十分間俳句

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運動会の俳句 その2

2009-09-20 | ジュニア俳句

6年生の運動会の俳句。先日は組体操の句を挙げたが、今日はそれ以外の句。


秋晴や終わりの言葉大きんちょう


六年間徒競走はいつも二位    ←徒競走でゴールテープを切ってみたかった


一着だ徒競走はぶっちぎり     ←一着になってうれしかった


赤とんぼバトンの色は空の色   


優勝だ最高の思い出なったかな  ←赤組が優勝したので最高の思い出になった


騎馬戦だぼうしをとらずにおにごっこ  ←騎馬戦で一回もぼうしをとることができなくてくやしかった


騎馬戦は自分と相手のにらみあい  ←騎馬戦で相手の大将のぼうしをとった


応援団ダンスの振り付け上手だな


大玉は空に上がって不時着だ


ときょうそうガッツボーズでテープ切る  ←徒競走で一番になった時にガッツボーズ


リレーでの最後に抜かされそりゃないよ ←最後のリレーで最後に抜かされてくやしかった


 


保護者からの「運動会の感想文」が多く集まってきた。


高学年の組体操に涙が出た。うるうるした。という感想は1枚や2枚に留まらない。


たった2週間で、子ども達のやる気を引き出し、力量を考えながら構成・演出し、


見ている者を感動させるほどの成功に導くのは、いくら教員がプロと言っても


誰にでも指導できるわけではない。


子どもの気持ちを斟酌し、高い指導技術を併せ持っていること。冷静な目も必要だ。


これは、水準を超えた担任の力量と言うしかない。


八名川小にはよい教員がいるということだ。


子どもの俳句。自分の感動を自分の言葉で表してている。


たったの十七音から子ども達の気持ちがびんびん伝わってくる。


十七音が詩として機能しているということだ。


子どもの俳句としては、これで百点満点と思う。


しかし、俳句作品としてみると、二つの問題点がある。


一つは視点の問題だ。誰もが気がつかなかったような視点での作品が少なかったことだ。


組体操の感動が余りに大きすぎたと言えないこともないが、


新鮮な視点をいつも求める強固な意志がないと難しい。


俳句作者?であるという「自覚」とも言える。


また、発想の新鮮さを求める姿勢は、十分間俳句の究極の目標であるとも言える。


まだまだ自ら俳句を作っているのではなく、子どもとしていえば、


作らされているということを意味しているのかもしれない。


しかし、中にはいつも独自の世界を求めようとする子が居る。


大玉は空に上がって不時着だ の作者のY君。


ピラミッドふんばりすぎて腰ギクリ の作者のT君。


時に、作品としては成功も失敗もあるが、独特の視点で物事を捉えようとする姿勢がある。


自覚して意識的な作業をしているということだ。


六年生にはこの事をもっと要求してもよいのかもしれないと思った。


 


もう一つは俳句の作品としての完成度だ。


これらの俳句は、「10分間俳句」でつくっているわけだから、今後の問題である。


種→俳句づくり→変身 10分で変身までは難しいということか。指導を重ねればできるのか。


変身の具体例を一つ示せば


徒競走ガッツボーズでテープ切る →この句の場合 「徒競走」を秋の季語に変える


これも、この子ども達なら要求すればできるもしれない。


 


 愛情とは要求することである


 


という有名な教育実践者の言葉がある。


 


 


 


 


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