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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 555 KKドラフト ②

2018年10月31日 | 1985 年 



「やっぱり菊さんだ。恐れ入ったよ」とは根本管理部長。この発言を聞いた在阪の記者達は今回の桑田盗りに伊藤菊雄巨人スカウト部次長が深く関わっている事を思い知る。昭和40年からドラフト制が採用されてスカウトの仕事は一変した。極端に言えば自らの手足をもがれてしまったも同然。自分の目と足で逸材を発掘してもドラフト会議で他球団に指名されてしまえばもう手は出せない。そんな状況が続けば汗水流してスカウト家業を続ける気が失せ、スカウトのサラリーマン化が顕著となるのも必然だった。だが伊藤は自由競争時代の生き残りだ。新たな時代にスカウトが自己を主張するにはどうすればいいかを考えてきた。その結果「昔は実力と人気のある選手をいかに安く手に入れるかがスカウトの仕事だった。しかしドラフト以後の役割は、いかに他球団に指名させないかに変わった。私はこれにスカウト生命を賭けています」とのスカウト哲学に至った。

自由競争時代の昭和36年には関西大学の村瀬投手を中退させシーズン終盤の逃げ切り役を任せて川上巨人を初優勝に導いた。最近では当時PL学園の吉村選手の法大進学説を広めたり、水野投手に巨人以外はプロ入りしないと言わせて巨人に入団させた。まさに今回の桑田盗りはその典型的なケースであったのだ。伊藤はPL学園に桑田・清原が入学し頭角を現すと2人まとめて巨人に入れようと考えた。スカウト人生の集大成として。だが同じことを考えている人間がいた。西武の根本管理部長である。実は今回の早大進学に関してもう一人別の人物が関係している。岡山にある社会人野球チームのX氏だ。X氏はプリンスホテルが社会人野球に進出する際に関西方面で選手集めに奔走し、根本管理部長や堤オーナーとも懇意にしている。そのX氏の働きで桑田が早大進学すれば4年後には西武とプリンスホテルのガードでがっちり固められて巨人が手を出す隙間はなくなってしまう危機感があった。

では清原の方は?正攻法でドラフトに挑めば獲得できる確率は低い。下手をすれば2人とも西武に持って行かれるかもしれない。事実、西武は今回のドラフトで清原を手中にした。こうなると2人のうちどちらか1人という方針に変更せざるを得ない。ではどちらか?投手不足というチーム事情もあるが、人気選手は他球団に渡さないという伊藤個人の思いが桑田を選択させた。伊藤が桑田サイドにどのように接触をしたのかは闇の中だが息子の啓司君をPL学園に入学させたことで父親の泰次さんと繋がりが出来たのは間違いない。この啓司君と桑田の弟・泉君は福岡で行われた少年野球大会でプレーしており、そこでの父親同士の接触があったかもしれない。今回の桑田盗りは巨人のというより伊藤のスカウト生命を賭けた大仕事だったのではないか。伊藤は大役を果たした心労からドラフト会議後に胃痛を起こしたと報じられたが、実際は祝杯の水割りを10杯も飲んだのが原因だった。戦後の高度経済成長を生き抜いてきたモーレツ人間らしい話である。

今回の騒動の中で一番つらい思いをしたのは清原であろう。母親の弘子さんによると清原は子供の頃から巨人のユニフォームを模したパジャマで寝るほどの熱烈な巨人ファンだそうだ。その巨人ファンが巨人に袖にされた。それも初めから「君はいらない」と突き放されたのなら諦めもつくが、ドラフト直前まで指名するかのような素振りを続けた。しかも王監督は「清原君になら背番号1を譲っても構わない。フロントから要請があれば僕が交渉に乗り出してもいい」とまで明言していた。確かに巨人は正式には1位指名選手の名前は明かしてはおらず、清原に1位指名の確約もしていない。「和博が勝手に恋をして失恋した感じ」と弘子さんが言うように清原の片思いだった。しかし心優しい少年の心を傷つけてしまった巨人の罪は重い。弘子さんは続けて言った。「勝手に惚れてフラれただけ。その傷は自分で治すしかない」と。そう、清原が巨人を見返すには西武に入って大打者に成長し、日本シリーズで叩きのめすしかない。1日も早い " 西武・清原 " の誕生を願う。

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