9月6日東京新聞の夕刊に三田完氏が「俳句とつぶやき」という一文を寄せている。
「・・・俳句というものは、ひとりでこせこせといそしむ文芸ではなく、仲間がいることが非常に重要な、いわばコミュニケーションの道具なのだと思う。
・・・・・俳句とは、言葉足らずの『つぶやき』、完全な筋肉や骨をまだそなえていない胎児のようなものではないだろうか。句会の座につらなる仲間たちは一行つぶやきから、さまざまな情景や思いを斟酌し、共鳴する一句に点を投じる。俳句は、作者の手を離れて読み手の心の中に入ったとき、はじめて完成する詩である。だからこそ、選句や披講をおえたあとの合評に真の楽しみが待っている。作者の思惑以上に読み手のなかでふくらむ句、あるいは逆に、自信満々だったのに仲間に伝わらなかった句・・・・そういったコミュニケーションの手応えを知ることこそ、句会の醍醐味ではないだろうか。」
もともと、この文章は、つぶやき=ツイッター という問題意識で書き始めているのではないか とも思われたが、俳句に対するこの認識は極めて重要だと思う。
つまり、俳句は集団的な鑑賞(句会)と一体になって初めて成立する日本独自の表現方式だということだ。
ひるがえって、国語の教科書を考えてみる。五社の教科書のうち、句会について触れている教科書は二社にすぎない。このことは、俳句の特性が十分に捉えられていないのではないかと思わざるを得ない。
伝統文化としての俳句を考えたときにも、、句会という文化、コミュニケーションとしての文学という俳句の特性をしっかり教える必要があると思うのだ。
「・・・俳句というものは、ひとりでこせこせといそしむ文芸ではなく、仲間がいることが非常に重要な、いわばコミュニケーションの道具なのだと思う。
・・・・・俳句とは、言葉足らずの『つぶやき』、完全な筋肉や骨をまだそなえていない胎児のようなものではないだろうか。句会の座につらなる仲間たちは一行つぶやきから、さまざまな情景や思いを斟酌し、共鳴する一句に点を投じる。俳句は、作者の手を離れて読み手の心の中に入ったとき、はじめて完成する詩である。だからこそ、選句や披講をおえたあとの合評に真の楽しみが待っている。作者の思惑以上に読み手のなかでふくらむ句、あるいは逆に、自信満々だったのに仲間に伝わらなかった句・・・・そういったコミュニケーションの手応えを知ることこそ、句会の醍醐味ではないだろうか。」
もともと、この文章は、つぶやき=ツイッター という問題意識で書き始めているのではないか とも思われたが、俳句に対するこの認識は極めて重要だと思う。
つまり、俳句は集団的な鑑賞(句会)と一体になって初めて成立する日本独自の表現方式だということだ。
ひるがえって、国語の教科書を考えてみる。五社の教科書のうち、句会について触れている教科書は二社にすぎない。このことは、俳句の特性が十分に捉えられていないのではないかと思わざるを得ない。
伝統文化としての俳句を考えたときにも、、句会という文化、コミュニケーションとしての文学という俳句の特性をしっかり教える必要があると思うのだ。