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豊前善三のつれづれ日記 2011年12月31日 ブログをはじめました

日頃、感ずることについて考える。人間らしさを さまざまな人間模様。

豊前善三のつれづれ日記

2021年10月10日 10時23分46秒 | 日記
 ( Vol 2953 )  今回のノーベル平和賞は 報道関係者 が受賞 これは何を意味するのか


いま コロナ禍にあって 報道が 政権寄りの報道が多い ことが影響しているのではないか

受賞者は 政権批判を指摘してきたことが 受賞理由

これは 報道する側に対する 警告 注意 なのではないかと感じる

報道は 誰のためにあるのか と問いかけたくなる この頃

その中で目立つのは

テレビ 新聞 などによる報道が 真実を伝えているのか と疑問を抱くことが多くある


コロナ感染における ワクチン接種の効果について 説明が不十分でありながら ワクチン接種を促す報道

感染対策で ロックアウトの情報ばかり 他のの対処方法を排除 した報道

政権が発表する情報を 吟味 検証することなく そのままを報道することが多い

それでは 報道は 政権の報道マン になってしまっている

報道の 自由 独立 ということを自ら放棄しているようなのものである

日本で見ると それが顕著のように見受けられる

自民党政権による 報道への圧力が 政権への報道の批判的な目が失われている

政権への批判を報道すれば 世間 社会が批判をするかのような 政権による報道の煽動が行われている

このような 報道は 本来の報道ではない

報道は ある意味 政権への審判の目であるべきであるが それが 失われては 報を信頼することができなくなる

最近気になるのが 政権によると思われるような フェイクに近い情報を流している偽報道者がいることである

報道とは 何か

ということを 問いかけた 今回のノーベル平和賞でがなかったかと思う

報道関係者は 今回のノーベル平和賞を 重く受け止めてほしい


報道が 一方向からという偏った報道になっているのは 異常である






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豊前善三のつれづれ日記

2021年10月03日 10時48分32秒 | 日記
( Vol 2951 )  見て見ぬふりして寡黙になることから 見て しっかりと見て 言う ことが求められる 時代に変わる必要がある

見て見ぬふり は1970年の頃の 高度成長期時代に 「隣の人は何をする人ぞ」という言葉が言われた時代から始まる

あれから 71年 

1970年は 期待 希望があり 自助努力で叶う可能性があった

しかし 1990年になると 社会情勢は 低成長になり 自助努力では叶わなくなった

だからといって 共助も公助も 当てにはならない

希望を失った

その中での 「見て見ぬふりは」諦めの気分になり 寡黙になった

社会は 注意もせず わがまま がまかり通り 秩序は乱れ始めた

誰もが 自己規制という 律することをしなくなった


その代表例が 政治家である


いま 社会を秩序ある状態にするには 

「見て見ぬふり」ではなく 「見て 見ることによる言う」ということである

人は 自分を規制することは 苦手である


人は 他人から注意されて はじめて 自分を規制することができる ことから

気楽に 注意し合う 社会環境が 秩序ある社会をつくる上で 必要である


寡黙にならず 言う 

この状態にもっていくためには  警察官の親しまれる警察官から 注意する警察官に変化することが求められる


寡黙にならず 言うことは言う 注意するものは 注意する という ことが大事である

これは 政治に対しても 是々非々の論理で 言う姿勢を持つことである

「言う」ということが 世の中を良い方向に向かわせることができる


「見て見ぬふり」はやめよう


「見て見ることと 言うこと」をしよう


世の中 言うことで 社会は変わる 

良いことは 良い

悪いことは 悪い

注意することは 注意する

誉めるときは 誉める

誰でもが 誰に対しても 言うことである 注意をすることである
















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