十分間俳句

発見・感動・創造! 子どもたちの感性を培い日本語力を高める十分間俳句

何のために俳句をするの? 土田先生のコメント

2010-09-01 | ジュニア俳句
土田先生からのコメントが届きました。このコメントを読んで、とても考えさせられました。自分がとても浅はかなのかも知れないとも思いました。
子ども達と向き合い、子ども達と共に進む教師はこのように考えるのです。
明日、あさってと句会について、書きます。でも、この疑問には正面からこたえた内容にはなっていません。(とりあえず書きます。)
土田先生は、子どもの心を揺さぶるものとしての俳句のパワーをあげています。担任の先生が指導をすると、ここまで俳句で子どもが変わるんだ。と感動を覚えます。私はとても浅いところにいるなあと思わざるを得ません。土田先生の話は、全国の先生に聞いてもらいたい話だと思います。
また、考えて、切磋琢磨しながら一緒に答えを見つけていきたいと思います。
皆さんからもぜひご意見をいただければと願っています。

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スポーツと、似ているんですね・・・。私は、例えば「野球」「
卓球」を、学級づくりの道具としても使っています。その時、90パーセント以上の子が「野球が好き!」と感じるように、「卓球が好き!」と感じるように、野球や卓球そのもののルールとは一風変わったルールを創作します。ただし、もとのルールが解ったうえでの創作・・・です。野球本来の醍醐味を消してしまったら、それはもう“やきゅうではなくなってしまう”からです。私の学級で、ちょっとアレンジした「野球」を知り&親しみ、いずれ本来の野球を《理解》する大人になってくれたら、私は本当にうれしい。このことを、俳句というものに置き換えて考えてみると、いろいろみえてきたりするのでは・・・。

ただ、ここまで自分で書いておきながら、あれっと感じたのは、
スポーツと似ているのは果たして「俳句」なのか、「俳句ではなく句会」なのでしょうか・・・ということ。野球というスポーツと、キャッチボールする・・・ということは、違うのかもしれません。キャッチボールは、勝ち負けではありません。相手の心にめがけてボールを届ける・・・ということ。届けあうということ。俳句ってなんだろう。句会ってなんだろう。俳句は、なぜ、これからの国語に重用されようとしているのだろう。私たちは、俳句を通して何を子供たちの心に届けたいのだろう。学力を上げる為・・なんぞではありませんよね。
団栗も勉強しろよとぼくにいう
この句を作った、
ある勉強嫌いの人付き合いの苦手の少年に衝撃を覚えて、彼よりももっと勉強嫌いの格闘技好きの少年が、宿題をやり始めたんです。卒業まで4か月しかなかったけれど、その4か月に、頑張れたんです。私が、いくら叱責しても激励してもおだてても動かなかった彼の心が動いたんです。俳句は、やっぱ、すごいです。そして、どう、使うか・・・、どう位置づけるか・・・です。

句会の方法について

2010-09-01 | ジュニア俳句
学校で行う「句会」の方法について、
「これが正解」
と言うものはない。
実態に合わせて、一番良いと思う方法で実施すべきだ。
それは、どんな方法を採り上げるとしても、学校で行うのは授業だからだ。
三省堂の国語の新教科書は、一番句会について積極的にとりあげているが、ここでもグループの代表の句を採り上げて「句会」を行うと言う方法を示している。
私は、基本的には、各結社で行われている「句会」の方法をもっと活用したらどうかと考えている。
それは、この方法が俳句を上達させ、俳人を育てるすぐれた方法と思うからだ。

それは、こんなことだ。
句会は、点を競うゲームである。
一番ドキドキするのは、何処に何点入るか、この場面である。
自分の句に点数が入るかどうか気になる。
一点でも入るとうれしい。逆に一点も入らないと
「二度と俳句なんなやるものか」
と言うぐらい、くやしかったり、落ち込んだりする。

そして、この感情こそ「うまくなりたい」「上達したい」「今度こそ」というエネルギーになるのである。
また、俳人が集まるはずの結社であれば、そこでやる気をなくしてしまうような人は、俳句をやめてくれて結構だという考え方もある。
やる気のない人間をいつまでも抱えていては、集団としての向上は望めない。
(教室では、やめてもらっては困るわけだから、このあたりのことが、心配な先生はたくさんいるだろう)

しかし、この点盛りというゲームは、句会の第1ラウンドにすぎない。
(この項続く)