人間歳をとってくると、何かにつけて「ドッコイショ」と言う回数が増えてくる。
「ドッコイショ」の頻度は年齢に比例して増大していくと言われている。
若い人はめったに「ドッコイショ」とは言わない。
老人たちはめったやたらに「ドッコイショ」を連発する。
日本はこれから老齢化社会にまっしぐらに突入していく。
「ドッコイショ」はどういうときに発せられるのか。
コタツに座っていて、急に用事が出来て立ち上がることになったとしよう。
若い時は、コタツから立ち上がることなど何の苦もない。
しかし人間歳をとってくると、立ち上がることが大義になる。
立ち上がることか大仕事になる。
大仕事を決行するには決意がいる。
そういう意味では「ドッコイショ」は一種の決意声明ということになる。
この場合、はっきり自分で決意し自覚して「ドッコイショ」と発しているが、言うつもりなどないのに思わず「ドッコイショ」とつぶやいていたということはよくある。
ウ〜ン、「ドッコイショ」はつぶやきなのか、ひとり言なのか…
「ドッコイショ」はコタツ周域用語としてとらえてきたが、民謡界周域でも盛んに使用される。
♪草津よいとこ一度はおいでー
「ドッコイショ」
日常生活でやたら「ドッコイショ」と使い捨てのように発しているが、民謡界では掛け声として「アーコリャコリャ」とともに、その顔の広さに驚かされる。
民謡というのは、地方地方で自然発生的に生まれたものだ。
昔の日本の農業や漁業に伴う労働歌でもあった。
特に掛け声は、その地方の労働と密接につながっていた。
「エンヤコーラ」というのは漁業の網を引く動作と伴に発せられ、「ドッコイショ」は農村地帯の農作業と伴に発せられることが多かった。
田植えにしろ草取りにしろ立ったりすわったりの連続で、そのたびに我々の先祖は「ドッコイショ」と言い続けていたのだ。
日本の歴史は「ドッコイショ」の歴史だったのだ。
本文とは関係ないが、出雲大社から歩いて5分の御菓子屋さん「とみや」のいちご大福。
辛党のお方にもオススメだよ
美味しい和菓子でした(^^♪