿の命令を蹴って自害を許して、心中、決然と、反入鹿を表明している。
   その心境の変化が、定高との和解と若い子供たちへの愛情あふれる姿勢にも凝縮していて、そのあたりの心の葛藤や決然とした大判事の貫禄と風格を大きなスケールで演じ続けた吉右衛門の芸の深さ冴えは格別であった。

   玉三郎の定高は、いわば、女ながらも一国一城の主であって、その貫禄と品格の高さは、抜群。
   仮花道の吉右衛門に対して、本花道に立つ玉三郎の雄姿からして、舞台を圧倒していて、その偉丈夫な女主が、娘雛鳥の久我之助へのなさぬ恋心を知り過ぎるほど知っていて、苦悶する母親としての優しさ温かさを全身に漲らせていて、涙が零れるほど感動する。
   花道に立って、大判事と渡り合う定高は、一国一城の主として、貫禄と風格十分の人物の大きさ、
   娘雛鳥の首を討つ決心をして、雛鳥の首を駕籠に託して嫁に出す「雛送り」では、愛に泣き人生の儚さに慟哭するお母さん、
   雛鳥に、毅然として入鹿への嫁入りを言い渡す時の玉三郎の悲哀と苦渋を綯交ぜにした愛情豊かな目の輝きと表情が忘れられない。
   雛流しを終えて、河畔に崩れ落ちて泣き崩れる玉三郎の後ぶりの美しさ、剛直そうでよろめく断腸の悲痛の吉右衛門と好対照で、涙を誘う。

   久我之助の染五郎と、雛鳥の菊之助の素晴らしさは、言うまでもなく、梅枝と萬太郎の時蔵子息兄弟の達者な芸も楽しませてくれて良い。
   菊之助の吉右衛門一座への加入は、歌舞伎界最高の贈り物の一つだと思っている。

   今年、四月に、大阪文楽劇場で、通し狂言「妹背山婦女庭訓」を鑑賞する機会を得て、この「妹山背山の段」は、
   大判事を千歳太夫と玉男、久我之助を文字久太夫と勘十郎、定高を呂勢太夫と和生、雛鳥を咲甫太夫と簑助、と言う素晴らしい布陣の舞台を楽しむことが出来た。
   今回の舞台は、更に、歌舞伎バージョンの醍醐味を観た思いで、感動している。
   
   
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国立劇場9月文楽・・・「一谷嫩軍記」の「林住家の段」

2016年09月18日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立小劇場の「一谷嫩軍記」の第一部のハイライトは、薩摩守忠則の都落ちを脚色した二段目最後の「林住家の段」であろう。
   平家物語には、薩摩守忠は、「忠則都落ち」と「忠則最期」で、登場するのだが、歌人としても武人としても、平家きっての芸術に秀で武勇にも勇名を馳せた文武両道の達人であったことを忍ばせて、感動敵である。

   まず、平家物語だが、「忠度の都落ち」では、
   一度都落ちした忠則が、「わが身ともに七騎取つて返し、五条の三位俊成卿の宿所に」やって来て、勅撰和歌集の編纂者である師の俊成に、「生涯の面目に、一首なりとも御恩をかうぶつて、」と懇願して、「日ごろ詠みおかれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを百余首書き集められたる巻き物を、今はとてうつ立たれけるとき、これを取つて持たれたりしが、鎧の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。」
   俊成は、「かかる忘れ形見を賜はりおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御疑ひあるべからず」と涙を押さえて受け取り、
   忠則は、「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮き世に思ひおくこと候はず。さらばいとま申して。」 とて、馬にうち乗り甲の緒を締め、西をさいてぞ歩ませ給ふ。」
   「世静まつて千載集を撰ぜられけるに、・・・勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、「詠み人知らず」と入れられける。
   ”さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな ”

   「忠度最期」だが、
   薩摩守忠度は一谷の西の手の大将軍にておはしけるがその日の装束には紺地の錦の直垂に黒糸威の鎧着て黒き馬の太う逞しきに鋳懸地の鞍置いて乗り給ひたりけるがその勢百騎ばかりが中にうち囲まれていと騒がず控へ控へ落ち給ふ処にここに武蔵国の住人岡部六弥太忠純よい敵と目を懸け鞭鐙を合はせて追つ駆け奉り
   あれはいかによき大将軍とこそ見参らせて候へ、正なうも敵に後ろを見せさせ給ふものかな、返させ給へ返させ給へ、これは御方ぞとて振り仰ぎ給ふ内甲を見入れたれば鉄漿黒なり
   あつぱれ御方に鉄漿付けたる者は無きものをいかさまにもこれは平家の君達にておはすらめとて押し並べてむずと組む
  「薩摩守は聞ゆる熊野育ち早技の大力にておはしければ六弥太を掴うで」組伏して、「首を馘かんとし給ふ処に六弥太が童後れ馳せに馳せ来て急ぎ馬より飛んで下り打刀を抜いて薩摩守の右の肘を臂の本よりふつと打ち落す」
   「薩摩守今はかうとや思はれけん、暫し退け最後の十念唱へんとて六弥太を掴んで弓杖ばかりをぞ投げ退けらる、その後西に向かひ、光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨と宣ひも果てねば六弥太後ろより寄せて薩摩守の首を取る
   よき大将軍討ち奉りたりとは思へども名をば誰とも知らざりけるが箙に結び付けられたる文を取つて見ければ、旅宿花といふ題にて歌をぞ一首詠まれたる
   ”行き暮れて木のしたかげを宿とせば花やこよひのあるじならまし 忠度”
   「この日比日本国に鬼神と聞えさせ給ひたる薩摩守殿をば武蔵国の住人猪俣党に岡部六弥太忠純が討ち奉つたるぞやと名乗つたりければ敵も御方もこれを聞いて、あないとほし、武芸にも歌道にも優れてよき大将軍にておはしつる人を、とて皆鎧の袖を濡らしける」

   忠則に従っていた雑兵は寄せ集めなので皆逃げてしまって、孤軍奮闘の忠則が、六弥太の首を掻こうとした時に、六弥太の家来に右肩を切り落とされてしまうのだが、このような最期の戦いに出ても、鉄漿を欠かさず、箙に和歌を結び付けると言う風流を忘れなかった平家の英雄薩摩守忠則の最期に、坂東武者たちが、涙したと言うのである。

   先の「敦盛の最期」を聞いた義経以下坂東武者たちも、その風雅に涙したと言うのだが、この忠則の最期にしろ、「平家物語」の語り部たちは、清盛や平家の横暴を「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」といなしながらも
、文化芸術の香りの素晴らしさを、平家への挽歌に託して謳い上げていたような気がして、いつも、しみじみとした感興を覚えながら、平家物語に感じ入っている。
   この文楽の「陣門の段」で、初陣の高名を立てるべく一番乗りした小次郎が、平家の陣所から、素晴らしい笛の音が流れてくるのを聞いて、都人の優雅さ優しさに感じ入るシーンがあるのだが、青葉の笛の導入部として、興味深い。

   さて、この平家物語を下敷きにして編み出された浄瑠璃の「一谷嫩軍記」の忠則(玉男)を主人公にした「林住家の段」だが、先に論じたように、平家への愛情過多の義経(幸助)の登場によって、大分、実話から、話がスキューしているのだが、それを差し引いても、この段の忠則は興味深い。
   忠則の「さざなみや」の歌は、俊成の推薦によって義経が勅撰和歌集に掲載することを決して、その伝言を、忠則最期で戦った六弥太(玉志)に命令することは、初段の冒頭で示されていて、この段では、六弥太が、林住家にやって来て、忠則に、義経から託された忠則の詠歌の短冊を結び付けた山桜の枝を渡して千載集に加えたことを伝える。
   忠則は、生涯の本望と喜び、六弥太の縄にかかろうとするのだが、六弥太は、今回の役目は討手ではなく、義経のメッセンジャーとして来たのであるから、戦場で見えようと言って、平家物語とはだいぶ違ったニュアンスながら、忠則最期のシーンを暗示させて面白い。

   この舞台で興味深いのは、俊成の娘・菊の前(簑助)が、忠則に恋い焦がれる恋人役として登場していることで、林住家で再会して、どうしてもどこまでもお供したいと忠則にかき口説くのだが、平家に加担したと俊成に咎が行くことを恐れ、討ち死に覚悟をした忠則は聞き入れず、悲しい別れのシーンが展開される。
   女性美の極致とも言うべき、健気で一途に思い詰めて愛に身を捧げるいじらしい簑助の遣う菊の前の人形を観るだけで、この文楽に行った甲斐がある。それほど、簑助の至芸の極致とも言うべき、凄い舞台なのである。
   それを受けて立つ忠則の玉男の人形も、大変な威厳と風格で、圧倒するようなオーラと迫力がある。
   松王丸などもそうだが、歌舞伎や文楽では、本来それ程重要人物でない人物が、大仰な芸をするのだが、薩摩守忠則は、名実ともに華のある最高峰の武人であり文人であるから、いくら、素晴らしい芸を見せても見せるほど絵になるのである。

   さて、この第一部は、他にも、「敦盛出陣の段」や、「陣門、須磨の浦、組討の段」など素晴らしい舞台が展開されていて、このような充実した通し狂言「一谷嫩軍記」を見せられると、その奥深いストーリー展開に感動するとともに、三業のコラボレーションによって生み出される文楽の魅力に圧倒される思いである。
   和生が遣う敦盛と小次郎をが、品があって爽やかな青年像を醸し出していて印象的である。
   また、和生は、乳母林も遣っており、これは、本来和生の得意中のキャラクターであるから、簑助の菊の前を庇う仕草など、優しくて温かく感動的である。

   能「忠則」との関係についても書きたかったが、蛇足であろうと思ってやめにした。
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秀山祭九月大歌舞伎・・・「一絛大蔵譚」「碁盤忠信」

2016年09月15日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   秀山祭の昼の部で、先に「太刀盗人」につて、観劇記を書いた。
   主演目は、吉右衛門の「一絛大蔵譚」であり、染五郎の「碁盤忠信」なのであろうが、私には、狂言「長光」の歌舞伎バージョンである「太刀盗人」の方が面白かった。

   染五郎が演じる義経の忠臣佐藤忠信が豪快な舞台を見せる「碁盤忠信」だが、七世松本幸四郎が明治44年11月の襲名披露興行で一度だけ上演した狂言で、それを百年ぶりに染五郎が復活させて、5年前に、日生劇場で演じられた。
   創作の手掛かりとなったのは、台本と、雑誌『演藝畫報』に掲載されていたモノクロの扮装写真と、帝劇に一枚だけ写真が残っていた舞台写真だけで、殆ど完全に古典歌舞伎の手法に則った創作歌舞伎であった。
   ストーリーとしては、非常にシンプルで、忠信が、敵に回った義父小柴入道浄雲(歌六)に追い回されて、多くの捕り手たちを相手に、碁盤を片手に振り回して大立ち回りを演じるシーンが見せ場。
   捕り手たちを相手にしたマスゲーム的な群舞やロープのすっぽ抜けなど現代的な手法を随所に駆使した、斬新な面白さがあった。
   忠信の亡妻小車の霊で登場した児太郎が、しっとりした良い味を出していた。

   さて、「一絛大蔵譚」だが、1993年から歌舞伎座へ通い続けているので、随分、この歌舞伎は観ていると思うのだが、このブログでは、一番最初の記録は、2005年の勘三郎襲名披露公演であり、その後、観て記録に残っているのは、吉右衛門、菊五郎、仁左衛門、染五郎の大蔵卿の舞台である。
   一絛卿は、源氏の血統にありながらも、今や高級公家の身。阿呆を演じて世を欺き保身に明け暮れる日々ながら、下げ渡された妻の常盤御前(魁春)を伺いに来た源氏に味方する鬼次郎(菊之助)とお京(梅枝)に、本心を明かして、義経に宝剣を託す。
   獅子身中の虫家来の勘解由(吉之丞)を誅殺して、常盤御前、鬼次郎、お京だけを前にして、正気に戻って本心を明かし、再び、狂言や舞三昧の阿呆の世界に戻る苦悶に満ち屈折した心を押し殺して生きる一條卿。
   あの造り阿呆の表情は、正に人間国宝の至芸の極地。
   吉右衛門の説明によると、元々は、阿呆から正気に変身する見せ場だけの他愛ない芝居だったのを、初代吉右衛門が、本心をさらけ出せずに思い悩む貴人に変えたようで、芝居の深みが増した。と言う。

   一条大蔵卿と称された一条長成の妻は、常盤御前で、二人の子を成しており、義経の義父でもある。
   ウィキペディアによると、
   ”義経が幼少時、奥州平泉の藤原秀衡に庇護されたのは、長成の支援によるものといわれる。秀衡の舅である藤原基成は長成の母方の従兄弟にあたる藤原忠隆の子であり、親戚関係にあった。”とあるから、義経とは、浅からぬ因縁にある。
   しかし、阿呆を装って世を欺いて生きたと言う記録はないので、この歌舞伎は、フィクションであろう。
   よくできた芝居だとは思うのだが、この歌舞伎もストーリーが単純すぎるので、一絛大蔵卿を演じる座頭役者の芸の出来次第の舞台であろうと思う。

   「一絛大蔵譚」も「碁盤忠信」も、登場はしなかったが、義経に纏わる歌舞伎であった。
   
   
   
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国立劇場9月文楽・・・「一谷嫩軍記」三段目

2016年09月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の「一谷嫩軍記」は、通し狂言なので、筋が明確になって、非常に面白い。
   第一部は、後で見ることになっているので、今回は「三段目」だけであるが、「弥陀六内の段」からなので、敦盛の笛の行くへが、はっきりとして、弥陀六が宗清であり、庇護している清盛の娘との関係などが分かって興味深い。
   (今回は、国立劇場のHPの写真を借用して、この文章を書かせてもらうことにしたい。)

   「弥陀六内の段」で、弥陀六(玉也)が庇護している田舎娘小雪(紋臣)が、お三輪が貴公子に恋焦がれたように、敦盛(和生)に恋をすると言う一腹の清涼剤の様な設定が面白いのだが、元々、清盛の娘と言う設定であり、最後に、義経が、弥陀六を清経だと見破って、鎧櫃に忍ばせた敦盛を、大切に育てている娘へ届けてくれと言う粋な計らいも面白い。

   今回、面白かったのは、チャリ場の連続で、舞台を沸かせていた「脇ヶ浜宝引の段」での咲大夫の語りと燕三の三味線の上手さと芸の冴え、勿論、小雪と藤の方との出会いや、青葉の笛との遭遇など感動的なシーンも感興豊かで、唯一のきりば語りの咲太夫の登場に納得した。
   

   ところで、「文楽へようこそ」で、玉男が、好きな演目の第二位に、この熊谷を上げている。
   見せ場は、何といっても、熊谷が軍扇を駆使して、須磨浦で、敦盛と一騎打ちを語る「物語」の場面でしょう。右手で遣っていた軍扇を左手に持ち替えて「要返し」をして、足遣いは棒足で決まると言う型が難しい。と言う。
   また、制札で藤の方(勘彌)を押さえて、義経(幸助)に敦盛の首を差し出す「制札の見得」の辺りは、長袴姿を格好良く遣うためには、左遣い、足遣いの実力も必要である。とも言う。
   私など、あの能「屋島」の那須与一語もそうだが、居語りなどの語りのシーンにはそれ程目が行かなくて、派手な「制札の見得」のような見せ場ばかりに注意が行くのは、鑑賞が未熟な所為でもあろうか。
   


   さて、あの名文句の「十六年も一昔」だが、先に次のように書いた。
   英太夫と團七の浄瑠璃と三味線に乗って、勘十郎の熊谷が、手に持った兜を眺めながら、「十六年も一昔。夢であったなァ」
   万感の思いを込めて歯を食いしばって泣いている。

   この部分は、文楽の場合には、浄瑠璃本来の床本通りの演出だが、普段の歌舞伎の舞台とは、大きく異なっている。
   歌舞伎も、本来のの幕切れは、文楽のように、いわゆる、芝翫型、役者全員が舞台上にいて幕となった引張りの見得であったのを、七代目團十郎が、今日のように、熊谷ひとりが花道に出て、幕を引かせ、天を仰いで、「十六年は一昔、アア夢だ。」と独白して、ひとり花道を引っ込む團十郎型を見せて、これが、踏襲されている。
   今回の芝翫襲名披露公演では、橋之助は、芝翫型を演じて、面白い舞台を見せてくれるのであろう。

   ところで、この團十郎型だと、浄瑠璃本来の幕切れで相模と共に引っ込む演出とは、大分、ニュアンスが違ってくる。
   このあたりを、團十郎型の吉右衛門は、自著「歌舞伎ワールド」で語っていて興味深い。
   ”「十六年は一昔」は、出家した熊谷が、脇目もふらず陣屋を立ち去ろうとしたのに、義経に「コリヤ」と、小次郎の首をもう一度目におさめておけと、と呼び止められて、思わず口をついて出たつぶやき、・・・「もう何も思い出したくない。振り返りたくない」という心も一方にはあって、でも、あの首がどうしても視野に入って・・・”と言う。
   
   私自身は、熊谷が出家を決意したのは、自分の子供小次郎を敦盛の身代わりにしたことだけではないことは、一ノ谷の波打ち際で、敦盛を組敷いて首を討たざるを得なくなった時に、戦いの不条理と世の無常を感じて心で慟哭していたことを想えば、良く分かる。
   勘十郎の熊谷のように、小次郎を討ったことは断腸の悲痛だが、熊谷の誇りであり生きがいであった筈の武士を兜で象徴して、人生のすべてを見切って、「十六年は一昔」と苦しい胸の内を吐露して、最後には、妻の相模(清十郎)を伴って幕に消えて行く、これが、本来のように思う。
  英太夫と團七の浄瑠璃と三味線、勘十郎の人形が、万感胸に迫るシーンをうつしだして感動的である。

   前回、私は、大阪での玉男襲名披露公演で、玉男の熊谷陣屋の雄姿を鑑賞した。
   あの時は、女房相模を吉田和生、敦盛の母・藤の局を桐竹勘十郎であった。
   もう一度、11年前に見た熊谷も、玉女の頃の玉男であったので、勘十郎の熊谷を観るのは、初めてである。
   この時も相模と藤の方は、同じく和生と勘十郎が遣っていた。
   私は観ていないのだが、6年前の文楽劇場では、勘十郎が熊谷を遣っていて、今回は2度目と言うことであろうか。
   全く記憶はないのだが、小劇場へは、20年以上、殆ど間違いなく通い詰めているので、先代の玉男や文吾の凄い舞台に接する機会もあったのであろう。
   
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文楽「寿式三番叟」・・・能「翁」と違った面白さ

2016年09月09日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   この国立劇場で、文楽の「寿式三番叟」は、何度か観ているのだが、特に、記憶に残っているのは、二人の三番叟が、激しく舞い狂う最後のシーンである。
   確か、あの時は、翁を和生、千載を清十郎、三番叟を玉男と勘十郎が遣っていたと思うのだが、とにかく、能「翁」とは、この部分が大きく違っているので、非常に印象的であった。
   

   この口絵写真は、芸術文化振興会のHPから借用したのだが、舞台は、能楽堂を模して、大きな松が描かれた鏡板をバックに、能舞台の天井が吊り下げられた格好で設営されていて、能の雰囲気を醸し出していて、面白いと思った。
   能舞台と同じように、翁や千載や三番叟が舞う舞台の後ろに、三味線と太夫が一列に陣取っており、他の囃子は、下手の御簾から奏されている。

   能の「翁」は、全くほかの能と違って、正に、神の領域と言うか神がかった雰囲気で神聖な儀式として上演されるので、演者はすべて精進潔斎し、観客も神事の参加者であるから、上演中は、見所への出入りは一切禁止される。
   文楽の場合には、私の場合、以前に、遅れて来場し途中で入れて貰えたので、それ程のこともないのであろうが、しかし、翁の津駒太夫は、真っ赤に緊張して全霊を振り絞った面持ちで語っていたし、日頃豪快に人形を遣っている玉男が、顔面蒼白と言った感じの緊張した表情で、実に厳かに翁を遣っていて、ただの舞台ではないことを悟らされた思いであった。
   
   文楽の「寿式三番叟」は、能の「翁」を踏襲しているのだが、やはり、三番叟の扱いの差が異色である。
   能「翁」の方は、狂言方が、直面の三番三(三番叟)姿で登場し、「揉ノ段」を舞った後、黒式尉の面をつけて、鈴を渡されて、「鈴ノ段」の舞を舞う。
   荘重で重々しい翁や千載の舞とは違って、躍動感に満ちた舞である。

   しかし、この「翁」の一種孤高な趣さえ感じさせる三番叟の舞に比べると、文楽の三番叟は、家内安全・五穀豊穣・子孫繁栄を寿ぐのであるから、着衣からしてお神楽風で、悪く言えば、猿回し風の派手な格好で登場して、同じく、「揉ノ段」と「鈴ノ段」を舞うのだが、二人の連れ舞であるから、正に、見せて魅せる舞台で、とにかく、生身の役者では演じ切れない、人形だから演じれる躍動感に満ちた激しくも素晴らしい芸を見せる。

   当然、詞章も「翁」とは違っていて、「翁」は、翁の「とうとうたらりたらりら、・・・」と荘重な謡から始まるのだが、文楽の場合には、人間国宝の鶴澤寛治の三味線が皮切りとなり、津駒太夫の「それ豊秋津州の大日本、・・・」とアマテラス大神の日本誕生から、素晴らしい天下太平の御世を称えて謳い上げ、「とうとう・・・」と荘重な翁の舞の幕開けに繋ぐ。
   天下泰平、国家安穏、長久円満、息災延命を願って、神がかりの舞で、日本国の素晴らしさを謳歌する。
   とにかく、「とうとうたらりたらりら、・・・」誰にも、その意味は分からないようだが、観客が、神の儀式に参加して、神性の崇高さを体験する貴重な機会が、能「翁」であり、文楽や歌舞伎の「寿式三番叟」なのである。

   津駒太夫と玉男の翁、呂勢太夫と文昇の千載、咲甫太夫と睦太夫、そして、玉勢と簑紫郎の三番叟の素晴らしい芸を楽しめるのも、今回の特別記念公演のポイントであろう。
   40分をオーバーするこのパーフォーマンス、いつ見ても、特別な感慨を覚える。
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能「敦盛」と文楽「一谷嫩軍記」の敦盛

2016年09月08日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立能楽堂で、能「敦盛」の後、国立劇場で、文楽の通し狂言「一谷嫩軍記」の「熊谷陣屋」を鑑賞した。
   期せずして、一ノ谷での敦盛と熊谷の争いが主題になっており、非常に重要な舞台である。
   平家物語を基にして、夫々、虚構の舞台を作り上げているのだが、その対比と、舞台芸術の表現手法の面白さが際立った舞台ではないかと思う。

   敦盛が、一ノ谷で熊谷に遭遇したのは、従五位の下の「無官の大夫」で16歳の時。
   敦盛は、平家きっての美少年で、笛の名手であり、祖父の忠盛が鳥羽院から賜った名笛「小枝」は、父経盛を経て敦盛へと代々受け継ぎ伝えられ、須磨寺に残っている。
   熊谷は、武将と言うよりは、最高級の貴公子然とした凛々しくも美しい敦盛を組み敷いた時、助けようとしたが、味方の来襲で、やむなく、涙を呑んで首を掻いた。
   学芸を極めて平安文化の粋を体現した、この敦盛や忠度を、坂東武士と対比しながら、滅びゆく平家への挽歌として描かれた能や歌舞伎文楽は、特別な感慨を呼ぶ。

   世阿弥は、「平家物語」との関わりについて、
   「軍隊の能姿。仮令、源平の名将の人体の本説ならば、ことにことに平家の物語のままに書くべし。」と言ったと言う。

   その真意は、私には、まだ、良く分からないのだが、世阿弥の作である能「敦盛」は、次のようなストーリーである。
  
   源氏の武将、熊谷次郎直実は、一の谷の合戦で、16歳の平敦盛を討ち取ったのだが、その痛ましさに無常を感じ、出家して蓮生となった。敦盛の菩提を弔うために一の谷を訪れた蓮生の前に、笛の音が聴こえたかと思うと、草刈男たちが現れ、蓮生に、残った一人が、笛にまつわる話をする。
   不審がる蓮生に、男は、「自分は敦盛に縁のある者で、十念を授けて欲しい」と頼むので、蓮生が経をあげると、男は、敦盛の化身であることをほのめかして姿を消す。
   その晩、蓮生が敦盛の菩提を弔っていると、敦盛の霊が当時の姿で現れて、自分を弔う蓮生に、以前は敵でも今は真の友であると喜んで、懺悔を始める。平家一門の衰勢を語り、都落ちから、須磨の浦での侘び住まい、退出寸前の前夜の陣内での酒宴の様子を舞う。一の谷で、舟に乗ろうと波打際まで来た時に、熊谷に呼び止められて一騎打ちとなり、討たれた戦いの様子を舞って見せ、今は、最早敵ではなく法の友であると、蓮生に回向を頼んで消えて行く。

   世阿弥の能は、複式夢幻能。
   構成は、前後二段に分かれていて、前場は、ゆかりの者として登場して、後場で、主人公が幽霊として現れて、夢幻のように復活して過去を語るというストーリー展開である。
   この能「敦盛」は、「平家物語」を忠実に踏襲していて世阿弥の言葉通りだが、実は、この後日譚と言う位置づけであると言うところが興味深い。
   あの悲惨な一ノ谷の合戦での、熊谷が敦盛を討つ悲劇が描かれてているのだが、
   最後には、敦盛の霊は、出家して僧になった直実の読経に救われて、「同じ蓮の蓮生法師、敵にてはなかりけり、跡弔ひてたびたまへ」と唱えて消えて行く。
   恩讐の彼方に、と言うのであろうか、敦盛は、成仏して幕引き、ハッピーエンドである。

   十六中将の面をつけた後シテの観世喜正の敦盛の優雅さ美しさは格別で、折り目正しく風格のある福王茂十郎のワキ/蓮生との舞台は、荘厳ささえ感じさせて、感動的であった。
   

   ところで、歌舞伎や文楽の「一谷嫩軍記」では、同じ、熊谷と敦盛の悲劇を扱いながら、換骨奪胎と言うか、全く話が変ってしまっている。
   敦盛は、実は、後白河院のご落胤であって、それを知っていた義経が、敦盛の命を助けるために、弁慶に謎解きの高札を書かせて、熊谷直実に託すと言う設定でストーリーが展開するのである。
   敦盛の母・藤の方は、もと後白河院に仕えた女房で、経盛の妻となる前に、すでに懐妊しており、その子供が敦盛であったと言うのである。
   義経は、熊谷に、「一枝を切らば一指を切るべし」と言う文言を認めた高札を渡し、須磨に陣所を構え、そこにある若木の桜をこの制札で守れと命じるのだが、忠義に篤い熊谷は、義経の制札に込めた命令を守って、敵将敦盛を助けるために、実子小次郎直家を、断腸の思いで身代わりに殺しすのである。
   断腸の悲痛を噛み締めて、熊谷は、無常感に苛まれて、武士を捨てすべてを捨てて出家して、連生と称して旅に発つ。

   敦盛がご落胤であることは、初段の「経盛館の段」で、父経盛が明かしているのだが、普通この文楽や歌舞伎は、第二段の「一谷陣門の段」から上演されることが多いので、このことが分からず、実際には、辻褄の合い難い舞台展開が見られるのだが、これらの非常にうまく錯綜させた虚構や薩摩守の登場なども含めて、浄瑠璃としては、非常に面白く出来た最高傑作のひとつなのであろう。

   敦盛のご落胤説は、資料にもなく、かなり流布している清盛の白河法王ご落胤説の影響を受けたのであろうが、このテーマが欠落すれば、浄瑠璃の「一谷嫩軍記」は成立しないであろう。
   尤も、熊谷の無常観と出家への動機を、父子の恩愛にかえて一層強く印象付けることにはなっている。
   私は、この歌舞伎の敦盛を後白河院のご落胤と言う脚色よりも、「平家物語」の琵琶法師の語るストレートな物語の方が好きである。

   「平家物語」では、
   直実が敦盛を組伏せた時に、実子小次郎直家を思って助けようとして敦盛を説得するのだが、拒絶され、後ろから50騎ばかり駆け込んで来たので、どうせ討たれるであろうと思って涙を飲んで首を掻く。鎧直垂を解くと錦の袋に入った笛「小枝」が引き合わせに差されており、朝、城から聞こえて来ていた優雅な笛の音の主はこの人だったのかと感激して、このことを陣に帰って義経に語ると、見る人聞く人、荒くれ武骨な坂東武者でも泣かぬものは一人も居なかったと言う。
   直実は、夜もすがら敦盛のことを嘆き悲しみ、この思いが仏門に入る発心となった。
   熊谷は、敦盛の衣装、鎧以下の兵具などひとつ残らず、笛も取り揃えて、丁寧な牒状を書き添えて、船を仕立てて、父君・修理大夫平経盛に送り届けており、経盛も感動的な返書を送っている。

   余談だが、「一谷嫩軍記」で、敦盛の身代わりになって殺された筈の小次郎直家は、一ノ谷の合戦では討ち死にしかかったが助かっており、奥州藤原氏征討に参戦して、主君の源頼朝から「本朝無双の勇士なり」と賞賛されたと言うことで、家督を継いで、53歳まで生きたと言う。
   したがって、浄瑠璃の「一谷嫩軍記」は、全くの虚構だと言うことであろう。

   英太夫と團七の浄瑠璃と三味線に乗って、勘十郎の熊谷が、手に持った兜を眺めながら、「十六年も一昔。夢であったなァ」
   万感の思いを込めて歯を食いしばって泣いている。
   凄い舞台である。
   
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秀山祭九月大歌舞伎・・・狂言「長光」が歌舞伎「太刀盗人」に

2016年09月07日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   昨日と今日、歌舞伎座の秀山祭九月大歌舞伎昼の部、国立能楽堂定期公演、国立劇場文楽第二部を続けて観る機会を得た。
   2日目の能が終わって、千駄ヶ谷から半蔵門の国立劇場へ、40分で移動するのが、大変であったが、前回、開演時間を間違えて、遅れて会場に行き、住大夫と簑助の「三番叟」をミスったので、今回は、是非にも観たかった。

   今回、興味深いと思ったのは、異種の古典芸能が、同じ主題や話を内容とする舞台を演じていて、その違いや差の面白さを感じたことである。
   能「敦盛」と文楽の「一谷嫩軍記」が、敦盛をテーマとしていること、歌舞伎の「太刀盗人」が狂言の「長光」からの脚色、そして、文楽「寿式三番叟」が能「翁」の異色バージョンであること、などである。
   
   まず、歌舞伎の「太刀盗人」について書いてみたい。
   オリジナルは、能の「長光」。次のようなストーリーである。 
   京に滞在していた田舎者が、故郷への土産を買おうと市場で品定めをしていると、そこへ、すっぱ(詐欺師)が現れて、田舎者の持っている立派な太刀に目をつけて盗もうと考える。すっぱは、田舎者にすり寄って、太刀の下げ緒を見物しているふりをして自分の体に結んでしまい、自分が穿いているのだから自分の太刀だと言いがかりをつけたので、ふたりは口論する。そこへ、所の目代(お代官様)がやって来たので、仲裁に入る。目代は太刀の持ち主を調べるために、太刀の国や作、地肌、焼付けの様子などを尋ねる。田舎者が最初に大きな声で目代に言うのを、すっぱが盗み聞きして鸚鵡返しに答える。聞かれているのが分かったので、太刀の寸尺を田舎者に耳元で答えさせる。ところが、すっぱは答えることが出来ないので悪事が露見する。すっぱの上着を剥ぐと、盗品が体に巻き込まれているので泥棒と分かって、目代と田舎者は、逃げるすっぱを追いかけて行く。

   狂言には、このすっぱが登場する曲が結構あって、「茶壷」などは、茶壷を背負った男が道で寝込んでいると、すっぱが添い寝して、背負い紐を片腕に通して、茶壷争いをすると、そこに目代が登場して仲裁に入るのだが、すっぱが盗み聞きを鸚鵡返しに答えるので、目代が判定に困ると言う話など、殆ど同じ展開である。

   ところで、歌舞伎の「太刀盗人」は、この狂言の「長光」を踏襲して殆ど同じ展開ながら、刀の長光を、「正宗」に代えて、舞台で、大仰に、漢字をなぞる仕草を交えて面白い。
   狂言が歌舞伎の舞台に脚色されて演じられると、松羽目のバックながら、長唄囃子連中などが登場して、踊りが加わったり舞踊劇に変ったりして、華やかな豪華な演出となって、見せて魅せる陽気な舞台となる。

   この舞台では、太刀の故事来歴などを説明するのに、踊りで表現すると言う粋な趣向を凝らしているので、聞いて鸚鵡返しで応えると言う手法が使えないので、すっぱは、田舎者の仕草を真似ることになり、半テンポずつ遅れて踊るので、そのすっぱの狼狽とちぐはぐぶりが面白い。
   登場人物も、狂言では、すっぱ、遠国の者、目代の3人だが、歌舞伎では、すっぱの九郎兵衛(又五郎)、田舎者万兵衛(錦之助)、目代丁字左衛門(弥十郎)のほかに、従者藤内(種之助)が登場して、面白い味を出している。

   さて、ラストシーンだが、この歌舞伎では、上着を剥がれて悪事露見までは同じだが、目代が田舎者に返した太刀を、すっぱが奪い取って、目代たちを蹴飛ばして、逃げて行く。と言うことになっている。
   記憶違いか、他の狂言か、記憶は定かではないのだが、二人の争いの埒があヵないので、目代が太刀を持って退場すると言うバージョンもあったように思う。
   噺家によって違う落語のオチと同じで、ラストのサゲは、時代や流派によっても違うようで、非常に興味深い。

   上質なコミカル・タッチの歌舞伎では、又五郎の右に出る役者は恐らくいないであろう、亡くなった三津五郎との舞台を見て、非常に面白いと思った。
   今回も、顔を田吾作風に描いて、如何にもすっぱそのものの出で立ちで、とぼけた調子で登場しただけで、笑わせる。
   
   又五郎の「籠釣瓶」の治六などは、正に絶品だと思うのだが、狂言から歌舞伎の舞台になっている「釣女」の太郎冠者、「靭猿」の女大名三芳野、「身替り座禅」の太郎冠者、連獅子の「宗論」の僧侶などでも、器用に演じていて面白かった。
   「宗論」では、浄土僧専念を錦之助が、法華僧日門を又五郎が、コミカルに演じて、今回の様な二人の掛け合いが、実現していたのだが、二人とも、凛々しい武士を演じさせれば、実に格調の高いほれぼれするような素晴らしい芝居をするので、舞台毎に器用に演じ分けるその芸の冴えを、何時も注目して観ている。

   目代の彌十郎も、「棒縛り」など面白い芸を見せてくれているのだが、最近では、更に風格と貫禄が出て来て、この目代など適役である。
   それに、又五郎の次男種之助が、親譲りの達者な芸を披露して、中々面白く、舞台に厚みを加えており、チョイ役の筈の追加登場人物以上の貢献をしており素晴らしい。

   能楽堂の、三方吹き抜けの一辺約5.5メートル四方の「本舞台」で演じられる狂言の「長光」は、あるのは小道具の太刀だけと言う、非常にシンプルでストレートな諧謔とアイロニーに満ちた会話だけの研ぎ澄まされた舞台。
   それに比べれば、歌舞伎は、大舞台で演じられるうえに、豪華でカラフルな長唄と三味線がリードする囃子に乗った 華やかな舞踊劇。
   歌舞伎の方が、大掛かりになっているので、上演時間も少し長くなっているのだが、同じ笑いでも、舞台が変れば、味わいも違ってくる。
   
   
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八月納涼歌舞伎・・・「権三と助十」

2016年08月26日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   冒頭、江戸の夏の風物詩とも言うべき長屋の連中総出の井戸替えの賑やかな風景から、幕が開く。
   江戸の市井の人々の体臭がむんむんとした長屋を舞台にして、主人公の二人の駕籠舁『権三と助十』(権三を獅童、助十を染五郎)が、無実の罪で裁かれた元長屋の住人小間物屋彦兵衛を、大岡越前守の名裁きで解決して救い出すと言う話。
   大岡政談の「小間物屋彦兵衛」の話が元になった岡本綺堂の戯曲、新歌舞伎の演目だと言うから興味深い。

   二人の住む長屋の大家・六郎兵衛の彌十郎が名案を出し、権三女房おかんの七之助や助十の弟助八の巳之助や猿回しの宗之助が、コミカルタッチで掻きまわす、とにかく、長屋の住人を巻き込んで、江戸っ子気質を存分に見せる愉快な舞台である。

   小間物屋彦兵衛のせがれの彦三郎(壱太郎)が、どうしても実直一途の父彦兵衛が強盗殺人の罪を犯したとは信じられず、大坂から家主の六郎兵衛を訪ねてやってくる。
   その会話を立ち聞きしていた権三と助十が、事件の夜に真犯人とおぼしき人物、左官屋の勘太郎を目撃していたにも拘わらず、かわり合いになるのを恐れて黙っていたのだが、切羽詰まって真相を告白する。
   面白いのは、六郎兵衛が知恵を絞って、「彦兵衛は無実なのに、権三と助十が力を貸したのに良く調べなかったと家主のところへ殴りこんできたので引き立ててきた」と訴え出れば、再審議になると考えて、権三と助十と彦三郎の三人に縄をかけて、長屋連中の声援を受けて、奉行所へ出立する。
   再審議となったが、勘太郎は証拠不十分で釈放され、「無事に帰れた」と角樽を持って、お礼参りに権三と助十を訪ねて来たのだが、実は奉行が、証拠がないので勘太郎を釈放して泳がせたら、勘太郎が天井裏に隠してあった血のついた財布を燃やすところを隠し目付けに目撃され、奉行所の役人が来て、真犯人として引き立てて行く。
   牢内で病死したと思われていた彦兵衛も、大岡越前の配慮で無事に匿われていて姿を現し、万々歳で幕。

   岡本綺堂は、「半七捕物帳」「番町皿屋敷」「修禅寺物語」の作者としての印象が強いので、この「権三と助十」は、全く、意外な感じで見ていたが、やはり、演じている役者たちが上手いのであろう。
   この歌舞伎は、大岡裁きの妙を楽しむと言うよりは、1時間10分ほどの江戸庶民の生きざまを器用に演じ続けた歌舞伎役者たちの見せて魅せる芝居の面白さ、醍醐味を楽しむべき舞台であろうと思う。
   ほのぼのとした、しみじみとした、温かさ、優しさが滲み出ていて、ほっとさせてくれるところが非常に良い。

   私の様な元関西人には、良く分からないが、ウィキペディアによると、
   多くの研究者は江戸っ子の性格として「見栄坊」「向こう見ずの強がり」「喧嘩っ早い」「生き方が浅薄で軽々しい」「独りよがり」などの点をあげている。と言う。
  「さっぱりとした気風」や「いなせ」や「威勢が良い」と言う特質も持ち味なのであろうが、とにかく、東男と京女と言うから、日本男児の代表なのであろう。
   
   今回の役者で、これにかなり近い江戸っ子を演じているのは、権三の獅童で、パンチが利いていながらひょろりと腰の定まらないところが面白く、助十の染五郎は、「百年前から自分もそう思っていた」と言ったような非常に調子のよい江戸男を上手く演じていて面白い。
   二人とも、颯爽とした素晴らしい芝居を見せる役者でありながら、この舞台では、その他大勢と変わらない雰囲気で、軽妙なタッチで、自由自在に泳ぎながら芝居を楽しんでいる風情が良い。
   10年ほど前に、面白い舞台を見たと思ったのだが、権三は菊五郎、助十は三津五郎であったようである。

   しかし、江戸っ子丸出しの威勢が良くて一本気の男を演じて爽快だったのは、助八の巳之助であろう。
   悪役の左官屋の勘太郎を演じた亀蔵は、ドスの利いた性格俳優ぶりを見せて好演していた。

   やはり、面白いのは、家主六郎兵衛の彌十郎で、この芝居ではベテランの芸が光っていて、この舞台の要。
   老獪な「髪結新三」の家主の長兵衛に似た芸の冴えに加えて、この舞台では、善人の好々爺ぶりの雰囲気を醸し出していて、面白い。
   七之助は、獅童の権三と息の合った「おかん」、長屋のミーハー的なおかみを、軽妙な雰囲気で歯切れよく流すところなど、上手い。
   一寸、場違いな雰囲気で登場する大坂人の彦三郎を、女形で見ることの多い壱太郎が、初々しく演じていて面白い。

   この「権三と助十」、名作なのかも知れないが、毒にも薬にもならないと言うと語弊があるが、暑気払いに楽しむためには格好の舞台かも知れない。

   同時上演されたのは、「嫗山姥」。
   荻野屋八重桐の扇雀の義太夫に乗った踊りを楽しむ舞台であろうか。
   
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七月大歌舞伎・・・「柳影澤蛍火」

2016年07月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   昼の部は、やはり、通し狂言「柳影澤蛍火 柳澤騒動」。

   史実とは違う宇野信夫作の創作だが、真山青果などの新歌舞伎と同様で、古典歌舞伎のようにそれなりの知識と鑑賞歴がないと分かり辛いのではなく、新劇を楽しむような雰囲気で観られるので面白い。
   柳沢吉保が、出世出世と人生を突っ走りながら、頂点を極めて栄誉栄華を欲しいままにしながらも、結局得たのは、学問に勤しみ貧しいながらも平穏に暮らしていた浪人時代の平安と一途に愛てしくれていた許嫁のおさめの愛の大切さ。
   序幕の「本所菊川町浪宅」の吉保とおさめの貧しいながらも穏やかな生活シーンがまぶしい。

   五代将軍徳川綱吉の時代、将軍の生母である桂昌院の寵愛を得て、浪々の身から老中まで上り詰める主人公柳澤吉保を海老蔵が演じ、互いに出世を競い合う護持院隆光を猿之助演じると言う、丁々発止の野望と陰謀が渦巻くドラマチックな芝居で、宇野信夫作・演出で、昭和45年の初演以来、2年前に大阪松竹座で、橋之助主演で上演されたが、東京では実に46年ぶり、歌舞伎座では初の上演だと言う。
   

   この歌舞伎は、やはり、現代作者の作品であるから、結構、物語にどんでん返しや外連味があって面白いのだが、その意味では、作品としてのストレートな味がぼやけてしまう。
   吉保が、仕官適うのは、桂昌院(藤蔵)の町娘の頃の幼馴染の曾根権太夫(猿弥)のとりなしだが、綱吉に認められて加増されるのは、両雄仲たがいしているとする龍光の打った芝居のお陰なのだが、二人が結託して、犬猿の仲を装って、陰謀を企てた仲間であったことが、最後に明かされる。

   桂昌院は、イケメン好みの色好みで、老醜憚ることなく、吉保に迫って閨に引き込み、吉保もこれを利用して上り詰めて行くのだが、最後の死期迫る病床で、将軍の愛妾であるおさめの方(尾上右近・実は、吉保の元の許嫁)の前で、抱けと命じて帯を解かれると恍惚状態となり、堪られなくなって逃げ去るおさめの姿を見てほくそえむ桁外れの淫乱老嬢の凄さ痛ましさ。この鬼気迫る桂昌院を、かなりの品格と威厳を示しながら、ベテランの東蔵が、女の悲しいサガを実に上手く演じていて、流石に大役者の貫禄である。
   これを受けて立つ海老蔵は、宙を仰いで苦笑しながら、仕方なく桂昌院を慰めて行くのだが、流石に耐えられなくなって、解いた帯で絞め殺してしまう。
   吉保は、更に、最後には、この殺害現場を見られた權大夫を殺して井戸に沈め、怖気づいて仲間を抜けたいと言う龍光も殺してしまうのだが、もっと面白いのは、おさめからの愛と復讐劇。
   
   幼い頃に許嫁となった弥太郎(吉保の前名)とおさめは兄妹のように仲睦まじく暮らしているが、浪々の身では所帯を持てないのだが、おさめは一緒にいるだけで幸せ一杯。
   ところが、女に興味のない綱吉の跡継ぎを心配して、桂昌院に色仕掛けでその手立てを頼まれた吉保が、こともあろうに、おさめを小姓として綱吉に差し出す。
   綱吉の手がついて懐妊したおさめは、吉保の胤と知りながら、吉松を生み、後ろ盾として吉保が権勢を強めて行く。
   心の病に悩んだ吉保は、駒込の邸宅六義園に移って狂気交じりの生活を送っており、そこへ、おさめの方が忍んでやってきて、吉保を慰めようと茶を点てて供し、吉保が半分飲みかけたところ肩に手をかけたので、吉保が、優しく茶碗をおさめに渡し、おさめも喜んで残りを飲み干す。
   そこへ、龍光が現れて別れ話を告げたので、裏切りと怒って六義園内を追い回して殺害するのだが、吉保は、口から血を吐く。
   おさめが点てたお茶には毒が入っていて、おさめは「さめと一緒に死んで下さいませ」と言ってこと切れる。
   綱吉の逝去と甲府徳川の豊綱を時期将軍への画策が進んでいることを知って、毒のまわってきた吉保は、「真実得たのはただ一つ、女の心、女の情け」と言って、切腹して果てる。
   「出世」「出世」、ただ、この一事のために人生を突っ走ってきた吉保の悲しくも切ない末路である。

   海老蔵と猿之助が、素晴らしい舞台を演じたのは、当然として、尾上右近のおさめの素晴らしさ、その芸の進境著しいのには舌を巻く。
   初々しい痩せ浪人の許嫁から、小姓の凛々しさ、そして、将軍の奥方へと蝶のように脱皮して行く。
   右近を最初に注目したのは、8年前の玉三郎と海老蔵の「高野聖」の舞台で、
   右近が演じた次郎だが、木曽節は秀逸で、それに、動けない身体ながら、実は、女の夫であることを匂わせているあたりの上手さと言い、歌六の親仁の素晴らしさとともに、強烈な印象が残っている。
   その後は、綺麗な乙女や若い女として登場する女形の舞台に注目していたが、今回は、おさめの方として、押しも押されもしない将軍の奥方そして世継ぎの母として、貫禄と気品を備えたベテラン役者の風格十分で、やや、トーンを落として威厳と雅さえ感じさせる声音の豊かさなど、立ち居振る舞いの上手さに止まっていない。
   どんどん出世街道を上り詰めて行く海老蔵の吉保と互角に渡り合って遜色ない出来である。

   この舞台では、猿之助は勿論のこと、猿翁が育てた澤瀉屋一家の役者たちの活躍が著しく、中車は、お犬様の殿ゆえに、縫い包みのチンを抱いて登場する将軍綱吉を、器用に演じていて面白かった。

   7年前に、この舞台の六義園を訪れて、桜を楽しんだのだが、粗削りながら、かなり、広大な素晴らしい回遊式築山泉水庭園の大名庭園であったのを覚えている。
   この歌舞伎の舞台では、タイトルの蛍火を暗示してであろう、舞台の草叢にグリーンの光が微かに点滅して、雰囲気を醸し出していて面白かった。
   
   
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国立劇場八月歌舞伎・・・卅三間堂棟由来

2016年07月17日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立劇場の8月の歌舞伎鑑賞教室は、『卅三間堂棟由来』。
   この演目は、2003年に、歌舞伎鑑賞教室で、同じく、魁春のお柳で上演されて好評を得たようだが、上演回数は、文楽の方が圧倒的に多くて、私など、簑助の素晴らしいお柳の姿が、脳裏に焼き付いている程である。
   蘆屋道満大内鑑の「葛の葉狐」などもそうだが、異類婚姻譚の物語の両生を生身の役者が、リアルと言うか、息を吹き込んだ芸を演じることの難しさであろうか。

   今回の魁春のお柳は、流石の熱演で、初々しさの残る嬉しそうな恋の時めきの表情を表現しながら、一転して、切り倒されて命がなくなり、愛する夫と愛しい緑丸との別れに胸を潰して慟哭の涙にくれるクドキ、そして、あの悲しくも切ない肺腑を抉るような表情は、どんな台詞よりも、断末魔の苦痛を訴えていて胸を打つ。
   黒御簾から響く槌の音に、全身を地面にぶっつけてのたうつ姿の激しさ優しさ、そして、義母や夫や緑丸の嘆き悲しみに応えて、亡霊のように現れて愛を確認して髑髏を置いて消えて行く絵の様なシーンも印象的である。
   ラストは、緑丸の引く柳の大木の後方に、お柳が宙吊りで浮かび上がる。
   
   この1時間半ほどの舞台は、紀州熊野の鷹狩、横曽平太郎住家、木遣音頭の三段で構成されている次のようなストーリーである。
   鷹狩の鷹が柳の木に絡んだために、切り倒されようとしたが、横曽根平太郎(彌十郎)の弓に助けられたので、柳の精のお柳(魁春)が平太郎に恋をして契り、一子緑丸をもうけ幸せに暮らしす。ところが、白河法皇の頭痛の病気の原因が、前世の髑髏が、その柳の梢に残っているので、その柳を切って三十三間堂の棟木にすれば良いと言うお告げが出て、切り倒されることとなる。お柳は、柳を切る斧の音とともに苦しみだし、柳の精であったことを明かして夫と子に別れを告げて去る。切り倒された柳の大木は運ばれる途中、お柳の思いが残って動かなくなるが、平太郎の木遣音頭とともに、緑丸の引く綱に引かれてゆく。

   この話は、白河法王となっているが、清盛との関係で変えられたのであろうが、三十三間堂は、後白河法皇の御所に造営されたのが始まりだと言うから史実とは違う。
   柳は、雌雄異体なのだが、お柳が、夫平太郎を椥の木として、連理を語っているのが興味深いと思った。

   さて、今回、魁春のお柳の相手役平太郎を演じたのは、彌十郎。
   左團次のような重厚でどこか厳つい性格俳優とも言うべき重鎮が、どちらかと言うと若手の二枚目役者が演じそうな役を演じていて、一寸、驚いたのだが、それなりに面白いキャスティングで、楽しませてもらった。
   松江の一寸悪役面の太宰師季仲も、逆な面白さが出ていた。
   進ノ蔵人の颯爽とした侍姿の秀調、平太郎母滝乃の歌女之丞は、はまり役。
   伊佐坂運内の道化仕立ての橘太郎は、鳥つくしの面白いせりふ回しで観客を喜ばせていた。
   
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七月大歌舞伎・・・夜の部『荒川の佐吉』『鎌髭』『景清』

2016年07月09日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎座の舞台は、猿之助と海老蔵、市川家の舞台である。
   既に代替わりして大分経つこともあって、堂々たる舞台を見せて観客を楽しませている。

   まず、今回観たのは、夜の部で、『荒川の佐吉』、それに、壽三升景清の歌舞伎十八番の内『鎌髭』と『景清』。
   しみじみと感動させてくれる真山青果の新歌舞伎「荒川の佐吉」は、猿之助の佐吉の絶品の舞台で、二年前に新橋演舞場で通しで演じられた壽三升景清の二つの演目は、正に、成田屋の一八番で、海老蔵が團十郎ゆかりの素晴らしい舞台を見せてくれた。

   「荒川の佐吉」は、正真正銘の芝居そのもので、蜷川シェイクスピア戯曲でも素晴らしいキャラクターを演じてきた猿之助の新境地を見たような思いの、感動的な舞台であった。

   「江戸絵両国八景」と言うタイトルがついている 真山青果の「荒川の佐吉」だが、その美しい詩情豊かなイメージを感じさせてくれるのは、幕切れの夜明け前の桜が満開の薄暗い向島の土堤の茶屋のある風景で、目が見えない姉の乳飲み子を見捨てて出奔してしまったお八重(米吉)との、しみじみとした再会シーンである。
   今回は、猿之助と米吉だったが、その前は、染五郎と梅枝、そして、仁左衛門と孝太郎の万感胸に迫る美しいシーンであった。
  「侠客の世界をのし上がった男の潔い生き様を描いた真山青果の名作」と言うことで、この後、佐吉は、自分を認めて後見役を務めようとした相模屋政五郎(中車)が、惜しいなあと言って止めるのを振り切って、鍾馗(猿弥)の二代目継承を棒に振って旅立って行く。
   いくら苦労して、泣きの涙で手塩にかけて育てたにしても、大店の跡取りとなった盲目の卯之吉にとって、育ての親が万年三下奴の自分であることが邪魔になると慙愧の思いで去って行く佐吉の姿は、あの第三の男やペペルモコのような名画のラストシーンのような懐かしさと愛しさが滲み出ていて感動的である。

   真山青果は、この「荒川の佐吉」を、十五代目羽左衛門に「最初はみすぼらしくて哀れで、最後に桜の花の咲くような男の芝居がしたい」言われて書いたと言う。
   十五代目羽左衛門は、当時最高の美男子役者として有名だっと言うから、私は、二度、素晴らしい仁左衛門の佐吉を観ているのだが、これが、現在の決定版なのであろう。
   Youtubeで、”片岡仁左衛門・千之助 「荒川の佐吉」ダイジェスト”と言う感動的な映像が見られるが、 8分一寸のトップシーンの寄せ集めだが、雰囲気は痛いほど分かる。

   さて、今回の猿之助の佐吉だが、頼りなくてだらしのない、しかし、どこか男気のあるチンピラ三下奴が、連れ去られようとして必死にしがみ付く盲目の卯之吉を守ろうと、切羽詰まって相手の一人を手斧で切り倒して、「人間、捨て身になれば恐いものなんかない」と開眼する佐吉の男の軌跡を、青虫が華麗なアゲハチョウに脱皮するように、実に丹念に丁寧に演じ切っていて爽快である。
   大詰めの「両国橋付近、佐吉の家」での、政五郎が丸惣の女将となったお新(笑也)をともなってやってきて、卯之助をお新に返してやってくれと佐吉を説得シーンは、この歌舞伎の最大の山場であろう。腹を空かせて泣く赤子を貰い乳に夜道を彷徨う虚しさ悲しさ、破れた着物を縫えずに紙縒りで結ぶ辛さ、主を失ったしがない三下奴の盲目の子育ての血の滲むような苦しさを断腸の悲痛で語るも、卯之吉の安泰な将来を説得されて、手放す決心をする。
   恐らく等身大の演技で、誠心誠意努めたのであろうが、これが実に素晴らしくて、本来の天性の素質もあろうが、抜群の発声術を駆使した語り口で、芝居に引きずり込み、本心の吐露であるから、私など比較的鈍感な聴衆でも、感動感動であった。
   実に、上手い。
   この舞台では、中車、猿弥、笑也、門之助と言った劇団ゆかりの役者が重要な脇役を占めていたが、座頭役者の貫禄十二分である。

   海老蔵は、佐吉の親分仁兵衛を切って縄張りを奪って佐吉に殺される成川郷右衛門を演じており、颯爽とした格好の良い侍ぶりで絵になっていて、華を添えている。
   中車の親分ぶりも、中々堂に入っていて良く、観客の拍手から言っても、今や、大歌舞伎俳優の貫禄である。
   笑也は、この舞台では、謝って泣いてばかりいる役だが、華があり、また、猿弥の貫禄と凄みは抜群。
   米吉の女形は、一番可愛くて綺麗だと思っているのだが、ここ数年大変な進境で、今回は、かなり重要なお八重を演じており、情緒も豊かになった。
   上手いと思ったのは、佐吉の唯一の友・相棒とも言うべき大工辰五郎の巳之助で、三津五郎の雰囲気が出てきた感じで、末が楽しみである。

   海老蔵が紡ぎ出した壽三升景清の通し狂言は、2年前の正月、新橋演舞場で見ている。
   最もポピュラーな『景清』のほかに『関羽』『解脱』『鎌髭』を連ねた4部構成で、今回は、その内、『鎌髭』と『景清』が演じられた。
   景清は、「悪七兵衛」と呼ばれた源平合戦で勇名を馳せた平家側の勇猛果敢な武士なのだが、実在したものの生涯に謎の多い人物で、平家物語に出て来る、合戦で、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ 兜の頭巾の左右・後方に下げて首筋を覆う部分)を素手で引きちぎったという「錣引き」が有名で、古典芸能の格好のキャラクターとして、近松門左衛門が、「出世景清」を書くなど、色々な世界に登場している。
   能の「景清」は勿論、文楽や落語などでも「景清」は演じ語られているのだが、描く主題やストーリーが、まちまちなのが面白い。
   能の「景清」は、盲目となり、日向国へ流されていた景清を、尾張国熱田の遊女との間に生まれた一人娘人丸が鎌倉から日向国宮崎へ訪ねて来る話。
   歌舞伎の「日向嶋景清」は、このストーリーを展開しており、しっとりした人間模様が描かれていて、この方が芝居になっている。

   「鎌鬚」は、景清(海老蔵)が、源氏の武将三保谷四朗(左團次)のところへ乗り込んで行き、鬚を剃って貰うべく頼むので、首を掻く絶好の機会だと、大鎌で掻こうとするも不死身の景清には通用せず、縄にかかるべく来た景清は、自ら身を差し出して、猪熊入道(市川右近)に縄にかかって都へ引かれて行く。
    「景清」は、六波羅の牢に入れられ尋問するも口を開かないので、岩永左衛門(猿弥)が、妻阿古屋(笑三郎)と娘を呼び拷問しようとするが通じない。そこへ、秩父庄司重忠(猿之助)が現れて誠意を尽くすと、景清が、源氏の無能さを世に知らしめ天下泰平の世を作るのだと語ったので、重忠は、頼朝も全く同じ考えだと言ったので、景清は復讐の念を捨てる。

   ストーリーがあってない様な、とにかく、荒唐無稽な話(?)をでっちあげて繋ぎ合わせて、華麗で豪快な、スペクタクルシーンを繰り広げて、成田屋が、隈取をして凄い衣装を身につけて登場し、絵になる素晴らしい大見得を切り続けるのであるから、観客は熱狂する。
    この錦絵が、巷の人気を集めて、市井を賑わわせて、その錦絵を持った冨山の薬売りが、全国津々浦々まで流布させて、江戸の文化や流行が広がって行く。
   前の壽三升景清のポスターを見れば分かろうと言うもの。
   今回のエビをバックにしたラストシーンは、歌舞伎美人の写真を借用する。
   
   

   とにかく、荒事の典型とも言うべき、海老蔵の展開する勇壮華麗なスペクタクルシーンと錦絵を彷彿とさせる大見得の数々を楽しむ絶好の舞台である。
   ただ、今回の舞台と関係があるのかないのか知らないが、鎌倉山から険しい化粧坂を下る途中に景清の土牢が残っているが、豪快な舞台の雰囲気とは全く違うのが興味深い。
   
   
   しっとりとして泣かせる2時間以上の「荒川の佐吉」の後に見る成田屋の荒事の世界も、非常に面白い趣向である。
   
   
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六月大歌舞伎・・・渡海屋・大物浦

2016年06月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎座は、義経千本桜。
  「碇知盛」「いがみの権太」「狐忠信」の3部構成で、名場面をまとめた半通し狂言と言うべき公演である。
   いわば、何度も見ている舞台なので、今回は、第1部の「碇知盛」だけを観に行った。
   「いがみの権太」は幸四郎の素晴らしい舞台は既に見ており、仁左衛門の権太が決定版だと思っているし、狐忠信も、菊五郎や先代の猿之助の凄い舞台を観ており、それ以上はなかろうと、特に、食指が動かなかったのである。

   20年以上も毎月歌舞伎座に通い続けている所為もあろうが、最近、歌舞伎に対するマンネリ意識が強くなってきたのか、一寸、抵抗を感じ初めてもいる。
   伝統を重んじる歌舞伎の世界でも、特に古典歌舞伎に関しては、余程の舞台でない限り、役者の演技の差以外には、殆ど新鮮味を感じなくて、飽きてきているのは、私自身が、歌舞伎鑑賞そのものを、本当は好きではないのではないかと思ったりしている。

   同じパーフォーマンス・アーツにしても、ワーグナーやヴェルディなどのオペラや、ベートーヴェンやモーツアルトの交響曲や協奏曲、シェイクスピアの戯曲など、好きな演目については、何度同じものを観に行き聴きに行っても、ワクワクして楽しめるのは、演出や演奏、舞台展開などが、そのパーフォーマンス毎に変化があり、それに、かなりのインターバルを置いて観聴きするので、新鮮さなり感動が、全く、違ってくるからであろう。
   尤も、歌舞伎と違って、鑑賞歴5年の能や狂言については、まだ、勉強中なので、新鮮さが残っており、文楽の方は、同じ20年以上でも、年に7~8公演くらいなので、この程度なら、リピートしても、それ程、同じ演目を頻繁に観聴きしている感じはしていない。

   さて、義経千本桜は、平家物語を題材に取りながら、平家が壇ノ浦で滅んだ後日譚で、義経は、頼朝に面会すべく鎌倉に向かうのだが、対面を拒まれて、腰越で弁明の手紙を認めて頼朝に送り京都へ戻る。その後から、義経が吉野から奥州へ向かう前までのストーリーを展開している。
   しかし、平家物語の「判官都落」には、
   ”大物の浦より舟に乗って下られけるが、折節西の風はげしくふき、住吉の裏にうちあげられて、吉野の奥にぞこもりける。吉野法師にせめられて、奈良へ落つ。奈良法師にせめられて、また、都へ帰り、北国にかかって、終に奥(州)へと下られける。”と言う、これだけである。
   これに、能の「船弁慶」に想を得て、渡海屋・大物浦の舞台が形作られたと思うのだが、
   この義経千本桜には、壇ノ浦などで亡くなった筈の平家の重要人物3人、壇ノ浦で壮絶な死を遂げた勇将知盛、清盛直系のの嫡孫・重盛の嫡男・維盛、平家きっての猛将で、壇ノ浦で八艘飛びの義経を追い詰めたと言う教経を、生存していたと言う設定で、義経を狂言回しのようにストーリー展開した面白い物語である。
   知盛は「碇知盛」のタイトルロール、維盛は「いがみの権太」の主要登場人物、教経は「狐忠信」で義経と対峙する。
   桜の季節でもなく、吉野の千本桜が登場するのでもないのに、舞台で、豪華絢爛、春爛漫と咲き誇る桜で舞台を荘厳されるのは、何故なのか、それは、スーパースターで美しい義経が「満開の桜」であるからだと、橋本治は「浄瑠璃を読もう」で語っている。
   頼朝に追われて奥州に逃げて死んで行った義経だが、頼朝に追討されたのではなく、自分の意思で生きたのだとする義経の在り方を肯定するために、作者たちが書いた浄瑠璃のためのもう一つの「平家物語」だと言う発想が面白い。

   さて、碇知盛だが、知盛は、壇ノ浦での自害で、死後自分の身を敵に晒さないように、碇を担いで飛び込んだとか、鎧を二枚着てそれを錘にして入水したとか言われていて、壇ノ浦のみもすそ川公園に碇を持ち上げた知盛像が立っていて、凄い迫力である。
   この「碇知盛」は、この逸話を踏襲したのであろう、知盛が岩の頂上に上り詰め、碇綱を体に巻き付けて巨大な碇を海に投げ入れて、碇綱の勢いに引っ張られて仰向けに海中に引き込まれて行く壮絶な最期が、この舞台のクライマックスである。

   碇知盛は良いとしても、私が多少違和感を感じるのは、知盛の描き方で、
   平家の滅亡は、すべて父清盛の悪逆非道の報いであり、特に、安徳帝が姫宮でありながら、それを父平清盛が外戚になりたくて男宮と偽って皇位に就けたので、天照大神の罰があたったのだと知盛に述懐させる安直さ、
   更に、義経から安徳帝を守護するので心配するなと言われて、知盛が莞爾と打ち笑みて、「昨日の仇はけふの味方、アラ心安や嬉しやな」と言う歯の浮いたようなどんでん返し。
   「見るべき程の事は見つ」と言って、碇を抱えてとも、鎧を二領纏ってとも言われて入水して壮絶な死を遂げた知盛が、そんなナンセンスな言葉を吐くわけがない。
   尤も、この歌舞伎は、スーパースター義経を美化した物語であるから、異を唱える方がおかしいのであろうけれど。

   さて、今回の義経の渡海屋・大物浦は、お安&安徳帝で、初お目見得する武田タケル君の初舞台の鑑賞が、第一の目的であった。

   これは、5年前に、このブログで、”市川右近・安寿ミラの「シラノ・ド・ベルジュラック」”を書いた時に記したのだが、このタケル君が、わが親しい友人の孫息子であったことである。
   その時の記事を引用すると。
   ”余談ながら、劇場ロビーで、場違いなところで近所の知人夫妻に会ったと思ったら、お嬢さんが右近丈と結婚しているとかで、終演後に、可愛い10か月の右近二世を乳母車に乗せた明子夫人に会った。元々評判だったが、素晴らしく魅力的で、一寸、エキゾチックな雰囲気のある美人である。
   このあっこちゃんだが、可愛い頃しか会ってなくて、その後、マニッシュでTVを見ただけだが、非常に心の優しい良い子で、迷子になった子猫が可哀そうだと言って近所の家を一軒一軒すべて回って飼い主を捜していたのが印象に残っている。
   右近二世は、非常に目の大きくてしっかりした顔つきの可愛い男の子で、10か月だと言うのに、バイバイと手を振って声を出していたし、非常に表情が豊かなので、素晴らしい歌舞伎役者になるであろうと、勝手ながら、初舞台を楽しみにしている。”

   その初舞台が、猿之助に抱かれて可愛く登場する安徳帝として初舞台を踏むと言うのであるから、当然、家内を連れて歌舞伎座に行ったのである。
   凛とした透明で柔らかな初々しい声が、今でも耳に残っているが、栴檀は双葉より芳し、2時間の大舞台を勤め上げた品のある素晴らしい初舞台であった。
   
   更に、慶事が続くもので、歌舞伎美人によると、
   ”2017年1月、新橋演舞場「寿新春大歌舞伎」で、市川右近が三代目市川右團次を襲名、息子の武田タケルが二代目市川右近を名のって初舞台を踏むことが発表されました。”
   市川右近の舞台は、何度か観ており、その素晴らしいパーフォーマンスについては、このブログでも印象記を書いている。
   ヤマトタケルで凄いタイトルロールを演じれば、シラノ・ド・ベルジュラックのような東西きっての大舞台をも感動的にこなし切り、コミカルタッチのちょい役さえも実に上手い。
   二代に亘っての素晴らしい歌舞伎役者としての未来は約束されたようなもので、楽しみであり、これは、マンネリと言わずに劇場に通おうと思っている。

   銀平&知盛を演じた染五郎は、先に勧進帳の弁慶を演じてから、随分、芸が大きくなった感じで、幸四郎や吉右衛門の芸に近づいてきたように思う。
   スケール、迫力、それに、芸の細かさなど、自然な芝居の流れのなかに、流石と思えるような工夫なり思い入れを感じたのである。
   女房お柳&典侍の局の猿之助は、やはり、座頭役者の風格で、余人をもって代えがたい風格と艶があり控えめながら輝いている。それだけに、タケル君の初お目見得が幸いであった。
   松也の颯爽とした義経も、中々、魅せてくれた。
   右近は、相模五郎を演じて、華を添えた。
   2時間ノンストップの舞台であったが、楽しませて貰った。

(追記)六条亭さんより間違いの指摘あり、一部文章省略。
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国立劇場・・・歌舞伎「新皿屋舗月雨暈―魚屋宗五郎―」

2016年06月04日 | 観劇・文楽・歌舞伎
    世話物の傑作『新皿屋舗月雨暈―魚屋宗五郎―』は、何度も観ている歌舞伎で、このブログでも、結構レビューを書いている。
    屋敷勤めの妹が無実の罪を着せられて殺されたと知った宗五郎は、堪らずに禁酒の誓いを破って、酒乱と化して磯部屋敷に乗り込むと言う話である。
    普段は分別のある宗五郎だが、次第に酔って行き、恨み辛み憤りが朦朧とし始めて、磯部憎しだけが昇華して、われを忘れて酒乱状態になって行く。
    湯呑茶碗に注がれた酒を口をつけて一気に飲み干し、飲むうちに湯呑茶碗では満足できずに片口から直接飲み始め、おはまや三吉の止めるのを振り切って、角樽を鷲掴みにして飲み干して酒乱に変身。目が座って、人が変わったように暴れ出して、おはまや三吉を蹴飛ばし突き飛ばし、壁をぶち破って、角樽を振り回しながら、磯部の屋敷へ突進して行く。

   この時の宗五郎の心境だが、自分への慚愧の思いで増幅されたのだと思う。
   先日ルトワックの「中国4.0」を読んでいて、韓国が日本に対して謝罪問題を執拗に要求し続けるのは、韓国がそもそも恨んでいるのは、日本人にではなく、日本の統治に抵抗せずに従った、自分たちの祖父たちだからだと言っているのに気付いた所為もある。
   赤貧洗うが如き貧しい生活をおくっていた宗五郎一家が、妹お蔦を磯部家へ妾奉公に出したおかげで真っ当に暮らせるようになったのだが、宗五郎の頭の片隅に、いわば、お蔦を売った(?)も同然と言う慚愧の思いがあって、それが、酔いがまわるうちに、頭を出して宗五郎を締め付けたのである。
   芝居の冒頭で、磯部家に抗議に行けと息巻いたおはまや三吉に対して、磯部家の恩義を説いて止めたのは、宗五郎であったのだが、酒の酔いがまわるにつれて、その正気も消えて慚愧の思いと恨み辛みが強くなって酒乱と化し、その落差の激しさが、余計に、庶民の哀れさ悲しさを表出して切ない。

    タイトルロール宗五郎を演じたのは、今秋、八代目中村芝翫襲名を控えた中村橋之助で、ハレの舞台へのオマージュ公演とも言うべき、素晴らしい大舞台であった。
    襲名披露公演の10月は「熊谷陣屋」「幡随長兵衛」、11月には「盛綱陣屋」、親子4人で舞う「連獅子」を上演すると言うのであるから、押しも押されもしない東西きっての大立役への驀進である。
    「熊谷陣屋」では、これまでの團十郎型とは違った、四世芝翫以来、上演が絶えていた芝翫型を見せると言う。

   さて、この「魚屋宗五郎」だが、何回も観ており、一番多いのは、菊五郎の宗五郎で、女房おはまは、最初は玉三郎、それ以降は時蔵であったが、とにかく、菊五郎の、圓朝ものの「文七元結」や「芝浜」と言った江戸庶民を主人公にした世話物の舞台は、絶品で、いつも感動しながら観ている。
   相手役の時蔵のおはまも、この菊五郎の至芸に呼応して素晴らしい舞台を見せていたのだが、今回、長男の梅枝が、おはまを演じるのを見て、父親の薫陶よろしきを得たのであろう、橋之助を相手に、時蔵譲りのメリハリの利いた折り目正しい味のある芸を見せていて進境の著しさを感じさせてくれた。

   もう一つ印象深いのは、幸四郎の宗五郎で、芸域が広くて、由良之助や松王丸や熊谷直実を演じては天下一品、どんな難役でも器用に熟して、世話物のほろりとさせる舞台、例えば、「水天宮利生深川」の筆屋幸兵衛なども感動的に演じているので、実に上手い。
   酒一つにしても、大酒を飲むのか飲まないのか知らないが、弁慶は勿論太郎冠者も、そして、この宗五郎の飲みっぷり酔いっぷりも、実に堂に入っていて素晴らしいのである。
   この時は、福助のおはまを相手に、派手な酒乱を演じていた。

   今回の舞台で、もう一人興味深いのは、時蔵の次男の萬太郎が、多少芝居がかってはいたのだが、中々、凛々しい風格のある磯部主計之介を演じていたことで、プログラムの前半で務めた「歌舞伎のみかた」の理路整然とした丁寧な説明役とはうって変わった演技で、これまで見た梅玉や錦之助や染五郎とは違ったフレッシュな磯部像を演出していて興味深かった。

   また、第二世代の登場で同じく面白かったのは、橋之助の次男宗生が、小奴三吉で登場しており、芸にはまだ初々しさが残っていて粗削りながら、父親の宗五郎の橋之助と、中々、呼吸のあった達者な演技をしていて楽しませてくれたことである。

   宗五郎父太兵衛の市村橘太郎、浦戸十左衛門の中村松江も、中々、好演していて、磯部召使いおなぎの中村芝のぶの控えめながら懸命な芝居が印象に残っている。
   この「魚屋宗五郎」、橋之助以外は、大役者が登場しない舞台ではあったが、国立劇場の演出であるから、それはそれ、1時間20分のノンストップの上演は、高校生たちの観客を楽しませていた。
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團菊祭五月大歌舞伎・・・「三人吉三」「時今也桔梗旗揚」ほか

2016年05月31日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月も、それなりに劇場に通って、観劇を楽しんできた。
   このブログで、観劇について書いたのは、文楽2回と立川流落語会と能の舞台を一回、ウィーン・フォルクスオーパーの「こうもり」だけで、今日の「能楽祭」を含めて一番多いのは能狂言だが、ほかに、歌舞伎へも行っている。

   歌舞伎は、恒例の團菊祭で、團十郎家と菊五郎家との合同歌舞伎で、今月は、夜の部しか見ていない。
   演目は、見取りで、勢獅子音羽花籠、三人吉三巴白浪、時今也桔梗旗揚、男女道成寺。
   團十郎が亡くなってからは、何となく寂しくなってしまって、今回は、吉右衛門が登場したのだが、菊之助の長男寺嶋和史、すなわち、外孫が初お目見えしたので、菊五郎と、「勢獅子」に、チョコっとご祝儀出演しただけで、世代替わりか、後の舞台は、昔の3助、菊之助、海老蔵、松緑など若手主体の歌舞伎公演であった。

   三人吉三では、当然の配役で、菊之助のお嬢吉三、海老蔵のお坊吉三、松緑の和尚吉三。
   考えられる現在の最高の配役だと思われ、今回は、冒頭の「大川端の場」。
   客が落とした百両を持った夜鷹のおとせ(市川右近)から、盗賊のお嬢吉三が金を奪い、おとせを川に突き落とす。そこへ別の盗賊・お坊吉三が現れて金の奪い合いになるが、盗賊の和尚吉三が仲裁して、三人は義兄弟の契りを交わす。 
   お嬢吉三が、杭に片足を置いて、浪々と流れるように歌う(?)名ぜりふ。
   ”月も朧に白魚の篝も霞む春の空、冷てえ風も微酔に心持よくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽塒へ帰る川端で、・・・”
   ここだけは、御大菊五郎の素晴らしい舞台を鮮明に覚えている。

   正式には、「三人吉三廓初買」
   河竹黙阿弥作の世話物、白浪物、全七幕。3人の盗賊が百両の金と短刀とをめぐる因果応報で刺し違えて死ぬまでを描いた物語だと言うのだが、私など、アウトロー賛美の思いはさらさらないし、盗賊は盗賊であるから、惡の華などと言った意識は全くないので、なかなか、楽しめない演目なのだが、
   最近は、難しいことを考えずに、芝居として舞台を楽しめば良いのだと、仰る方がおられて、自分もそう思い始めており、そのつもりで見ている。

   「時今也桔梗旗揚」は、悲劇の武将明智光秀の物語で、今回は、二幕目の本能寺の場(馬盥の場)と、三幕目の愛宕山連歌の場で、序幕の饗応の場(眉間割)は省略されていたが、光秀が、信長に徹底的に虐められ恥をかかされて、憤懣やるかたなくなって、信長を討つべく本能寺へ向かうまでの物語である。
   史実はともかく、徳川時代の儒教思想による影響か逆賊として扱われていた光秀を、この歌舞伎では、四代目鶴屋南北が、かなり公平に扱って、悲劇の武将としてストーリーを展開しているところが興味深いと思っている。
   歌舞伎では、信長でも秀吉でも、史実とは関係なく、虚構として物語として描かれているので、気にすることはないのであろうが、信長の光秀虐めは、常軌を逸した卑劣極まりないものなので、あの厳しい封建時代の世で、どれだけ光秀が屈辱に耐え得るのか、そのあたりを、ある意味では教養もあり文化人としての誇りも高い光秀の苦衷を、如何に演じ切るのかが、光秀役者の力量なのであろう。

   この「時今也桔梗旗揚」の後編とも言うべき歌舞伎が、「絵本太閤記」と言うことで、正に、歌舞伎は面白いのである。

   小田春永の團蔵は、はまり役だと思うのだが、これまで見ていた悪役専門役者としてのあくどさエゲツナサは、この役に限って、何故か、風格の方が目立って、それ程感じられなくて、むしろ、光秀の松緑の方が、感情移入が激しく、メリハリのはっきりした演技を見せていたように感じた。

   9年と12年の秀山祭で、吉右衛門の光秀を2回観ており、(その時の春永は、富十郎と歌六、)凄い芝居を観たと言う印象が残っているのだが、あの微妙な光秀の心の変化や内に秘めた苦悩と慟哭を垣間見せる国宝級の芝居には、松緑には、まだまだ、道遠しであろうか。
   私は、春永の嫌がらせで、饗応の場の眉間割や馬盥の盃までは許せるが、貧苦のため客のもてなしに光秀の妻皐月(時蔵)が髪を切って売った黒髪を納めた白木の箱を、光秀に渡して苦しかった過去を満座の前で暴露する卑劣さは、物語であっても、許せないと思っている。それだけに、「愛宕山連歌の場」で、傷心して自宅に帰ってきた光秀が、切り髪の入った白木の箱を、妻の皐月に見せて、屈辱を語りながら、二人して苦しかった昔のことを思い出しながら涙にくれる所などは、しみじみとした光秀の温かさを感じて熱くなる。
   暗い芝居で、観ているのが辛いのだが、ラストシーンの小脇に抱えた白木の箱を持ち替えて演じる「箱叩き」から花道の入りになって、私だけであろうが、やっと、ほっとするのである。

   最後の「男女道成寺」は、能の「道成寺」からインスピレーションを得て歌舞伎化された歌舞伎舞踊「道成寺」のバリエーションの一つで、白拍子花子(菊之助)と狂言師左近(海老蔵)の華麗な舞台。
   やはり、歌舞伎舞踊は、このように溌剌としてエネルギッシュで美しくなければならないと言う典型的な舞台であろう。
   美しいバックシーンの前にずらりと勢ぞろいした長唄と常磐津と囃し方の掛け合いの演奏にのって、それこそ、最高に美しい衣装を装った美男美女(?)が華やかに華麗な舞を見せて魅せるのであるから、これは、能にも、文楽にもない、歌舞伎独壇場の「道成寺」であり、菊之助と海老蔵であるから観せてくれる舞台である。
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国立小劇場・・・文楽「曽根崎心中」

2016年05月18日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   文楽でも歌舞伎でも、心中物は嫌いだと言う人が結構多い。
   近松門左衛門の「冥途の飛脚」や「心中天の網島」などもそうだが、おそらく、この「曽根崎心中」は、その典型的な物語であろう。

   初めて、この文楽「曽根崎心中」を鑑賞したのは、もう、25年も前に、ロンドンでのジャパンフェスティバルで、初代玉男の徳兵衛と文雀のお初の舞台であった。
   この時、歌舞伎ハムレットバージョンである「葉武列土倭錦絵」を、染五郎のハムレットとオフェーリアを観て感激したので、日本に帰ったら、文楽と歌舞伎に通えると喜んだのを覚えている。 
   それまで、ロイヤルオペラやクラシック・コンサート、それに、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーなどへ通い詰めていたので、日本へ帰ったら、そのような機会は、少なくなると寂しく思っていたので、嬉しくなったのである。

   これまで、このブログで、文楽や歌舞伎の曽根崎心中や、関係本などについて、何回も、書いて来た。
   そして、年初めに、その舞台となった曽根崎のお初天神や生玉神社の文楽旅についても書いた。
   歌舞伎では、藤十郎のお初が余人を持って代え難き国宝級の舞台だと思うが、文楽では、このロンドンの舞台の国宝コンビと、玉男と簑助の舞台が、忘れられない。
   その後、簑助のお初と勘十郎の徳兵衛の素晴らしい感動的な舞台を何度か鑑賞しており、心中ものと言うよりは、近松門左衛門の浄瑠璃作者、文学者としての素晴らしさに圧倒され続けてきたと言う思いである。

   住大夫は、「字余りやさかい、近松は嫌いでんねん」と言っているが、私など、「曽根崎心中 徳兵衛お初 道行」の冒頭の、
此の世のなごり夜もなごり。   
死にゝゆく身をたとふれば。
あだしが原の道の霜。
一足づゝに消えてゆく。
夢の夢こそあはれなれ。

ふと暁の。
七つの時が六つなりて
残る一つが今生の。
鐘の響のきゝおさめ。
寂滅為楽と響ひゞくなり・・・を聴くだけでも、涙がこぼれるほど感動する。
   心中を描きながら、門左衛門は、生きると言うことは、死ぬと言うことはどう言うことか、男女の愛と言う永遠のテーマを横糸にして、人間の尊厳を、万感の思いを込めて語りかけているのだ思いながら、私は舞台を観ている。

   何回も書いているので、蛇足は避けるが、今回の舞台は、師匠の至高の舞台を観続けていた二代目玉男が、近松をやりたいと言っていた徳兵衛の晴れ舞台であるから、素晴らしくない筈がない。
   それに、女形を遣わせれば最高峰の清十郎のお初を何と言うべきか、健気で崇高でさえあるお初の瑞々しさ。
   父母への思いにくれて悶えていたお初が、意を決して、手を合わせて目を閉じて徳兵衛を見上げて、「早う殺して」と言う覚悟の顔の美しさ・・・二人が向き合い、徳兵衛の刀が光り、お初を刺した後、自分の喉を突いて倒れ込み、二人が抱き合って崩れ折れるラストシーン。
   初代玉男は、好きな女を殺せるか・・・、と言って、お初に止めを刺す時には正視出来なくて顔を背けるのだと言っていたが、
   藤十郎の歌舞伎では、お初が手を合わせて目を閉じて、ラストを暗示したところで幕が下りる。
   
   初めて鑑賞する玉男の徳兵衛と清十郎のお初の舞台であったが、感動の一言である。
   九平治を遣った勘彌の上手さも格別で、三人の人形が躍動し踊っている。
   天満屋の段の、浄瑠璃の千歳大夫と三味線の富助をはじめ、浄瑠璃と三味線の名調子は言うまでもない。
   文楽の魅力を語った希大夫、三味線の龍爾、人形の玉誉の芸達者ぶりもたいしたもので、学生たちが上手く反応して楽しんでいた。

   もう一つの舞台である和生の徳兵衛と勘十郎のお初を観たかったが文楽鑑賞教室なので、チケットがソールドアウトで、ダメであった。
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