
昭和55年4月8日 近鉄vsロッテ 5回ウラ攻撃途中で2時間半が経過するというダラダラ試合。
ロッテ投手陣は猛牛打線の餌食となり、満塁弾2発・3ラン1発を喰らい13失点。2死後平野が
右中間3塁打した時に外野から返球されたボールは泥で汚れた為に交換されました。塁審から
ボールを渡されたボールボーイにロッテベンチから「坊や、そのボールをちょっと見せて」 と声が
かかり、ボールはロッテ・高見沢育成管理部長の手に。「去年から あまりにもピンポン球の様に
飛んで行くので、一度ウチのボールと比べてみようと思ってね」とロッテがボールを調べてみると
公認ボールには押してある筈のコミッショナー印がありませんでした。
「近鉄が攻撃する時は飛ぶボールを使っているのでは?」とロッテ側は猛抗議します。球審は
他のボールを確認しましたが全てに公認印が押されていました。近鉄は試合前の打撃練習を
気分良く終れるようにと「飛ぶボール」を使っていたそうで、それが紛れ込んだのではという事で
試合続行を求めましたが、ロッテ側は無効試合を主張し延々抗議が続きました。結局、提訴を
条件に試合は再開されましたが、この件についての続報はありませんでした。ロッテも提訴する
事なく、うやむやのまま「臭い物に蓋」で闇に葬り去られました。
当時は6社メーカーのボールが使われていましたが特に美津濃製がよく飛ぶと評判でした。近鉄も
前年に美津濃製に切り替えてから猛牛打線の炸裂が顕著になりました。30年前は横浜スタジアムが
広い球場と言われていたほど狭い球場が多かったのです。川崎球場・後楽園球場・広島市民球場、
甲子園球場でもラッキーゾーンを設け10m近く狭くしていました。狭い球場に飛ぶボールと圧縮バット
当時はホームランの大安売りの時代だったようです。今回の件をはじめスパイ行為やドラフト裏工作
などプロ野球界には真相解明の自浄能力を期待しても無駄のようです。
