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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

世界への旅立ち・・・インカ、そして、インディオ達の文化

2005年09月01日 | 海外生活と旅
   我々モンゴロイドの同胞・インディオは、我々の祖先と別れて、ベーリング海峡を渡って、アラスカからメキシコ、パナマを越えて、アンデスの麓に移り住んだと言う。日本人移民が移住を開始したのは、100年ほど前だが、もっともっと前、気の遠くなりそうな昔のことである。
   私は、純粋なインディオには、ボリビアやペルーで会ったが、心なしか、日本人よりは、確りしたハッキリした顔立ちをしていたように思う。

   ブラジルのインディオは、アマゾン奥地に住んでいるが、ブラジルでは、白人と移住させられた黒人との混血が多い。
しかし、隣のパラグアイ等他のラテン・アメリカでは、インディオとの混血が多かった。
   メキシコでもそうだが、スペインやポルトガルなどラテン系の白人は、原住民との混血を厭わなかったので、殆ど混血していて、新しいヨーロッパ人の移住地以外では、純粋な白人は少ない。
   混血を嫌ったアングロ・サクソン主導のアメリカとは大変な違いである。

   私は、ボリビアやペルーで、インディオの祖先の残した遺跡などを何箇所か訪れた。
   メキシコ等中米のマヤやアズテック文化を実際に訪れて、ピラミッドや神殿遺跡などに立ってみると違いが分かるが、パナマ地峡を隔てているだけで、可なり大きな差がある。
   ラテンアメリカのインカ等の遺跡は、まだ、殆ど初期の発見・発掘段階のようで、次々に新しい出会いが有り楽しみである。

   随分前だが、私は、ペルーの古都クスコに滞在し、汽車でマチュ・ピチュを訪れたことがある。
   高度2,280メートルなので、遥かに高地にあるクスコからは低地に位置し、ジャングルのウルバンバ渓谷を下って麓駅に着くと、そこからバスで、綴れ折の坂道を登る。
   マチュ・ピチュは、1911年に、ハイラム・ビンガム卿によって発見されたので、スペイン人に荒らされていない為に、廃墟になったままで残っている数少ないインカの遺跡である。
   ナショナル・ジオグラフィック等で知っていたので、別峰の丘から、背後に帽子型の山を背負った写真と同じ遺跡を見た時には、感激しきりであった。
   何処からとも無く、哀調を帯びた「エル・コンドル・パッサ」を吹くケーナの音が聞こえてきた。

   私は、スペイン文化は高く評価するが、インカを征服したピサロ等のスペイン征服者達を心情的に好きになれない。時代の流れには同化できなかったが、高度な文化・文明を築いてきたインカ帝国を破壊し尽くしてしまったからである。
   ペルーの天野博物館を訪問すれば良く分かるが、インカの残した織物などの素晴らしさは、ある意味では、中国や日本を凌駕している。
   メスなど高度な医療機器がないのに、脳外科手術を行った。ミステリーにしておきたいので知りたくないが、何故、大人の髑髏をあんなに小さく出来るのか。
   クスコ等にあるインカの石垣は、カミソリも入らないほど、整然とビッシリ積まれている。特別な秘密があるのではなく、インカの人々が、ピッタリ合うまで根気良く磨きぬいたと言うのである。

   アンデスの山の中の国・ボリビアには、何度か出かけた。4,000メートルの高地の空港に降り立ち、少し下ってすり鉢のそこにあるような富士山の頂上に近い高地のラパスで仕事をしたのであるが、とにかく、空気が希薄な為に夜中に何度も深呼吸をしなければ眠れない。駆け足で階段を上るなど以ての外である。
   ここには、沢山のインディオが住んでいて、私の行った頃、もう、30年近く前になるが、ハカマのような衣服を着て独特のフェルト帽を被り風呂敷包みを襷掛けにした人々が街を歩いていた。清浄な空気で日差しが強いために、皆真っ黒な顔をしていた。
   ホームレスのインディオ達が、厳寒の中、スペイン人達が建設した壮大な教会の玄関口の石畳の上に寝て夜を過ごしていた。
   華麗な豪邸に住む一部の特権階級と貧しい多くの庶民が同居する二重国家を、このラテンアメリカで嫌と言うほど見て、文明史観が変わってしまった。

   チチカカ湖で、芦舟に乗る人々、田舎町の小さな祭りで笛を吹き踊る人々、まだ、懐かしい牧歌的な生活が残っていた。
   空気が澄んでいて、深いブルーの吸い込まれるような真っ青な空が全天を覆い、そよ風の音しかない全く異次元の世界で、夜など漆黒の中に星が降る。
   夜、ナイトクラブで、米搗きバッタの様に頭を前後に振り激しくケーナを吹きながら舞台を踊るインディオ楽師の演奏に、そして、ウイーン・フィルやベルリン・フィルにも決してひけを取らないような天国からの音のように華麗にフルートを吹くインディオ奏者の演奏を涙しながら聴いたのを、昨日のことのように思い出す。

   隣のエクアドルには、赤道直下であることを示す記念碑がある。
   私は、民族移動と一口に言うが、よくもここまで、インディオ達は新天地を求めて移住してきたものだと思うと、何時も感に耐えなかった。
   アンデスの山の中で、祖先が見たことも無いような、アルパカやビクーニアを追っているのである。
   
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世界への旅立ち・・・ブラジル、ラテンの世界

2005年08月31日 | 海外生活と旅
   アメリカの留学の帰りには、ロスとシスコ、ホノルルの事務所に立ち寄って海外事業の教示を受けた。
   船便が着いたと思ったら、サンパウロに事務所を開設するので赴任せよとの命令を受けた。日本に居たのは、たった、3ヶ月で、ポルトガル語も分からないのに、新天地に向かった。
   ブラジル・ブームの頃で、日本企業は、大挙して太平洋を渡って行った。

   アメリカやヨーロッパの先進国を経験した日本人は、何故かあまり良い印象を持っていなかったが、初めてブラジルに赴任した人々には、別天地の様に生活をエンジョイしていた。
   物価は安いし、豊かな生活が出来るし、日本の移民の人々が沢山居て不便は無かったので、仕事の苦労以外は、生活は楽しかったのかも知れない。
   私は、ラテン的なアミーゴ社会に多少違和感があったが、少しづつ慣れていった。ビジネス・スクールで、異文化の中での事業活動が如何に難しいかを教えられていたので、全く頭を切り替えて仕事にあたった。

   アミーゴ社会のラテン気質は、華僑やユダヤの様な閉鎖された社会に近く、極端に言えば、法律や契約は朝令暮改、一切気にしない社会で、アミーゴ、即ち、自分達の仲間だけにしか信義則は通用しないのである。
   実際、法律はしょっちゅう変えられるし、大型機械や設備の契約書の納期を守られた事などなかった。政府の規則が変わったとか、鉄が納入されなかったとか、とにかく、すった転んだと言われて門外漢は相手にされないのである。

   驚異的なのは、インフレ。
   ブラジルでも、インフレが激しいときには、スーパーの値札が何度も上に貼られて厚くなっていたことがあるし、1万クルゼイロ札に新10クルゼイロのハンコを押したデノミ札が流通していた。
   アルゼンチンでは、100万ペソ札が使われていたし、1万や千ペソ札などは、色が完全に付いていない半刷り札が流通していた。
   タクシーに、何万ペソも払い、一寸したバーでも数百万ペソも散財(?)することになる。

   ところで、興味はなかったが、一回だけサッカーを見学に競技場に行った事がある。
   試合に熱中すると、客席で焚き火はするは、コーラのビンは投げるは、危なくて次から行かなくなった。
   一度、万年最下位だったサンパウロのチーム・コリンチャンズが、昔の阪神のように奇跡的に優勝した。サンパウロは、その日は、昼も夜も熱狂した群集で街中は革命騒ぎのように沸きに沸いた。
   
   ワールド・カップがアルゼンチンで行われ、ブエノスアイレスで、ブラジルとアルゼンチンが優勝を争った。
   バス会社の社長が、男気を出して、只だったか極めて安かったのか忘れたが、大散財してバスを仕立ててファンをブエノスアイレスに大挙して送り込んだ。
   試合当日は、官公庁も開店休業、交通機関はストップ、街の商店は殆どシャッターを下ろし事務所は閉鎖、街路には、犬猫しか歩いていない。
   喧騒を極める巨大な大都市サンパウロが、廃墟の様に不気味なほどシーンと静まりかえった。
   1点入った瞬間、何千本もある高層アパートから、大変な紙ふぶきと天を突くような歓声が巻き起こった。
   私は仕方なく家に帰って(尤も、事務所から歩いて5分)テレビを見ていたが、残念ながらブラジルは負けてしまった。
   
   ブラジル人は、良く遊び生活を最大限にエンジョイするが、若者は良く勉強するし、それに良く働く。
   何が悪くて先進国の仲間入りが出来ないのか、やはり、政治に求心力がなく、国民のパワーを国つくりの為に結集できない為かもしれない、と思っている。

   写真は、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの国境にある巨大なイグアスの滝であるが、ナイアガラのように2箇所だけで巨大な滝が落ちているのではなくて、何キロにも亘る壮大な特異な滝である。
   尤も、中心の「悪魔の喉笛」は、大変な水量で凄い迫力があるが、周りのジャングルには、美しい極彩色の蝶や鳥が飛んでいて、高木にはランの花が咲いている。
   私は、隣のパラグアイの首都アスンションには、このイグアス経由で良く出かけたので、この滝を何度も訪れている。
   パイロットは、このイグアスの滝の上空で、サービスの為に、ジエット機を滝に近づいて右左旋回しながら客に見せてくれていた。軽飛行機ではない、巨大なボーイング727を、である。
   一度、この巨大なイグアスの滝が干上がりかけて、悪魔の喉笛にも殆ど水がなくなったことがあった。地獄の喉笛に変わってしまっていたのである。
   このイグアスの近くに、キリスト王国を作ろうとした映画「ミッション」の舞台の教会跡がある。
   そして、ナチスの残党が捕まったドイツ移民の村がある。

   ブラジルは、日本の23倍の大きさ。アマゾンをはじめ、色々な所を見て来たが、結局、4年間、サンパウロで生活した。
   その間、南アメリカ全域担当であったので、ウルグアイを除いて総ての国を回った。出張の旅、個人の私的な旅、色々な事に遭遇した異文化との出会いであったが、懐かしい思い出である。
   書けば切りの無いほど、豊かな、そして、地球の素晴らしさを実感した4年間であった。
   
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世界への旅立ち・・・アメリカでの新天地

2005年08月30日 | 海外生活と旅
   何回か東京と大阪を飛んだくらいで飛行機など殆ど縁のなかった私が、30年ほど前の夏に、フィラデルフィアで学ぶ為に、初めて、JAL便でサンフランシスコに向かった。
   まだ、JAL機の中は日本だったが、先輩のいるシカゴまでは、全く日本人のいないユナイテッド便であった。
   シカゴについて初めて異国での夜を迎えたが、夏時間を採用していて夜の10時になっても明るかったし、周りの雰囲気も全く違っていて、やっと異国に来てしまったんだと言う気になった。
   フィラデルフィア空港では、アメリカ人のホストファミリー夫妻が出迎えてくれた。
   西も東も分からないし、生活感覚の無さは勿論だし、英語も怪しい、私の長い海外生活の始まりである。

   大学に入ったときに、覚えた歌の中に、次のような歌があった。

   「向こう通るは女学生、
   三人揃ったその中で、
   一番ビューティが気に入った。
   マイネフラウにするならば、俺もこれから勉強して、
   ロンドン、パリを股にかけ、
   フィラデルフィアの大学を優等で卒業した時にゃ、
   彼女は他人の妻だった。・・・」

   なんてアホナ歌を歌うのかと思って歌っていたが、後年、優等ではなかったが、実際に、フィラデルフィアの大学院を卒業して、ロンドンとパリを股にかけて仕事をすることになったのである。

   2年弱のアメリカ生活であったが、ワシントンからボストンくらいの間の旅は別として、3回大きな旅をした。
   最初は、大学の同好会が主催したフロリダへのバス旅行で、雪の舞うフィラデルフィアを離れて、南部諸州を通り抜けて、常夏のフロリダのマイアミで新年を迎えたのである。
   途中、ワニの蠢くジャングルの国立公園やオルランドのディズニーワールドで遊んだりしたが、マイアミで、延々と続く映画のセットのような豪華な別荘を船の中から眺めながら、アメリカの途轍もない富に圧倒されてしまった。

   次の旅は、翌年の夏休みに、大学院の友人と二人で、中西部のセントルイスまで飛行機で飛び、そこからロッキーを越えてグランドキャニオン経てラスヴェガスにレンターカーで向かった。
   私は運転が出来なかったのでナビゲーターであった。都会ではホテルに泊まったが、道中の田舎ではモーテルに泊まった。
   この友人・運転手は、今、東京のトップクラスのホテルの社長をしている。
   先住民インディオの居住跡が残っているメサ・ヴェルデ国立公園や西部劇で良く出てくるハット型の岩のあるモニュメント・バレーにも立ちよった。
   アメリカ・インディアンの子孫が、貧しい荒野に裸馬に乗って移動しているのを見て、映画と少しも変わっていないのにショックを受けた。
   アメリカのフロンティア・スピリトに疑問を感じたのはこの時であった。
   壮大なグランドキャニオンの刻々と走馬灯のように色が変わってゆく夕暮れの美しさに感動しながら長い間見入っていた、そして、灼熱地獄に蜃気楼の不夜城のように輝くラスベガスの壮大さに、度肝を抜かれる思いであった。
   友は、友人の待つロスに向かったが、私は1人でイエローストーン国立公園に行って、そこで雄大な自然の中で数日を過ごした。

   最後の旅は、2年目の夏に合流した家族を連れてのヨーロッパ旅であった。
   ヨーロッパからの留学生が多いので、彼らが里帰りの為にパリ往復のパンナム機をチャーターしたので、それに便乗したのである。
   貧しい学生生活であったが、冬のボーナスを叩けば、旅が出来た。
   ヨーロッパ内は、3週間のユーレイルパスを買って列車で移動した。
   パリからアルプスを越えてイタリアに入った。ナポリまで行ってユーターンしてウイーンに入り、スイスのジュネーブを経てパリに帰った長い旅であった。
   フィラデルフィアについて、大学の家族寮に帰った時に、本当に家に帰ってホッとした気持ちになった。フィラデルフィアが故郷になっていたのである。

   その後、何度も仕事でアメリカを訪問することになるが、この学生としての2年間は私にとって極めて重要な経験であった。
   私は、良く批判もするが、正直な所、私を世界に目覚めさせてくれたアメリカには、特別な感慨を持っており、一宿一飯の恩義以上のものを感じている。
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人生そのものが旅・・・寅さんの世界のように

2005年08月29日 | 海外生活と旅
   寅さんは、雲のように自由に空を飛んで行きたいと言った。風の吹くままに旅をする、寒くなって来たので、南の方へ行こうか、と言う。
   
   本土から遠く離れた孤島の神社の小さな境内で、バイをしている。
   白雪を頂いた山々を遠望しながら奥深い田舎道を歩く寅、道祖神の微笑が草の陰から覗く。
   寒風吹きすさむ連絡線の中、襟を立てて人影のない艀を見送る寅。
   
   懐かしい日本の情景が、走馬灯の様に展開される寅さんの舞台は、庶民の世界。全員中流と言われて浮かれていた風潮に棹差して、執拗に柴又の世界を描き続けた。
   豪華なホテルでの会食等の庶民離れした場面も、寅がぶっ壊して笑い飛ばすカリカチュアの世界。

   私は、寅さんを見ると、ムソルグスキーの「展覧会の絵」を思い出す。絵が変わるごとに音楽が変わって行く。
   まさに、旅は新しい別な世界へ連れて行ってくれて、別な世界を見せてくれる。必ずしも見たいものばかりではないが、新しいものに遭遇させてくれる。
   時よ永遠にこのまま止まってくれ、と叫びたくなる幸せな瞬間に巡り合うこともある。
   尤も、動かなくても自分を取り巻く小宇宙は、絶えず変転する。人生そのものが旅である。

   私達が学生の頃は、安く旅が出来た。
   国鉄の周遊券が学割で安く、それに、若者達の為の安宿・ユースホステルが花盛りで、ここでは全国の若者達と会うことが出来て、夜のキャンプファイアやパーティが楽しみであった。
   学生達は、みんな等しく貧しかったが、休みに入るとせっせとアルバイトに励んでお金を貯めて旅に出た。

   私の始めての旅は、友人と二人の北海道旅行。
   大阪駅に長い間並んで、夜行の急行「日本海」に乗って、北陸、奥羽を経て青函連絡船に乗り換えて北海道に渡った。
   あれから、もう何十年、世界のあっちこっちで汽車や電車に乗ったが、あんなに長い間同じ乗り物に乗っていたのは、ブラジル往復の飛行機だけであった。
   旅の素晴らしさに味をしめて、その後、九州周遊を皮切りに少しずつ日本のあっちこっちを歩き始めた。
   私の青春の相当部分は、京都や奈良の歴史散歩の思い出だが、日本を故郷、自分のアイデンティティの元であることを強く意識したのは、この時代であった。
長い海外生活では、この日本への思いが私の心の支えでもあった。
   まだ、あの懐かしい初期の寅さんの世界が日本全国に残っていた頃である。

   大学卒業と同時に会社生活に入った。大阪と東京勤務が続いたので、旅から遠ざかったが、8年してからアメリカへの留学でフィラデルフィアに出てから、今度は世界旅が始まった。

   日本各地への旅は、長い海外生活を終えて日本に帰ってから、幸いなことにまた始まった。
   仕事で、定期的に、全国に散らばっている事務所を回ることになった。
   稚内から樺太を遠望したり、知床でちらりと蝦夷しかを見たり、沖縄の米軍基地の爆撃機を覗き見たり、出張の合間の休日や余り時間の寸暇を惜しんで日本を歩いた。

   私の見たのは、荒廃してゆく地方の現状と、逆に残っている地方の民度と文化の高さと豊かさであった。
   駅前のシャッターどおりの酷さは目を覆うばかりで、人口が毎年一万人単位で減っていく町があると言う。

   私は、意識して古寺や神社、そして歴史遺産を回り、落着いた地方の料理店で地方の料理を頂くことにしていたので、その雰囲気と水準は非常に高くて、東京などから消えているかもしれない文化が色濃く継承されている。
   廊下の片隅に置かれた茶花の風情、豊かな地方の街は、小京都とは言うが小東京とは言わない、地方には寂れた地方銀座が残っているだけである。
   ヨーロッパ生活で覚えたワインと地方料理のマッチングを応用して、地方に行くと、地方料理を地酒で味わうことにしている。
   何百年もその地方で培われた食文化は、その地酒で益々豊かにされていることに気付いたからである。
   400年の幕藩体制のお陰で豊かな地方文化が日本全国に存在している。

   ところで、日本の貴重な地方発の文化遺伝子が消え去ろうとしている。
   地方叩き潰しの政策で、地方が瀕死の状態に直面している。
   無駄な公共投資と言って地方への財政サポートが目の敵にされているが、豊かになってしまった日本では、最早、自由な市場原理では地方の文化と生活は守れなくなっているのである。
   東京集中に回帰しつつある日本の現状が寂しい。

   海外の旅については、項をあらためたい。

   
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ヨーロッパ旅行・・・手作りの旅の企画

2005年06月04日 | 海外生活と旅
   海外生活が長いので、公私ともに旅をする機会が多かった。
   米国留学中に最初に始めてから、殆どその後の旅の企画は自分で作っている。社用の出張などで、切符やホテルの手配などは頼むことがあったが、私的旅行の時は、それらも総て自分自身で行う。
   団体旅行や旅行会社主催のツアーの経験は、視察旅行以外は殆どない。

   旅行会社のツアーでは、殆ど、現地の下請け旅行社に投げる様で、現地の事情を十分に熟知していない添乗員が付くと言う。それなら、自分自身でやった方が気楽だし、実質的な旅行が出来ると思った。それに、最近では、ヨーロッパの場合は、自分の方が良く知っていると自負している。
   団体旅行の場合の最大の難点は、時間のロスと自由行動の制限で、自分の行きたい所で自由な時間を十分過ごせない。

   アムステルダム在住中は、車で、ヨーロッパの中を回り、ロンドン在住中は、大陸に渡らなければならないので飛行機と列車を乗り継いだ旅が多かった。
   帰国してから、一時レンターカーで移動したことがあったが、安全を考えて、今では、飛行機と列車、それに、タクシーに頼っている。
   最近のプラハ、イタリア、イギリス、それに、上海・蘇州・杭州、アメリカ東海岸都市の旅の場合もそうであった。

   私の場合は、私的な旅行の時は、目的と目的地を決めてから準備を始めるが、その後は、まず、優先的に、現地の音楽スケジュールをチェックする。
   若い時は、グルメ志向で、ミッシェランの星付きレストランの予約を優先したが、年とともに重いフランス料理を敬遠する様になった。
   オペラ、クラシック・コンサート、シェイクスピア等の演劇、ミュージカル等の予定を調べて、旅の空白を埋める。
   その場合は、オペラを優先する。ロンドンの場合は、ロイヤル・オペラ、グローブ座や国立劇場やRSCのシェイクスピア劇、ENOのオペラ、クラシック・コンサート、ミュージカルと言った調子でチケットの手配具合によってスケジュールをを埋めていく。
   ロンドンでは、グローブ座は天井がない劇場なので、夏季にしか公演はないし、遅すぎるとロイヤル・オペラのシーズンが終わってしまう。
   その頃、PROMが始まるが、良い公演のチケット手配が難しい。いずれにしても、ロイヤル・オペラを筆頭に、思うようなチケットの手配は、計画から実施まで2ヶ月足らずでは、まず無理なので、次善のプログラムで満足するより仕方がない。
   
これ等のチケットは、総て、ウエブサイトを探して、インターネットで手配をする。開けると、軽やかなイタリア・オペラが流れてくる嬉しいサイトもある。
   チケットの手配は、サイトによって直接であったり、代理店に任せていたりまちまちだが、英語だと難しくはない。英国は勿論、ベローナ野外劇場、スカラ座、プラハのオペラ、メトロポリタン等も同様にインターネットで手配した。オーダーを入れると、座席番号が示され座席表で自分で席を選択・確認できる場合も多くなってきた。

   ホテルは、日本の場合は、旅窓が比較便利だが、私は、欧米のホテル検索サイトを愛用している。アメリカでは多少問題があったが、ヨーロッパでは、これまで、全く問題がなかったし、探せないホテルもサイトによっては、十分検索可能であった。
   観光地図の中での所在地やホテルの情況・条件等克明に説明してあり、至れり尽くせりと言うか、便利になったものである。(もっとも、私の場合、英語資料等の理解に問題なく、旅や土地勘等が多少あるのが幸いしているかもしれない。)
   週末のベローナなど、野外オペラの観客でごった返すが、イタリアのサイトで、野外劇場に
至近距離のホテルを予約できたし、ホテルの殆どないカンタベリーでも、土壇場でホテルを予約できたりと、とにかく、日本の旅行社と比べて情報量が格段に違う。
   
   列車の旅については、例えば、イタリアのTrainitariaのサイトを開けば、時刻表は勿論、ルートから乗り換え時間等も含めスケジュールが克明に表示されており、指定券の予約も可能である。(もっとも、列車が、その通り走るかどうかは別問題。)
   飛行機もそうだが、スケジュール等は、大体、インターネットで十分に資料を集めたり検索可能である。

   手作りの旅が安くつくか高くつくかは、分からないが、自分で総て調査して実施するので、旅への愛着と理解度は格段に高まることは間違いない。
   芭蕉ではないが、少し旅から離れると野山の風物が懐かしくなる。
   ミッシェランの赤本、緑本のガイド・ブックなど旅の楽しみ方は、別の機会に書いて見たい。
   
   
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ヨーロッパ紀行 3   世界最高の植物園・ロイヤル・キュー・ガーデン

2005年05月29日 | 海外生活と旅
   先日、久しぶりに、緑に萌える新宿御苑の散策を楽しんだ。英国庭園のバラ園で沢山の薔薇が、今盛りに咲き乱れていており、華やかであった。

   私は、ロンドン郊外のキュー・ガーデン(正式には、Royal Botanic Gardens, Kew)を思い出した。ほんの歩いて数分の距離の所に3年間住んでいたので、この公園は、私の散策路でもあり、あの頃多忙であった所為もあり、休日が取れると、Canon Eos 10とNikon F801sに、100ミリのマクロや、80-200の望遠レンズを付けて、いそいそと出かけて行った。

   この公園は、現存するオランジェリィ宮の庭園として18世紀に開かれたもので、内部には、キュー・パレス等王宮に縁の建物も残って居るが、世界各地から多くの植物が集められて栽培、研究されるなど学問・芸術面での貢献も高い。
   中には、壮大な南国を思わせる温室や逆にアルプスの植物を栽培しているアルパイン・ハウス等多くの研究用の建物があり、また、庭園内には、山あり谷あり、田園あり、季節の移り変わりによって花々が妍を競う。
   
   新宿御苑の様な広々とした池あり林ありの庭園が展開し、白鳥等の水鳥、雉や山鳥等の野鳥が群れており、また、春には、日本からきた櫻が一面に咲き乱れる。
   公園に接してテームズ河がゆっくりカーブしながら流れていて、実に、爽やかで美しく、日本からの椿や紅葉等に出会うと嬉しくなってしまう。
   季節の薔薇もそうだが、アザレアの咲き乱れる春も美しいし、観光客で賑わう観光スポットは人が多いが、パンダの餌の竹が植えてあるバンブウガーデン等奥に入ると全く人影がなくなり、森の下草の中から高山植物の可憐な花が現れたり、駒鳥がすぐ側までやって来たり、ヤマドリの親子の行進に出くわしてビックリすることがある。
   
   この公園に、ロンドン万博の時に献呈された少し小型の御成門やパゴダなど変わった建物が建っているが、イギリス人好みのギリシャ風の小型のテンプル等もあり、風景主体の本来のイングリッシュ・ガーデンが展開されている。

   この公園には、シーズン・チケットを買って通っていた。一回券の5倍くらいの値段だったが、エコノミーと言うよりは、シーズンには観光客で溢れてごったがえすゲートを、パスを見せてスッと通る快感の方が大きかった。

   素晴らしい田園などイギリス生活の素晴らしさについては、少しづつ書いて見たいと思っている。
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ヨーロッパ紀行 2   ロンドン・タクシー・・・世界一正確な運転手集団

2005年05月27日 | 海外生活と旅
   ロンドンへは、2年ほど行っていないので、最近、ロンドンタクシーに、カーナビが着いているのかどうか知らないが、先日、NHKのポアロとマーブルでタクシー運転手の資格取得試験の模様を放映していた。
   私も運転手に聞いた話では、お客の要求する場所に最も早く最も経済的かつ正確に行かなければならない義務がある、と言うことであった。
   その為に、資格試験が難しく、試験を受ける前には、ロンドン中の道と言う道は総て単車で回って道を覚えたのだとも言っていた。試験官の顔が鬼に見えるとも。
ここで工事をしていて通行止め、ここで何時から何時まで通行禁止、それでは、ここからここへどう行くのか、等と質問されたら、道だけではなく交通標識、交通ルール等など一切を知っていないとダメである。

   実際に、ほんの数百メートルだが間違って行って引き返したことがあったが、運転手は自分が間違ったのだから、料金は要らないと固守されたことがある。
   道が分からないのでタクシーに乗っているのに、「お客さん、昨日、岡山から来たとこなんですけど、どの道行きましょうか?」と言われる日本とえらい違いである。

   過酷な試験だが、一つの救いは、住所表示の簡易さ、即ち、条里制の住居表示の採用である。
   大まかに言うと、欧米の場合は、まず、総ての道路に名前が付いていて、市役所に近いところから、道路沿いに住居番号が付けられ、一方は奇数、反対側は偶数、そして、次の交差点から、10番台乃至100番台の番号が一つずつ大きくなる。
   従って、通りの名前と、住居番号さえ分かっておれば、大体間違いないように行ける勘定である。
   尤も、理屈はそうだが、実際には、入り組んでいたり、大きな門の中にまた通りがあって名前が付いていたりで、集合住宅が密集している場合など中々難しく、ウィーンで、シュタット・オペラの著名指揮者のアパートを探すのに難渋した記憶がある。
   ロンドンの場合も、アッパーかアンダーかの確認をミスして上下を間違って困ったロンドンっ子もいた。
   それにローマ時代の入り組んだ路地がそのまま残っていて、これが道かと思う様な所も多いのがロンドン、兎に角、場所探しは何処も大変である。

   日本は、奈良や平安の時代に、条里制の住居表示方を導入しながら、なぜ、そこから離脱して、面で住所を表示する方法に変わったのか。
   この住所を、欧米のように線で理解するのと、日本の様に面で理解するのとでは、モノの考え方や発想に大きな違いが出てくる。
   日本の場合は、一番最初に家が建った所が一丁目一番地で、次に建った所が二丁目、従って、最近では住所表示の変更で大分ましになったが、未だに、1丁目の隣に13丁目があったりして分かりにくい。
   タクシーの運転手も、郵便配達の人も、クロネコヤマトの人も、今はIT時代なので助かっているかも知れないが、大変だったであろうと思う。
   今では、まことしやかに道路には百年前から当然であるかのように名前が付いているが、これは最近の話であり、今でも、路地に入ると道路名などない。
   従って、一番IT革命の恩恵を受けるのは日本で、一番カーナビが重宝されるのも日本である。

   余談だが、今は知らないが、サウジアラビアも、道路名も住所もなく、昔は、総て郵便は私書箱であった。
   タクシーに乗ったら余程上手く説明しないと目的地に行き着けない。
   出張で何回か行ったが、タクシーには乗らなかった。

   ロンドンでは、間違いなく気楽にタクシーが乗れる。地下鉄も、多少危険ではあるが便利である。
   交通は文明のバロメーター、ロンドンタクシーの律儀さは、イギリスの民度を示している。
   
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ヨーロッパ紀行 1   ミラノ・・・ダ・ヴィンチの最後の晩餐   

2005年05月23日 | 海外生活と旅
   一昨年、イタリアを訪れた時には、目的はいくらかあったが、ミラノ訪問の最大の楽しみは、修復なったレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を見ることとスカラ座のオペラであった。

   サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会付属の修道院の食堂に描かれたこの「最後の晩餐」には、前後3回お目にかかっている。
   一回目は、25年以上前で、光の全くない倉庫の奥のようなところに、微かに美術書で見た絵の輪郭を見て感激した。
   二回目は、ヨーロッパに居た頃で、修復中で、半分、覆いが掛けられていて、修復部分に電光が当てられていたような記憶がある。
   三回目は、昨年で、全く修復が終わっていて、淡い光の中で、パステル画の様な雰囲気であった。左右の小窓は閉められていて弱い間接照明だけで、薄ぼんやりと壁画が浮かび上がる。

   今回は、入場が厳格で、何度も電話で予約を試みたがテープの音声が答えるだけで拉致があかなっかたが、ホテルに頼んで許可を取った。
   幸いに、苔寺の予約と同じで、入場券を確保すると、限定された少人数の客に限定されるので、十分に楽しむことが出来て幸いである。

   ブラマンテの設計した中庭と人気のないグラツィエ教会で十分余裕を楽しみ、入り口に入ると、狭い空間に大戦の被害状況や修復工事の模様、関係資料など重要なパネルが展示されている。
   目的の食堂までには、関門式運河のように、空気を一定に保つ為か、いくらか小部屋を通過する。
   長い長径の奥の壁面に幅8メートルのあの懐かしい、殆ど諳んじている様な「最後の晩餐」が現れる。
   過去の修復による残滓を洗い落とした所為か、色が薄くなったような感じで、テンペラ画と言うよりはパステル画を見ているようである。

   私には、何時も、この最後の晩餐は、宗教画と言うよりは、完全に二次空間に展開された壮大なオペラであり戯曲だと思って見ている。
   シェイクスピアの舞台であったり、ヴェルディのオペラであったり、兎に角、静かな空間に、役者の独吟やオーケストラのサウンドが渦巻いてくる。

   漆喰の乾く前にドラマを凝縮して描写を終えなければならないので、ダ・ヴィンチは、フレスコ画を嫌って、何回も加筆修正の利くテンペラ画法を採用してこの壁画を描いた。
   これが悲劇となり、耐久性が劣る為、初期の段階から絵の毀損が激しかった。それにしても、馬小屋として使用された時期もあり、第二次世界大戦での壊滅寸前等の悲劇を経験し、それに、不幸な加筆や修復を受けながら、良く今日まで耐えたと思われる。
   正に、数奇な運命を辿った不幸な、しかし、幸せな壁画である。

   フランソワ1世が、剥ぎ取って持って返ろうとしたと言われている。
   結局、フランソワによって、ダ・ヴィンチはフランスに招かれて、アンボワーズ城の山手のクロ・リュッセの館で晩年を過ごした。
   この時に終生手元に置いて加筆を続けていたモナ・リザが今ルーブルにある。
   このクロ・リュッセの館、陽光に照らされ、吹く風もどこかイタリア風と言うか、ロワールの畔であるが、中々、良い所で、ワインも料理も美味しい。
   この館で、あの「最後の晩餐」を描いたダ・ヴィンチが寝起きした所かと思うと感激だが、ダ・ヴィンチが考案した複雑な飛行機や近代技術の模型を見ていると時代を超越してくるのが面白い。
   
   
   
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海外雑記ー5   ニューヨーク   メトロポリタン歌劇場   

2005年05月17日 | 海外生活と旅
   昨秋、ニューヨーク旅行の準備で、真っ先にしたことは、メットのスケヂュール・チェックとチケットの手配である。2004-2005シーズンは、9月下旬に始まっているので、丁度、都合が良い。
   大体、海外旅行の時のスケヂュール設定からホテルの予約、チケットの手配など一切自分でやるので、メットのチケットも、当然、インターネットでホームページを開いて手配をする。
   ネット予約の開始時期が少し後だったので待ったが、予約可能なのは、ドミンゴの「ワルキューレ」、「カルメン」と「蝶々夫人」であったが、一日、ニューヨーク・フィルにでも行こうかと思ったので、ワルキューレとカルメンだけにした。
   ドミンゴがジークムントを歌って最上席のグランド・ティアが190ドル、2万円なので、急がなければと思って焦ったが、何のことはない、当日券も十分取れるほど空席があった。
   
   カルメンは、ロイヤル・オペラで、ドミンゴと「サムソンとデリラ」を歌って圧倒的な人気を博したロシアのオルガ・ボロディーナが歌うので期待していた。
   主席指揮者のレヴァインが、小澤征爾の後のボストンを掛け持ちした為に、ロシアのギルギエフが力を入れるようになるのか、ワルキューレもカルメンも主役をロシアの歌手陣が占めていて雰囲気が大分変わっていた。

   メットに始めて行ったのは、もう30年以上も前のウォートン時代で、フィラデルフィアから、ペン・セントラル鉄道のアムトラックに乗って何度か出かけた。最初は、確か「ラ・ボエーム」だったような気がするが、よく覚えていない。その後、ニューヨークへの出張の時に、付き合いをキャンセルして何度も出かけた。コベントガーデンに続いて良く行った劇場である。
   
   トーランドットで、フランコ・コレルリのカラフを聴いたのも、カール・ベームの「薔薇の騎士」に感激したのもこの劇場だが、別な「薔薇の騎士」の時に、時間に遅れて一幕をミスり、地下の小さなモニターテレビで、パバロッティのイタリア人歌手を聴かざるを得なかったのが残念で仕方がなかった。
   あの頃、まだ、アンナ・モッフォが歌っていて、「パリアッチ」のネッダを聴いた。ケネディ夫人ジャックリーヌとパーティで悶着を起こして「私が美人だから嫉妬したのよ」と言ったとか言わないとか、兎に角、凄い美人で魅力的なソプラノであった。天は二物を与えず、はウソである。

   兎に角、思い出深い劇場で、オペラを本当に好きになったのは、このメットのお陰かも知れない。正面左右の大きなシャガールの美しく幻想的な壁画を見ながら、何時もそう思う。
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海外雑記 4   ニューヨーク   メトロポリタン美術館 2

2005年05月06日 | 海外生活と旅
   メットでのもう一つの楽しみは、フェルメールを見ること。
   フェルメールの作品(偽作?も含めて)で残存するのは、36作品のみで、アメリカにある13の内5作品がここにあり最大のコレクションなのである。
   本国のオランダでさえ、アムステルダム国立博物館に4点、ハーグのマウリッツハイス美術館に3点の計7点しかなく、ロンドン・ナショナル・ギャラリーに2点、ルーブルに2点、といった状態である。

   フェルメールを知らない人が日本には結構居るのだが、オランダのみならず世界中で、レンブラントと同時代の画家としてレンブラントに劣らず人気があり、世界の名だたる美術館で、その作品は至宝になっている。

   私が始めてフェルメールを見たのは、もう30年ほど前で、アムステルダム国立博物館の「牛乳を注ぐ女(キッチン・メイド)」。
   貧しい若い女が、パンを無造作に置いたテーブルの上の土鍋に、水差しの牛乳を注いでいる絵で、写真の様に緻密で正確で、特に、黄色のシャツの色が腕まくりした弛みにかけて微妙に黄緑から青に変わってゆき、その画面が光り輝いている、その繊細な美しさに感動してしまった。

   その後、ハーグに出かけて、昨年上映された「真珠の耳飾の少女」のモデルの原画「青いターバンの少女」やフェルメール最大(と云っても1m×1.2m)の「デルフトの眺望」を見て感激を新たにした。
   そして、フェルメールが一生を過ごしたデルフトの町を何度も歩いた。
   それから、欧米の旅行の徒時、フェルメールがあると聞くと美術館に出かけた。30点近くは実物を見ていると思う。

   フェルメールは、当時流行ったカメラ・オブスクラを使用したと言われており、写真のような精密な遠近法や微妙な光の表現に特色があり、その作品は、優しい光に包まれた静かさと平和な空気に満ちた「静謐な空間」と称されるとか。
   左手から柔らかい光が射す窓辺に佇んだ女性の絵が多いが、ミステリアスでどこか崇高な寓意に満ちた絵もあり、これが、4~50センチ四方の空間に凝縮されている。

   訪れた日は、本館が改装中で、このフェルメール5点と10点近いレンブラント等オランダ絵画は、地下の特別展示室に特別展示されていた。
   私は、何度も行きつ戻りつ、疲れれば中庭に出てベンチに寛ぎ、2時間ほど、フェルメールとレンブラントを楽しませて貰った。

   メトロポリタンにあるのは、一番最初にアメリカに入ったこの絵の「水差しを持つ若い女」と、「眠る女」「窓辺でリュートを弾く女」「少女」と少し解釈の難しい「信仰の寓意」の5点で、総て女性をモデルにした1尺四方か少し大きい程度のの小さな作品である。
   会場には、殆ど訪れる人もなく、素晴らしい時間を過ごせたと思っている。
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海外雑記ー3   ニューヨーク   メトロポリタン美術館 1 

2005年05月05日 | 海外生活と旅
   昨秋、アメリカ東部海岸を訪れた時、ニューヨークで何日か滞在し、メトロポリタン美術館で丸一日過ごした。
   フィラデルフィアから通ったり、出張の旅毎に訪れたり、私がまだ、大英博物館やルーブル美術館等を知らなかった頃に、最初に行った大美術館なので印象は強烈で、美術書で学んで知っている絵や彫刻を丹念に追って興奮した記憶がある。

   最初に入ったのは、エジプト美術展示室。大英博物館の様にミイラや棺桶のオンパレードや巨大な彫刻群が出迎える様な派手さは無いが、実に、珠玉のような素晴らしい作品が目白押しに展示されていて壮観である。
   
   今回強烈に印象に残っていたのは、ガラスと石で象嵌されたアラバスターの「王家の婦人の頭部をしたカノープスの壷」である。彫りの深い美しい婦人の頭部像で、大理石特有の淡くて鈍い輝きが品と優雅さを強調している。
   何故、今この像なのかと言うと、現在東京国立博物館で開催されている「ベルリンの至宝展」で、エジプト彫刻の「ティイ王妃頭部」を見たときに、メットのこのアラバスターを思い出したのである。
   
   実際の像は、黒光りのするベルリンの木製の彫像とは印象は違うが、雰囲気が実に良く似ている。
   アメンホテップ3世、即ち、イクナートンの母ティイから、妃のネフェルティティ等近親婦人の、あるいは、イクナートン自身の像だと諸説あるようだが、一番ティイ王妃に似ていると云われている。
   ベルリンのティイ頭部は、本当にエキゾティックで、エジプト的な顔をしていたが、この彫刻の顔は、コーカサイド系の顔であり、随分優しい雰囲気がある。
   ベルリンのティイ王妃の頭部彫刻を見た時に、実に懐かしく感じて見入ってしまったのは、この昨秋のメトロポリタン美術館での思い出があったからかも知れない。
   それにしても、エジプトの彫刻家の腕の凄さと確かさに驚嘆する。
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海外雑記ー2   フィラデルフィア(2)   フィラデルフィア管弦楽団

2005年04月14日 | 海外生活と旅
   私が留学の為にフィラデルフィアに来て、最初に行ったのは勿論大学だが、次に行ったのは、アカデミー・オブ・ミュージック。フィラデルフィア管弦楽団の本拠地でシーズン・メンバー・チケットを手に入れる為であった。
   全く幸運、シーズン代わりでペアの予約券のキャンセルがあり、確かAA110~1、平土間の最前列から2~3列目の真正面のチケットを確保できた。これは、全く幸運で、後年、アムステルダムのロイヤル・コンセルトヘヴォウでも経験するが、伝統的に、祖父母から子供、そして孫にと引き継がれて市場には殆ど出ないので、シーズン・メンバー・チケットの取得は至難の業なのである。
   結局、この定期公演のチケットを2年間維持し、ユージン・オーマンディ、そして、若き日のリカルド・ムーティや多くの客演指揮者やソリストによるフィラ管の演奏を存分に楽しんだ。演奏後、楽屋に行ってオーマンディにサインを貰ったり話し込んだ。中国公演の後、ピアノ協奏曲「黄河」の話を楽しそうに話してくれたのが懐かしい。
   この劇場は、ミラノ・スカラ座をコンパクトにしたような宝石の様に美しく、マリア・カラスとジュゼッペ・ステファノの最後のジョイント・リサイタル、レナータ・テバルディとフランコ・コレルリ、フィッシャー・ディスカウ、サザーランドとパバロッティ等のコンサートやオペラを楽しんだ。カラスは、実にチャーミングで美しかったが、学生の身の悲しさ、たった150ドルの余裕がなくて、カラスとのレセプションに出られなかったのを今も後悔している。
   若き小澤征爾がボストン響を指揮したブラームスに涙したのもこの劇場、ムラビンスキー指揮レニングラード・フィルの公演で、反ソ連のユダヤ・グループのボイコットを受けて、座席の片側半分が全く空席という異常な演奏会を経験したのもこの劇場、私の米国での青春の思い出が詰まっているのがここなのである。
   昨秋、楽しみにフィラデルフィアに行ったが、フィラ管の本拠地は、2001年に完成した数ブロック先の新しい近代的なキンメル・センターのヴェリゾン・ホールに移っていた。
音楽監督は、前年からクリストフ・エッシェンバッハに代わり、シュトラウスの「最後の4つの歌」、ドボルザークの交響曲第8番でシーズンがあけていたが、1日違いで鑑賞をミスった。
   101シーズンもアカデミー・オフ・ミュージックは、フィラ管の本拠地であったが、この間、指揮者は、ストコフスキー、オーマンディ、ムーティとザバリッシュの4人しかいない。ホームグラウンドで聴く途轍もなく優雅で美しいフィラデルフィア・サウンドが懐かしい。
   
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海外雑記ー1   フィラデルフィア(1)   インディペンデンス・ホール

2005年04月13日 | 海外生活と旅
   私が海外で最初に生活した都市が、フィラデルフィア。ニューヨークとワシントンの中間にある東部の大都市で、独立宣言が採択され、最初の国会が開催された由緒あるシックな街である。
   随分昔に、ペンシルヴァニア大学ウォートン・スクール大学院(MBA)に入学する為に渡米し、そこで2年間生活した海外での懐かしい故郷の一つである。
   昨年秋、センティメンタル・ジャーニーではないが、久しぶりに訪れた。卒業後サンパウロの行き帰りに立ち寄っているが、それでも30年ぶり位の訪問で実に懐かしかった。
   ケネディ空港から車でニューヨークのペン・セントラル駅に行き、急行列車アムトラックでフィラデルフィアの30th Street Stationに着き、タクシーでセントラルのホテルまで直行、約3時間の旅である。私は、留学中、オペラやコンサート、博物館通いの為に良くニューヨーク間を往復したが、殆ど何時もアムトラックを使っていた。片道約1時間15分程度の旅で、ニューヨークでは駅から地下鉄、フィラデルフィアでは、寮まで歩いたが、治安が悪く危険であった。
   今回の旅は時間が少なかったので、独立記念館とオールド・シティ近辺、それに、ペンシルヴァニア大学を訪れれば十分だと思っていた。
   翌日、朝、インディペンデンス国立歴史公園まで歩こうとしたが、中心のシティ・ホールの所で方向を間違えて、南に下り、期せずしてフィラデルフィア管弦楽団の昔の本拠地アカデミー・オブ・ミュージックの前に出て、道を間違っているのに気付いた。この建物は、学校以外で、一番良く通った所なので、兎に角懐かしく、正面のガス灯もどきの照明が旅情を刺激する。
   30年前には、大通りに面してインディペンデンス・ホール(独立記念館)があるだけで、あのリバティベル(自由の鐘)も、この建物の中の一階正面のホールに鎮座ましましていた。
   しかし、今は様変わりで、独立記念館の向かい側の広い公園の中に、観光案内所を兼ねた素晴らしいビジターセンターがあり、両建物の間に、立派なリバティ・ベル・パヴィリオンが出来ていて、そこに自由の鐘が安置されていて、博物館のようになっている。ビジターセンターの窓口で、ベルと独立記念館の入場券を貰うことになっていて便利だが、独立記念館の方はほんの一寸した邸宅より小さいくらいの建物で、一回の入場員数が少ないので、少し待たされた。しかし、ハイの観光シーズンの場合はどうするのであろうか。兎に角、世界の至る所で、有名な観光スポットが入場し難くなっている。
   独立記念館は、何時行っても興奮する。家具などはオリジナルが殆どなくなっているが、あそこにワシントンが座り、あそこでフランクリンが滔々と演説し、ここでジャファソンが独立宣言を読んだ、もうそんな雰囲気がムンムン伝わってくるほど簡素な素朴な木の建物なのである。
   訪れるのはアメリカ人が多く、それも全国から集まり、自分達の国の独立時代の話を嬉々として聞いている。ほんの200数十年前の話なので、昔、途轍もない歴史を持つインドやエジプトの友が笑って聞いていたが、自国に対する誇りと愛国心は全く次元が違うのだと思った。
   
   
   
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