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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 748 スタルヒン

2022年07月13日 | 1977 年 



歴代の速球投手を語る時、ビクトル・スタルヒンを抜きには出来ない。とにかく速かった。速いのを通り越して " ボールが震える " とまで言われた。しかし彼はただボールが速かっただけではない。マウンド上にたえず権謀術数をめぐらせていた。現在の球界に彼ほどの速球投手はいなければ、彼ほど策をめぐらせる投手もいない。

湯之元キャンプと雪の旭川の差
今春のヤクルトキャンプが行われた湯之元に注目度 No,1の酒井投手が父親・義員さんと一緒にやって来た。父と子が揃ってキャンプ地に来たのをとやかく言う気はない。いや、本音を言わせてもらえば男が体を張り命がけでプロの世界に飛び込むのに何故一人で来ないのか。しかしこれは酒井個人を責めてもご時世だから仕方ない。大学入学試験や合格発表に親子が揃って来る時代なのだ。酒井親子を見た時、ふとスタルヒンを思い出した。スタルヒンの父親は行商で世界中を歩き回り、ほとんど家にいなかった。しかも酒好きで家に稼ぎを入れず浪費してしまいスタルヒン家の暮らしは楽なものではなかった。時代の違いとはいえ酒井親子とは余りにもかけ離れていた。

昭和9年、全日本軍(後の巨人軍)の総監督に就任した市岡忠男氏はもうすぐ11月になろうという頃に大学時代の友人・秋本元男氏にスタルヒン獲得を依頼した。「旭川中学にビクトル・スタルヒンという投手がいる。まだ3年生だがとにかく速い球を投げるそうだ。京都の沢村と共に2人をスカウトしてきて欲しい」と全日本軍入りの命を受けた秋本は早速寒風凍てつく旭川を訪れた。だがスタルヒンの周囲には " スタルヒン後援会 " なるものが存在し蟻一匹入り込む余地はなく、旭川中学から早稲田大学へというレールが既に敷かれていた。

とりあえず後援会に筋を通して挨拶をしたが当然の如く拒否され、けんもほろろに追い返された。困り果てた秋本は後援会を介さずにスタルヒン家に直接交渉に挑んだ。父親がラシャの行商人でカネ使いが荒くスタルヒン家はお金に窮していると考えた秋本は「支度金 1000円・月給 120円」を提示した。当時の私立大学卒業生の初任給が40円、東京帝国大卒だと50円。支度金と月給を合わせると帝大卒の約2年分のお金を前に、生活が苦しかった母親はその条件を聞いてスタルヒンの全日本軍入りを承諾した。

さて、後は如何にしてスタルヒンを周囲に気づかれずに旭川から連れ出すのかだった。秋本は考えた。早朝に函館行きの列車に母親と一緒に3人で乗り込み、一刻も早く後援会の目をかい潜って抜け出そうと。早朝の旭川は雪が舞い暗くて寒い。中学3年で既に180㌢を超す長身だったスタルヒンが母親を背負い駅に向かった。「ひょっとしたら二度と旭川の地は踏めないかもしれない」とスタルヒンは熱いものがこみ上げてきたと述懐している。全日本軍入りは即ち故郷を捨てることを意味していた。


江夏の全盛期より速かった " 震球 "
あれから40余年の歳月が流れた。中学3年のスタルヒン少年が母親を背負い、雪の旭川を泣きながら脱出したのに対して18歳の酒井は父親に付き添われてキャンプイン。果たして時代は良くなったのか悪くなったのか。スタルヒンは " 震球(しんきゅう)" という新語をプロ野球界に作った。彼が絶好調時の投球は打者にはブルブルと震えるように見えたという。恐らくスタルヒンの球が打者の動体視力を上回るスピードであったと思われる。また別名をアベックボールとも称された。つまり球が震えて2つに見えたのだ。戦前の速球投手と言えば先ず沢村投手の名が挙げられるが、スタルヒンも負けず劣らぬスピードの持ち主だった。

だが残念ながらスタルヒンのスピードを測定した資料は残っていない。ただし目撃者による推定は可能だ。藤本定義氏は巨人軍の監督時代にはスタルヒンを、阪神の監督時代には江夏を間近で見ている。その藤本氏が「スピードだけならスタルヒンの方が速かった」と証言している。江夏が阪神時代に測定した時のスピードは秒速42mで、時速に換算すると150km を超す。スタルヒンの球速はその上をいく。秒速42m強とはどれくらいの速さなのか?" 夢の超特急 " の新幹線は秒速55m なので約76%に相当する速さである。スタルヒンが現在のプロ野球界で投げたとしてもトップクラスである事は間違いない。

加えてスタルヒンは現在の投手と違う一面がある。例えば投手は相手投手が打席に入ると全力投球はしない。ぶつけたりしたら申し訳ないという気持ちもあり外角中心の投球に終始する。だがスタルヒンの場合は全力投球をする。一体なぜか理由は明快である。「お前に俺ほどのスピードボールを投げられるか」のデモンストレーションである。また別の理由はもっと心理的だ。スタルヒンの震球を見た相手投手は自信が揺らぎ弱気になり打ち込まれる可能性が高くなり、スタルヒンに勝機が増し、自分はスタルヒンに勝てないというコンプレックスに繋がる。そうした心理を計算した上での全力投球なのだ。


40歳の命散らす黒塗りのシボレー
スタルヒンは昭和11年から引退するまでの19年間で586試合・303勝175敗・防御率 2.09 という超人的な成績を残している。単に体力があったからではなく相手打者や投手の心理を熟知していた結果である。スタルヒンのような権謀術数に長けた投手は現在のプロ野球界には残念ながら存在しない。現代的合理主義の弊害と言えるのではないか。さて野球に関しては天才的な発想をするスタルヒンだが悪い癖も持ち合わせていた。乱暴な自動車運転である。「スタルヒンが運転する車には乗るな」が巨人軍関係者の一致した声であった。いつの日か大きな自動車事故を起こすのではないかと誰もが危惧していたが、それが起きてしまった。

昭和32年1月12日午後10時38分頃、渋谷駅発二子玉川行き2両編成の玉川電車が三宿停留所を出て約30mほど走った時、黒塗りのシボレー41年型自家用車が推定時速100km近い猛スピードで最後部に追突した。自家用車の運転手はスタルヒンだった。ほぼ即死状態だったという。まだ40歳の若さだった。この日のスタルヒンは知り合いのボーリング場経営者のオープニング式典に招かれアルコールも入っていたようだった。なぜスタルヒンは投手相手に震球を投げるほどの深慮遠謀で自動車を運転しなかったのか。それが残念でならない。震球を投げた男が自分自身が揺れるように猛スピードで電車に激突したのも皮肉な最期であった。

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