ライオンズが後期に突然の獅子吼えを見せている。前期の最下位から一気に首位を突っ走る素晴らしい高度成長。それを支えるのは永射保投手と若菜嘉晴捕手の2人。このバッテリー、永射は小柄で若菜は大きい女房役のノミの夫婦でありそれが獅子を走らせている。
クロウトが選んだ球宴初の出場
今年のオールスターゲーム第1戦はクラウンの本拠地・平和台球場で行われた。前期最下位、しかも主力は故障続きで満足な成績を残していないとあってクラウン勢がファン投票では全滅だった。昨季DHファン投票2位だつた太田選手は今季は右太もも肉離れで今季は前期を棒にふり、12年連続出場の土井選手も左足アキレス腱痛による不振で遂に落選となった。そうした状況で全パを率いる上田監督(阪急)が監督推薦でイの一番に挙げたのが永射投手と若菜選手だった(他に基選手も推薦出場)。この時の2人の感想が「ひょっとしたら、が実現して嬉しい(永射)」「まるでシンデレラみたい(若菜)」と初々しかった。
永射投手は昭和28年10月3日生まれ。鹿児島県で生まれ育ち大浦中学で野球を始め、郡大会の決勝戦で完全試合を達成するなど本格派左腕として注目を集めた。中学卒業時には鹿児島実業、鹿児島商、済々黌など名門校から勧誘されたが「野球で進学したと思われたら嫌。鶏口となるも牛後となるなかれだ(永射)」と指宿商に進学した。ちなみに大浦中学の同級生だった定岡智秋選手(現南海)は鹿児島実に進学している。永射投手は1年生からエースで四番だったが甲子園出場は成らなかった。だが九州屈指の左腕と評価され昭和47年にドラフト3位指名で広島東洋カープに入団した。
カープでは将来のエースとして期待されて、21試合・16回 2/3 に登板したが防御率が5点台と伸び悩み、2年後の昭和49年に乗替寿好投手と交換トレードでライオンズに移籍した。ライオンズでも1年目は主にワンポイントで起用されたが防御率 8.18 で「とても一軍で使えない(江田投手コーチ)」と見放され二軍落ち。そのまま昭和50年も二軍暮らしが続いたが、翌51年になると救援専門で45試合に登板した。先発要員不足で急遽、対近鉄5回戦(藤井寺)に先発し5回を投げてプロ入り初勝利をあげた。これをきっかけに2完投を含む3勝4敗1Sと結果を残し、スタミナも充分あることも示した。
商業優等生のコンピュータ投法
永射投手の実家は九州名産のポンカンを栽培し、傍ら乳牛を飼育している篤農家で彼は三男坊の末っ子。「家事の手伝いが嫌で逃れる為に野球を始めた」そうで今では職業となった。指宿商在学中に珠算2級、簿記は工業・商業を合わせた完全1級の検定にパスしており経理事務でもメシが喰える優等生だった。あの一見無雑作に見えながらきちんと間合いを作って投げ込まれるシュートやカーブのコントロールは高校時代に培われた永射コンピュータの計算から弾き出されているのかもしれない。趣味が観葉植物の栽培というのも変わっている。長期遠征で留守にしている間に枯らしてしまい落ち込むこともあるそうだ。
チームいちの過密登板だが永射投手は苦にしていない。「あれこれ言っても疲れが取れるわけじゃないし」と登板を命じられると勇んでマウンドへ上がる。スピードの変化とタイミング、コースの揺さぶりを主体とした多彩なピッチングを披露するのだ。今季の4月に一軍昇格を告げられると「人数合わせの昇格なら断る。上げたからには試合で投げさせてくれ」とゴネたのも永射投手の度胸と反骨精神を物語る。171㌢・74㌔という体格はチームで一番の小柄。そんなチビッ子投手は身体に似合わない大きなプライドを持ち合わせている。
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