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Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 612 移籍男のドラマ ①

2019年12月04日 | 1976 年 



人間は、いや男はその場を移ったとき良くも悪くも変わる。プロ野球の中でも自分の意思に反してその場を移さなければならないことがある。トレード。このプロ野球のルールに従って今季も新しいチームへと移った多くの野球人がいる。その中で " 栄光の巨人軍 " から追われた4人の男、高橋一・富田・関本・玉井はさまざまな感傷と意欲をもって新天地にその身を託した。そして始まったペナントレースに彼らは意地を白球に叩き付けている。そこには強烈な男のドラマがあるはずである。

鎖が解けて知った自己規制の尊さ
日ハムに移籍した高橋一、富田のコンビはリラックスの良さを知った。それが逆に自己規制の道であることも知った。この変化はある種の巨人に対する強烈な批判でもあるようだ。巨人時代とガラッと変わった私生活に富田は「人間っておかしなものだなぁ」とつくづく感じている。優等生の多い巨人の中で富田は所謂はみ出し者だった。遠征先では勿論、東京にいても赤坂や六本木の繁華街で飲み歩いていた。美枝子夫人と出逢ったのも夫人が歌手・白川奈美として活動していた青山のクラブであった。そんな富田が鳴門キャンプに入るとパタッと繁華街に飲みに出歩かなくなった。

キャンプが終わり東京に戻っても球場から自宅に一直線に帰宅する。南海や巨人時代の富田を知る人には驚きのようだ。「彼も奥さんをもらって子供も生まれたのだから父親として当然かな」とか「心機一転、張り切ってるんだ」など友人らは言うが、実はどちらも的外れのようだ。富田は「僕はねそんな謹厳居士じゃないよ。日本ハムに来たら普段あれこれと束縛されないからストレスが溜まらない。だから酒を飲む機会が減った。巨人時代はやれ門限だ、やれ酒やギャンブルはダメだとか窮屈だったから飲んで気分転換する必要があったんだ。でも今はその必要が無いから真っ直ぐ家に帰っているだけのこと」と明かす。

鳴門キャンプ初の休養日の朝の10時、他球団から移籍して来た選手に対して「監督室に集合するように」と連絡が回った。監督室に向かった富田ら数名の選手たちは驚いた。監督室には酒が用意されており「おお、よく来た。まぁ飲めや」と大沢監督が手招きしたからだ。午前中からの飲酒にさすがの富田もビックリ仰天。周りを見渡せば娯楽室では遠慮することなく酒を飲みながら麻雀卓を囲んでいる選手たちがいた。巨人では緊急呼び出しの時は大抵はお説教ミーティングか特訓だっただけに、余りのギャップに驚いたのだ。「日ハムは普段から自由な雰囲気だから、ことさら遊びたい飲みたいとは思わなくなった」と富田は言う。

これには高橋も同じ心境だ。「打たれたら、失敗したら巨人だったら散々で気分が滅入ってた。ただそれがプロの世界だと思っていた。でも日ハムでは雰囲気が違っていて直ぐに気持ちの切り換えが出来る。野球に関してこれだから遊びの面では尚更かな(高橋)」ユニフォームを着ている時とそうでない時とのケジメさえつければ、酒を飲もうが門限に遅れようがうるさい事は言われない日ハム。「遊びたければ底なしに遊べる。だけどその結果は全て自分に跳ね返ってくる。だから自分がしっかりしないと、と自戒になるんですよ」と高橋は自己規制の大切さを強調する。

これも自己規制のひとつなのか富田はタバコをやめた。「僕は1日50本を吸っていたので本数を減らそうと常々考えていたけど、どうせなら禁煙しちゃえとね。2日目には頭がクラクラしたけど今は大丈夫だよ」とか。ネオン街に行かない、タバコは吸わない夫に対し美枝子夫人は「今は夫婦で家でビール2本の晩酌をしながら子供の成長を見るのが楽しみ。子供の可愛い仕草を2人で発見し合って喜んでいる」のだそうだ。「確かに巨人時代と違って本人はリラックスしています。大体が一本気な性格なので上から抑えつけられるとダメな人なんです。日ハムの水が合うんでしょうね、今は野球に没頭しています」と美枝子夫人。

その一方で共に巨人から移籍して来た高橋は「南海という自由な球団にいた富田には巨人は窮屈だったんでしょう。僕の場合は高校を出て直ぐに巨人でしたから巨人という環境下でずっとやってきて、それが当たり前だと思っていました」と話す。なので高橋は巨人時代と変わらず同じペースの生活を送っていると言うが、和子夫人の目には少し違って見えている。「主人は元々仕事を家庭に持ち込まない主義の人でしたが、やはり負けて帰って来た時は雰囲気は暗かった。ところが今年は気分転換が出来ているのか家ではノンビリしています」と和子夫人は普段の高橋の様子を明かしてくれた。

さて2人にとって再スタートとなった開幕戦、富田は怪我で出場できなかった。本人は「多少の痛みなら出たい」と意欲を見せたが大沢監督は「一番・セカンドで使いたいのはヤマヤマだが無理をさせて怪我が長引いたら本人にもチームにもマイナス」と出場させなかった。富田は10日の南海戦からスタメンで出場し、早速4打数2安打1打点と結果を残し、存在感をアピールした。その試合に先発した高橋は南海打線を4安打に抑えてパ・リーグ初勝利を挙げた。「前のロッテ戦では打たれたが今日は勝った。パ・リーグの野球も分かってきた。やりますよ、手応えは有る」と力強いコメントを残した。






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# 611 阪神を逐われて

2019年11月27日 | 1976 年 



勝ってばかりではいられない。いつかは負けるのが勝負の世界だが、何としてもバリバリと勝つところを見せて欲しいのが江夏投手。阪神を追い出され南海に新天地を見つけた江夏が散った。その日の風景である。

4月13日、甲子園球場の銀傘に歓声がこだまし今シーズン初めての阪神巨人戦に大観衆が熱狂していた同じ夜、京都・西京極球場のマウンドで阪急相手に苦悩に顔をゆがめる江夏の姿があった。関西地方は雨がいつ降り出してもおかしくない怪しい雲行きだった。外野スタンドに沿ってこんもり繁った樹々が青白いカクテル光線に照らされ輝きを増して、いかにも古都の郊外球場の雰囲気を醸し出していた。そんな雰囲気とは異質の声が響いた。「お~い野村よ、早く江夏を代えてやらんかい。マウンドで泣いとるやないか」パ・リーグの球場は大観衆が詰めかけて声を掻き消すセ・リーグとは違ってスタンドのファンの野次がダイレクトに両軍ベンチに届く。

また場内アナウンスが他球場の試合経過を知らせる。「阪神の投手は古沢から上田卓…」本当なら今頃は俺が大歓声に送られて王さんや張本さんをキリキリ舞いさせていた筈だ・・そんな思いが江夏の脳裏をよぎったかどうかは分からない。だが現実は自分でも理解できないほど江夏の左腕は縮み、往年の快速球は影を潜めていた。阪急とは3月28日、大津でのオープン戦で江夏は対戦していた。その時は3イニング・7安打・2失点。「ビデオで投球を録画されている。それが分かっていたので本来の投球が出来なかった。本番になれば今日とは違う投球内容になる(江夏)」と自信を見せていたのだが。

ペナントレースが始まりこの日が両軍の初顔合わせだった。6連勝し波に乗る阪急相手に野村監督は前日に2時間に及ぶミーティングで対策を練った。「この辺で止めないとこのまま阪急が走ってしまう。頼むぞユタカ」が野村監督がミーティングの最後に発した言葉だった。期待を背負った江夏だったが試合前に外野をランニングする姿はどこか気怠そうだった。捕手役の醍醐コーチが盛んにハッパをかけるが江夏の士気は上がっているようには見えなかった。先発に起用された捕手は野村監督ではなく和田だった。和田は江夏より3年前に阪神入りしていた元同僚である。あれから9年、2人はユニフォームを変えて再びバッテリーを組んだ。

しかし前日のミーティングで強調された福本に出塁を許すなという忠告を江夏は守れなかった。初回いきなり福本を四球で歩かすと大熊には左前打されピンチを招くが、後続をどうにか抑えて失点は逃れた。2回は森本の遊撃内野安打に続きウイリアムスの左中間二塁打や中沢の右前打などで3失点。5回には大熊に四球を許した後に高井に左中間本塁打を浴び、92球で降板した。オープン戦では打者の胸元を突く速球を投げず、変化球中心の探りを入れるような投球内容には賛否があった。「あえて速球を隠して本番に備えているんだ」「かつてのような速球はもう投げられないんだ」など評価はまちまちだった。

阪神時代には" 扱いにくい " " 反逆児 " などのイメージが定着していたが、南海に移籍後は努めて明るく振舞ってナインの和にも積極的に溶け込もうとする姿があった。南海での最初の登板は開幕シリーズの対太平洋3連戦。佐藤投手からバトンタッチして初セーブを記録した。ちょうど近鉄戦に勝ち越した直後の上田監督がこの江夏の起用法を見て「なるほど野村監督は江夏をこういった使い方をするのか」と感心した。初勝利は1万4千人が詰めかけた大阪球場での近鉄戦だった。8回 1/3 を 128球・3安打に抑える好投を見せて一部にあった不安視する声を自らの手で払拭した。

それだけにストップ・ザ・阪急を託されたが期待に応えることは出来なかった。用意周到に準備された筈の阪急戦だったが全てにリズムが狂い、持ち味の速球は遂に見られないまま5回で降板した。試合が6回を迎えた頃、西京極球場の三塁側ダグアウト裏にある薄暗くて窓ひとつない小部屋で江夏は記者からの取材を受けた。重苦しい雰囲気の中で江夏は「嫌な事は聞かないでくれよ」と自嘲気味に会見を始めた。「今日は南海に来て4試合目で初めて味わった屈辱や」とショートホープを燻らしながら喋り始めた。「福本さんに気を使い過ぎて投球内容が窮屈になってしまった。事前に用意しておいた対策を試す余裕すらなかった」と。

ポツリポツリと試合を振り返る。初めての球審で外角のきわどいコースはストライクにしない癖を見抜くのに時間を要した事。ダメ押しツーランを打たれた球は低目のボールになるフォークボールだったが、予想以上に高井選手の打撃技術が高かった事など極めて冷静に淡々と語った。現状の江夏の速球では阪急打線を抑えるのは難しいだろう。同じ投球フォーム、同じ腕の振りで球速を変えて投じる江夏特有の上手さを所々で垣間見せたが全体を通しては球速の衰えは隠せなかった。一塁走者のマルカーノを刺した牽制球などプレートさばきは流石だったが、芸術的と評される江夏の投球術を見ることは出来なかった。

この野郎!とカッカと熱く燃えてこそ江夏は真価を発揮する。なかなか暖かくならず満開になる前に散ってしまった今年の桜のようになって欲しくない。かつて阪神の監督として江夏を起用した村山実氏はこう話していた。「能ある鷹は爪を隠すと言うけれど江夏は今のうちに速い球をもっと投げ込んでおかないとイザという時に思い通りの速球を投げられなくなる」と。これは村山氏自らの経験から滲み出た忠告と聞こえたが、江夏がこの忠告をどう判断したのかは分からない。江夏の完全復活こそ今季のパ・リーグを熱く面白くする要因であることは間違いない。そんな思いをはせた未だ肌寒い夜風を感じた京都の夜だった。



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# 610 強すぎる勇者

2019年11月20日 | 1976 年 



もうパ・リーグの前期優勝は決まったと、早合点ではなくそう思っているファンも多い。それほど阪急の快進撃は凄まじいのだ。しかしこの世界は余り勝ち過ぎても上手くないようなところがあって関係者は複雑な気持ちなのだ。

山口の出番もない憎らしいほどの強さ
今や阪急の快進撃にファンや一部のリーグ関係者は浮かない表情を隠さない。何はともあれ阪急の強さを御覧あれ。開幕は近鉄戦。昨季のプレーオフの再現となったが戦前の予想では近鉄有利の声も少なくなかった。なにしろ阪急は開幕を目前に控えて主力陣に故障者が続出した。足立投手は練習中にバットで後頭部を強打、山口投手は右膝に打球を受けて揃って病院送りに。他にも加藤選手は右足首を捻挫、長池選手は肉離れで戦線離脱。上田監督の表情も曇り、フロント幹部は「これは一大事」と急きょ神社で厄払いをしてもらい、球場内の事務所や選手のロッカーや通路まで至る所に清めの盛り塩をするなど大変だった。

ところがイザふたを開けたら第1戦は加藤の代役・高井選手が三番に座り本塁打を放つなど活躍し、開幕投手を務めた山田投手が完投勝利。第2戦こそ敗れたが第3戦は期待の戸田投手が完投勝利して開幕3連戦を勝ち越した。表情の暗かった上田監督もゲンキンなものですっかり上機嫌になり「とにかくウチの団結力は天下一品。故障者の分を全員でカバーしようと張り切っている。マルカーノや福本だけでなく各選手が自分の仕事をこなして上位下位の切れ目なく打線は機能している。いずれヒデ(加藤)もタカシ(山口)も帰って来る。当初の予定通り開幕ダッシュを狙う(上田監督)」と記者団を前にお喋りが止まらない。

当面のライバルの近鉄戦に勝ち越した勢いで日ハムも撃破していく。戸田の完投勝利に刺激を受けた白石投手や大石投手が相次いで完投勝利を収めた。続く宮城での10日からのロッテ戦では試合前に宮城県知事や歌手の郷ひろみまで登場し華やかに行われたセレモニーが挙行されて金田監督が「今年は阪急を倒して2年ぶりに日本一になる」と高らかに宣言するも阪急打線がロッテ投手陣を粉砕して3連勝。開幕して7勝1敗(4月15日現在)と山口不在の心配は取り越し苦労であった。

「もうリリーフなら十分に投げられるのに、リリーフは必要ないと言われて投げさせてくれない」と13日の西京極球場での南海戦の試合前、病院通いも終わり出番を待つ山口は憮然とする。先発する投手が次々と完投するので出番が回って来ないのだ。投手起用に頭を悩ます長嶋監督が聞いたらヨダレを流しそうなくらい阪急投手陣は万全の状態である。加えて打線も好調でこの試合も南海先発の江夏投手を早々にKOした。「江夏?あの程度の速球なら苦も無く打てる。変化球だとかコーナーワークといっても速い球がなければウチの打者連中には通用せんよ」と上田監督は余裕の表情。

4月25日で決着がついてしまう?
開幕したばかりだというのに早くも前期優勝は阪急だと断言する評論家もいる。「シンザンかグランドマーチスか知らんが、とにかく競馬で言えばガチガチの本命がスタート直後に10馬身も離してしまったみたいだ。こんなペナントレースは面白くない」と話すライバル球団OBの某評論家。「ボクシングで言えばTKO。セコンドがタオルを投げ入れる寸前」と在阪スポーツ紙記者も既に諦めの心境だ。ライバルであり負けん気の強いカネやんですら「こんな調子ではパ・リーグの灯は消えてしまうで」とお手上げ状態。もっとも「嘆く前にロッテがしっかりせんのがイカンのや。阪急のせいではない、ウチも含めた他球団がだらしないからや」とぼやく。

ところで開幕前に本誌を含めた野球評論家たちの順位予想を集計したところ、22人の内17人が阪急の前期優勝を予想していた。その予想を上回る快進撃だが上田監督は「とにかく手綱を緩めることなく20試合までは油断せずに勝てる試合は全て勝ちにいく。20試合を過ぎて首位なら文句ないが、例え首位でなくても2~3ゲーム差なら優勝のチャンスはある」と話す。つまりは4月25日頃には優勝の目途がつく筈だが、今の勢いなら目途どころかほぼ確実な情勢だ。「またぞろ早々に前期を諦めてしまう球団も出てくるだろう」とリーグ関係者は憂慮している。このままでは6月11日まで組まれている日程の多くが消化試合になってしまう可能性は大きい。


やはり2シーズン制は上手くないのか
こうなると当然、2シーズン制への批判が出てくる。実はパ・リーグは今季から1シーズン制に戻すことになっていた。事前のマスコミ各社の世論調査では2シーズン制の支持は7%、1シーズン制は83%、どちらでも良いが10%だった。そうした球界内外の声を受けて昨年7月と10月に行われたパ・リーグ理事会に6球団の代表が集まって昭和51年度のシーズンから1シーズン制に戻ることが確認された。ところが11月12日、大阪堂島のクラブ関西で開かれたパ・リーグオーナー懇談会で理事会の決定を覆した。しかし6人のオーナー中、2シーズン制支持は1人だけだった。それがなぜ?

オーナー懇談会で1シーズン制に戻す事に唯一反対したのは太平洋クラブの中村長芳オーナー。第1の理由は興行面で1年のうち二度の優勝があることでより多くの集客の確保が見込める。第2には1年を通じて戦うには戦力不足の球団でも短期決戦なら優勝できるチャンスが生まれる。2シーズン制の方が球団にもファンにも利点が多いと力説した。この意見に議長である近鉄・佐伯勇オーナーも同調した。佐伯オーナーは当初は1シーズン制を支持していたが、昨季に近鉄が後期優勝した事で、なるほど2シーズン制も悪くないと立場を変え、そこに岡野パ・リーグ会長の賛同が加わり協議の結果1シーズン制復活は消えた。

かくして今季も前・後期の日程が組まれたわけだがフタを開けてみたらオーナー達の思惑とはかけ離れた状況になってしまったわけで何とも皮肉な結果に。そうした中で阪急だけは胸を張る。「1シーズン制の復活?結構なことじゃないか。2シーズン制の方が弱いチームが優勝できる可能性が有るという考えは甘い。ウチは力で押して前期も後期も勝って勝って勝ちまくる。それで再び1シーズン制に戻そうという動きになるのはウチにとって願ったり叶ったりだよ。元々ウチは1シーズン制支持だからね。今季の目標は前後期ともに優勝して、ややこしいプレーオフを無くすことだね」と阪急フロント幹部は言う。何が起ころうと今季の阪急電車は超特急でノンストップだ!



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# 609 胸番号ユニフォーム

2019年11月13日 | 1976 年 



まさに前代未聞というべき珍しいユニフォームが登場した。なにしろチーム名がどこにも書いていないのだから珍奇というかニューモードというか、太平洋クラブライオンズのユニフォームがそれ。消えたニックネームでさまざまな噂が巻き起こったのだが・・

ライオンズはライオンズだろうな?
「なんな、あのユニフォームは?」福岡の繁華街で寿司店を経営するAさんは長崎に転勤して久しぶりに地元に帰って来た友人と平和台球場を訪れた際に聞かれ「どう答えてよいのか分からんとですよ」と苦笑いした。地元の新聞に今季からライオンズのユニフォームが変更されると報じられたが「西鉄が球団経営から撤退したニュースと比べたら大した事じゃない(Aさん)」とAさん同様に気にするファンは多くなかった。だが実際のユニフォームを目にしたファンは度肝を抜かれた。友人は「なんかまた身売りされたみたいじゃ。ライオンズはライオンズのままだろうな?」と呟いた。つい親会社がまた変わったと錯覚するくらい意表を突いたユニフォームなのだ。

ユニフォーム変更を発表した会見で中村長芳オーナーは「アメリカンフットボールからヒントを得た」「常に新しいものを追い求めるのがニューライオンズの基本姿勢。カープの赤ヘルだって最初はマスコミの皆さんはやれチンドン屋だとか少年野球だと言っていたじゃないですか。それがどうですか今では赤ヘル、赤ヘルと連呼している。ウチはその上を行っているんです」と胸を張った。しかし世間ではこの奇抜なユニフォームが登場して以来、まことしやかに身売り話が再燃している。ユニフォームに企業名が無いからいつどこに身売りしても支障はない。そんな話が週刊誌を賑わせたのも一度や二度ではない。

そんな噂を球団は一笑する。「TAIHEIYO CLUB LIONS なんて長文字を胸に付けていたら投手は重くてしょうがないでしょう(笑)」は冗談だろうが「今はテレビ全盛の時代。後楽園球場の人工芝だってテレビの見栄えを考えている筈。グラウンドは舞台です。その舞台に立つ選手を目立たす為に今回のデザインを採用しました(球団職員)」は正論である。思えば太平洋クラブになって以降、球団は世間をアッと言わせる策を打ってきた。ビュフォード選手と金田監督(ロッテ)が殴り合うシーンを印刷したポスターを電車内や街中に貼って博多っ子を煽ったりした。また生きた猛獣のライオンをマスコットに採用にしたり、あの手この手の話題作りを行なった。今回のユニフォームもファンサービスの一環だと球団は言う。

それにしてもどう考えてもチーム名のないユニフォームは異常だ。野球協約第322条(制式の表職)には
『ホームゲームに用うるユニフォームの胸章には当該倶楽部のニックネーム又はチームを表象する図形を取り付け、ロードゲームに用うるユニフォームにはそのチームが属する倶楽部の経営本拠地としてこの協約に承認せられる都市の名称を取り付けることを制式とする』と記されている。胸の大きな数字は拡大解釈すれば図形と言えなくもないが各選手の番号は異なるから統一された図形とは異なり協約に反しているとの意見もある。球団側は「もしも協約に違反していたら連盟が許可するわけがないじゃないですか」と言うが、ビジター用のユニフォームにはFUKUOKAと記されており話はややこしくなる。

ウチは球団を経営しているんじゃない
東京にある太平洋クラブの本社内では「ウチは球団を経営しているわけではない」と公然と語られている。あくまでも名前を貸しているだけだと。昭和47年9月21日のオーナー会議は重苦しい空気が漂っていた。西鉄が球団を手放す意向を表明したのだ。球界あげて引き受け手を探したが、折悪く当時はいわゆる黒い霧事件で揺れていた時期で球団を持ちたいという企業はなかなか現れなかった。ペプシ、パイオニア…密かに折衝が試みられたが断られ続けた。追い詰められた球界首脳は当時ゴルフ界で注目され始めた太平洋クラブに「この危機を救って欲しい。スポンサーになってくれ、頼む」と頭を下げた。

太平洋クラブは国民に健全なレジャーをという旗印を掲げ、岸元総理大臣らが発起人となり発足した総合レジャー企業。当時は賞金総額1億円の「第1回太平洋マスターズゴルフ」が話題となっていた日の出の勢いそのものの企業で、事業計画は日本全国に700ホールズのゴルフ場を造り、他にもスキー場・乗馬場・マリーナ・テニスコート・キャンピング場などを国内にとどまらず東南アジアへの進出も視野に入れた壮大なものだった。当時の内情を知る人物によると「太平洋クラブが球団を経営するのではない。経営は中村オーナー。経費は太平洋クラブから出るがユニフォームに名前を出す広告料で、あくまでもスポンサーであるという合意があった」と。

西鉄ライオンズ最後の年の観客動員数は僅か32万人。それが太平洋クラブライオンズの初年度は倍以上の87万人を動員した。前述した車内ポスターや本物のライオンを使った話題作りが功を奏したのだ。だが球界関係者によると太平洋クラブとの契約期間は3年が一応の目安で、その3年が終わる最後の話題作りが大リーグドジャースの監督を務めたドローチャー氏の監督招聘だった。名物監督で年間予約席を売ろうとする目論見はドローチャー氏の病で崩れてしまった。太平洋クラブとの契約が切れスポンサーがいなくなる。この際だからひとつ人目を引く策で世間をアッと言わせてやろうと考えたのが今回の奇抜なユニフォームだったのではないか。


江藤前監督に一番拍手が多かった
実はドローチャー氏の監督招聘の余波で前年にトレードで獲得した江藤選手(兼プレーイングマネジャー)を僅か1年で放出してしまった事に博多っ子は反発した。ロッテ移籍後に平和台球場で出場した時は誰よりも多く博多っ子の声援を浴びた。確かなのは太平洋クラブライオンズが地元福岡市民の心から離れつつあるという事だ。この3年間、大向こうの喝采を狙う余り地元意識が薄くなった。名古屋や広島のように " おらがチーム " 意識が必要なのに太平洋クラブはその逆のチーム作りを進めた。ファンは敏感である。「今の球団が何とか面白くしようと努力しているのは分かる。でも話題は作るがチームや選手に親しみが湧かない。その辺に気がついてもらわんと」と昔からライオンズを応援してきた博多のファンは言う。

中村オーナーや青木一三球団代表は共に機を見るに敏な人物であるだけに球団が正念場に立たされていると分かっている。「これからの時代はチーム名が書かれていなくてもユニフォームを見ただけでチームが分かるようになるのが理想。それが時代の欲求なんです」と話す青木代表の言葉は取りようによっては意味深だ。地元九州の財界は今のライオンズを相手にしてくれない。かつては九州電力の社長が先頭に立って後援会会長を買って出たり、会員には大手企業役員や九州大学学長らも名を連ねていた。市民みんなでライオンズを盛り上げようという有形無形の力となっていたが、それが今では有名無実化してしまっている。

銀行筋によると現在のゴルフ場経営は厳しい時期にあり、事業は慎重に進められているという。その大事な時期に球団に対して資金提供をしているのならわざわざチーム名をユニフォームから消してPR効果を無くす行為をスポンサーがする訳がない。とすると今回のユニフォーム変更は球団が太平洋クラブ側から距離を置き、独自の歩みを始めた第一歩なのではないかという考えを多くの球界関係者が持っている。ライオンズはどの球団よりも激しい歴史を歩んで来た。今また新たな噂話の嵐の中で真面目で地味な鬼頭監督の舵取りの下で苦難のスタートを切った。例え前例のない珍奇なユニフォームを纏っていようが良い試合、素晴らしいプレーを続ければファンは付いてきてくれるに違いない。



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# 608 広島市民球場乱闘事件 ➋

2019年11月06日 | 1976 年 



新聞の事実とはこうも曲げられるのだろうか?4月16日の広島対巨人戦での乱闘劇は巨人系列以外の新聞を見た読者は巨人軍に怒りと悪感を抱いただろうし、読売新聞や報知新聞を見た読者は巨人選手に対する暴力に憤慨したであろう。それほど新聞によって報道内容は変わってくる。今回の乱闘は被害者と加害者がそっくり入れ替わる二つの報道があったのである。


選手かファンか
事件翌日の朝日新聞の見出しは『巨人軍選手がファンをバットで殴る』・・送迎用バスのステップに足を掛けた選手に近づいたファンがその選手に腹をスパイクで蹴られたうえ、バットで頭を殴られた・・とハッキリと加害者は選手と断定している。その根拠は朝日新聞の憶測ではなく広島西署の調書に基づいている。ところが読売新聞の見出しは・・『土井が本塁突入するも憤死の非情判定』と試合経過のみで騒動には触れていない。夕刊では初めて事件に触れたものの『広島球団が騒動で陳謝』と謳ってあくまでも騒動の非はファン側にあるとの立場であった。読売新聞がそうなら報知新聞は更に踏み込んで『巨人ナインが乗ったバスが暴動で動けず立ち往生』と被害者の立場を強調した。

文中ではこう書かれている。
『三塁側ベンチの上から飛び降りたファンが素振り用の鉄棒を手にして選手に近づこうとしたが警備員に阻止されて事なきを得た。すると今度は一塁側スタンドからファン数人が飛び降りて長嶋監督に突進して殴り掛かった。それを張本選手が身を挺して防いだが、その揉み合いの最中に張本選手が手にしていたバットがファンを突く不幸が起きてしまった』と不可抗力の怪我だったとしている。読売・報知以外の新聞は全紙が暴行の主語は巨人である。事実を報道する筈の新聞をどう信じればよいのか分からない。だが報道の信憑性を多数決で判断するのは適切ではないだけに難しい。

誰が殴った?
朝日新聞に選手の個人名はない。もちろん読売新聞にも。だが地元紙の中国新聞にはこう書いてある。『広島西署は17日早朝、張本選手の他、長嶋監督らにも出頭を求め取り調べる予定と発表』と。日刊スポーツには『球場のファンが注視する中で張本、柴田、原田ら複数の選手が暴行』、スポニチは『張本、原田、黒江コーチらが一団となってファンを殴った。~中略~バットで応戦する張本。杉下・鈴木コーチ、原田らも加勢して大乱闘となった』、サンスポは『広島ファンに野次られた張本が手にしたバットで殴りつけた』、そして東京中日スポーツには張本・原田・柴田の名前が。地方紙も含めると張本5紙・原田3紙・柴田2紙・各コーチ1紙が具体的な名前を書いている。

具体的な行動
報知新聞では『持っていたバットが突く恰好になってしまった』と萎らしく抑えた表現に終始しているが、日刊スポーツは 映画 " 仁義なき戦い " の舞台となった広島を意識して『一発、二発とパンチと蹴りがファンに命中。まるでヤクザの出入りと変わらない』と書いた。東京中日スポーツは『やにわに拳を振り下ろし足を蹴り上げた。プロレスラー顔負けの振る舞いでファンが地面に押し倒された』。またサンスポは『張本が鬼の形相で手にしたバットを振り回した』と。巨人側は「あくまでも自分を防御する為の行為である」と即座にこれらの報道を否定して火消しにやっきとなった。

ラジオ中継も困惑
巨人戦なのでラジオも全国中継されていた。テレビなら映像があるからアナウンサーが喋らなくても支障はない。だがラジオはそうはいかない。無言のままでは放送事故になってしまう。TBSラジオ『あっ、張本が殴りました。王も手を挙げ…巨人の選手が次々とファンを殴っています』。ところが隣の放送ブースのニッポン放送は『ファンがグラウンドへ乱入してきました。あぁ、長嶋監督に飛びかかりました』と選手の行動には触れなかった。ラジオ関東はアナウンサーは何故か喋らず解説者の有本義明氏が「巨人の選手がこんなことをしてはいけませんねぇ」と慨嘆口調。選手同士の乱闘なら見慣れてはいるが屈強なプロ野球選手がバットをかざしてファンを殴るとは絶対にあってはならない。例えアルコールが入り前後の見境ない相手だったとしても許される行為ではない。


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# 607 広島市民球場乱闘事件 ➊

2019年10月30日 | 1976 年 



4月16日、広島市民球場の乱闘事件は野球ファンだけでなく多くの人を驚かせた。選手がバットを振り回し、ファンとつかみ合った写真が新聞の社会面を賑わしたが不可解なのは怪我をしたファンも巨人軍の選手達もお互いに被害者と叫び合っていることだ。 " 傷害 " の真相はどうなのか?

張本がバットを振り上げ
4月16日、広島対巨人4回戦の9回表に事件は起きた。スコアは6対5で広島がリード、二塁に同点の走者を置いて代打・山本功選手が中前打を放ち二塁走者の土井選手は本塁へ突入し水沼捕手と激しく接触した。微妙なタイミングだったが柏木主審の判定は「アウト」で試合終了の筈だった。しかし巨人ベンチから長嶋監督以下、コーチ・選手らが飛び出して猛抗議。ここから球場内は混乱し始める。1人の広島ファンが抗議をしている長嶋監督らに飛びかかると、同調した約30人のファンがグラウンドに乱入した。ウェーティングサークルにある素振り用の鉄棒を手に持つファンもいた。巨人サイドもそれに応戦し鼻血を流すファンもいて大混乱となったが、主審のゲームセットの宣告で騒ぎは一旦は収まった。

宿舎へ引き上げる為にバスに乗り込もうとする巨人の選手達に激しい罵声を浴びせる約2000人のファンが取り囲んだ。ちょうどバスのステップに足を掛けていた張本選手の肩にファンの一人が手を伸ばした。反射的に張本はバットで応戦したが、それを見た長嶋監督は「構うな!バットを振っちゃいかん」と怒鳴った。この混乱で国松コーチや王選手や土井らは球場内のシャワー室で待機し、選手全員がバスに乗って出発したのは午後11時前だった。この騒ぎで谷村仁臣さん(30歳)が腹と額に重傷を負い広島市内の岡本外科に入院、寺島勝初さん(31歳)は左目下裂傷で4針を縫う怪我を負った。その後の経緯を追うと以下の通り。

4月17日・午前0時15分…張江巨人軍広報担当が広島西署を訪れて宿舎周辺の警備を要請する
  同 ・午前8時57分…広島・重松代表が広島西署に出向き前夜の経緯を陳謝して警備の強化を要請
  同 ・午前10時38分…張江氏が巨人軍宿舎・世羅別館で会見し『警察から任意での出頭要請あり』の一部報道に
            「聞いていない」と答える
  同 ・午後12時20分…張江氏が再び広島西署へ
  同 ・午後1時20分…張本選手が宿舎のロビーに現れ「私の方が被害者だ」と発言
  同 ・午後2時15分…佐伯球団常務、張江氏、長嶋監督が広島西署へ出向き事情を説明する。応対した広島西署の原田義秀署長は
            「二度とこの様な事が起こらないように努力して欲しい。長嶋監督に来て頂いたのは事情聴取ではない」と
            説明。19日までに張本選手の任意出頭を求め参考人として事情聴取をする方針であると発表した


被害者を主張する巨人
翌朝の新聞はこの事件を大きく報道したが、多くが加害者は張本としていた。怪我で入院した谷村さんによると「張本選手に突然バットで殴られた。意識を失いかけたが友人に支えられて倒れずにいた。そして今度は腹をバットで突かれた。相手は張本選手に間違いない」と主張した。一夜明けて精密検査をした結果は頭部の怪我は大したことなく済んだが腹部にはハッキリと打撲の痕が残り入院は続いた。しかし加害者であると言われた張本は真っ向から否定する。宿舎ロビーに午後1時過ぎに現れた張本は「昨日はバスに乗り込もうとした時に後ろから左肩と腰を強打された。痛み?いや今はそれほどでもない」と当初はのんびりムードで時折笑顔も見せた。

だが報道陣から警察から任意出頭を求められている、と聞かされるとさすがに顔色を変え「私の方が聞きたいくらいだよ。一部のファンがバスに近づいて来たのですぐに逃げようとした。そこを後ろから殴られた。私は絶対に手を出していない。私は加害者ではなく被害者です」と訴えた。しかし一人の記者が差し出した地元紙の『張本、ファンに暴行』の見出しを見て事の重大さに改めて気づいた。「おいおい勘弁してくれよ」と暫く絶句した後、「私は広島生まれですよ。確かに今は巨人の選手でカープの敵ですけどこれじゃ親の仇みたいじゃないですか。情けないですよ。一方的に襲われた私の方が被害届を出したいくらいです」と自分は被害者であると主張した。

その主張は球団側も同じである。「警察発表の中で張本君がファンを殴ったという話がありましたので広島西署の三山副署長にお会いして球団として正式に否定しました。逆に張本・槌田両君が怪我を負いました(広島市内の林外科医院の診断によると張本は全治5日、槌田は全治10日)。バスに乗り込む際に一部のファンと揉み合いとなり防御措置を取らざるを得ず、心ならずも結果的に怪我を負われた方が出てしまったのは誠に遺憾に思っております。私は張本君の後ろにいて現場を目撃していましたが張本君は決して意図的に暴力を振るってはいない。逆に張本君に殴り掛かる人物がいて鈴木コーチが止めに入った。それが真相です。私はそう警察に伝えました」と張江氏は話す。

これではどちらが被害者か加害者かは分からない。この間、巨人側は広島西署からの出頭要請に一貫して「我々は被害者。選手らは手を出していない。今日も試合があるから選手に支障があっては困る」と突っぱねていた。その為、張江氏に選手は同行せず佐伯常務と長嶋監督が張江氏と共に広島西署を訪れて原田署長から「今後二度とこのような不祥事を起こすことのないように」と警告されたにとどまった。自分達は被害者で非はファンにあるとする巨人側。しかし数多くの目撃者が巨人の選手が暴力を振るったと証言しているのを無視してよいのだろうか?実際に警察は10人の目撃者から調書を取っている。


張本・任意出頭に応じる
騒動となった翌17日の試合でも小さなトラブルがあった。4回裏の攻撃で広島・大下選手が空振りした際にバットがスッポ抜けて小林投手の目の前に転がった。バットを拾い上げた小林は大下に手渡すことなくホームベース付近に放り投げた。この行為に古葉監督がベンチから飛び出して小林に一言注意すると外野席から左翼の張本選手に向けて数本の空きビンが投げ込まれた。これを見た長嶋監督が選手全員をベンチに引き揚げさせ試合続行を拒否した。審判団による説得にも巨人側は頑なに拒否。事態を重く見た広島・重松代表が球場内のファンに対して警告した事で巨人側も折れて13分後に試合は再開された。

実は17日の試合前に長嶋監督は「もしも今日、例え練習中であろうとグラウンド内へ物が投げ込まれたら直ぐに選手を引き揚げさせる。ファンの皆さんがチームを応援する気持ちは理解できるが相手チームに対する妨害は許されない。野球に限らずスポーツとは選手と選手が自らの技と技術をぶつけ合い対戦相手を尊重する競技なんだ。選手に危険が及ぶ可能性が有れば試合を放棄してでも私は選手を守る」と話していた。結局、17日は小林投手が完封勝利。続く18日は加藤初投手がノーヒット・ノーランの快投を演じ巨人が2勝1敗と勝ち越したが、何かシラケたムードが漂う残念な3連戦となってしまった。

3連戦終了後の19日の早朝6時20分、張本は広島西署を訪れた。傷害の疑いでの任意出頭で現場近くにいた鈴木コーチ、槌田選手、末次選手も張江氏に伴われて出頭した。待ち構えていた30人程の報道陣から「暴力を否定していましたが今も変わりませんか?」と問われた張本は無言のまま署内に消えた。鈴木コーチらの事情聴取は午前中に終了しチームに合流して空路帰京したが張本の聴取は午後も続いた。聴取の焦点は殴ったか否かの事実確認とバスに乗り込む際にバットをケースに収めず剥き出しのまま手に持っていた理由だった。既に警察は目撃者やガードマンから当時の模様を克明に聴取している。その上での張本らの聴取であり、近日中にも事件の真相が明らかになりそうである。



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# 8 年俸 (金額は推定)

2009年03月27日 | 1976 年 
                       2009年 野手・投手別 年俸トップ10
             ① 金本 5億5千万     ① 岩瀬 4億3千万
             ② 松中 5億         ② 藤川 4億
                ラミレス 5億       ③ 岩隈 3億
             ④ 小笠原 3億8千万    ④ 石井一 2億8千万
             ⑤ 高橋由 3億5千万    ⑤ ダルビッシュ 2億7千万
             ⑥ ローズ 3億2千万    ⑥ 三浦 2億5千万
             ⑦ 小久保 3億        ⑦ 清水 2億4千万
             ⑧ 和田 2億8千万     ⑧ 和田 2億3千万
             ⑨ 阿部 2億7千万        杉内 2億3千万
             ⑩ 青木 2億6千万     ⑩ 豊田 2億1千万
                村田 2億6千万
       ※ラミレス・ローズは日本人扱い

当時の一流選手の目安は「1千万プレーヤー」 村田兆治、山田久志、堀内恒夫 等 各球団の
エース達も揃って1千万台でした。 ちなみにトップ5は
 ①王 5,700万  ②ジョンソン 3,900万 ③田淵 3,800万 ④野村 3,400万 ⑤張本 2,800万

南海・山内投手は3年前に20勝をあげた投手ですが、それでも年俸は300万。そして自身2度目の
20勝をあげたこの年の目標が1千万だと言っています。ロッテ・村田投手は21勝&2年連続で獲った
防御率1位の成績を引っ提げて契約更改に臨みましたが、1千万が50% UP の1千5百万の提示に渋々
サインしました。

チームは巨人を倒して日本一になった阪急のエース山田投手はMVP&26勝と大活躍でしたが
1千3百万を2千万にするのが目標だと実に控えめです。巨人・堀内投手は1千80万を維持して
「1千万プレーヤー」を守りたいとコメントしていたので、エースの働きが出来なかったのだろうと
思いましたが、実際は14勝6敗と今なら確実に増額する成績でした。

今回のWBCで活躍した岩隈投手の昨季1億1千万が今季は3億で1億9千万のUP額や
昨オフにFAで10億だ15億だと騒がれた横浜・三浦投手の年間キャリアハイが12勝だと
いう事に山田や村田はどう思っているのでしょうか、生まれて来るのが早過ぎました・・・。



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# 7 ドラフト ②

2009年03月25日 | 1976 年 
前回、触れた原を巡る騒動について時系列でまとめてみると
 ・11月15日 家族会議で大学進学を確認する 
 ・11月16日 父 貢氏の東海大学野球部監督就任を発表
         原、津末、村中の進学予定を発表 「プロ入りは100% 無い」
 ・11月19日 ドラフト会議で原は指名されず、ドラフト外獲得対象選手となる
 ・  同    ドラフト会議終了後、長嶋監督が「オーナーにお願いして交渉してもらう
         あれだけの選手を放っておく手はないでしょう」
 ・  同   正力オーナー 「長嶋君がもう喋っちゃったのかね、交渉しますよ
        自信は半々だが手は打ってある」 この「手は…」で騒動に火が点く
 ・ 同 夜  中尾スカウト部長が電話で交渉を申し込むが原側は断る
 ・11月21日 長嶋監督の親書が届けられたとする一報
 ・11月22日 巨人側が東海大総長・松前氏に近い人物A氏に仲介を依頼と報道
         A氏は自信満々に「2~3日後には巨人入りの結論がでるだろう」
         この発言で世間に巨人との密約説が出始め東海大学も批判の対象となる
 ・11月24日 松前総長自ら会見し「もしプロ入りしたら、あの会見は何だったということになる
         そんなことをしたら大問題になる」
         「プロ入りさせたいなら私を殺さなくちゃダメです」「天皇陛下が来てもダメです」

    この松前発言で原騒動はあっけなく終息へと向かったが巨人側は未練タラタラ・・

この後に書かれている記事は今の週刊ベースボールでは考えられない裏付けの無いもので
まるで日刊ゲンダイを読んでいるようです。「~らしい」 「~だろう」 「かもしれない」  等々…
推測・憶測・伝聞 ばかりです。確かなのは巨人はこれに懲りず「空白の1日」 「K・Kドラフト」に
やがて突き進んでいくということです。



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# 6 ドラフト

2009年03月22日 | 1976 年 
    この年のドラフト会議では71名が指名されました。

          12球団1位指名選手
  B 佐藤義則(日本大)     C 山崎隆造(崇徳高)
  H 武藤一邦(秋田商)     D 都裕次郎(堅田高)
  O 森繁和 (駒沢大)      T 益山性旭(帝京大)
  F 黒田真二(崇徳高)     S 酒井圭一(長崎海星)
  Bu 久保康生(柳川商)     W 斉藤明雄(大商大)
  L 立花義家(柳川商)     G 藤城和明(新日鉄)



 1位で指名したものの、南海・ロッテ・日ハムは入団を拒否されました。

その後の成績を見ると佐藤・斉藤はタイトルを獲得、久保・山崎も主力となり
他の選手も一応は一軍を経験したので、まぁ成功の部類には入るでしょう。

2位以下では中日・宇野、近鉄・山本カズ、ロッテ・仁科、日ハム・大宮
巨人・松本らが下位指名から主力選手に這い上がったと言えるでしょう。
指名されなかった原(東海大相模)を巡ってドラフト後にヒト騒動ありましたが…



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# 5 韓国プロ野球

2009年03月21日 | 1976 年 
今回のWBCでも日本のライバル 韓国代表の中心を成すプロ選手が誕生するまでには
紆余曲折があったようです。当初は1976年にプロ野球を開幕させる計画でしたが、実際は
1982年まで実現しませんでした。日本のプロ野球誕生は1935年ですから、50年遅れての
プロ化でした。遅れた要因の一つが兵役でした。韓国でも高校・大学・社会人野球が
存在しますが、兵役によって最盛期を過ぎた選手による社会人野球はレベルが低く人気は
ありませんでした。兵役がある以上 プロ化しても状況は同じであるとして気運は盛り上がらず
開始が遅れたうえ、始まっても予想通り低迷期が続きました。

しかし、その兵役を逆手にとって国際試合で好成績を収めれば免除するという制度によって
優秀な選手がプロ入りするようになり、韓国プロ野球の実力は徐々に上がり始め 今では
日本と互角 あるいはそれ以上の強豪国になりなした。五輪で野球が除外されて国際試合が
アマチュア中心の世界選手権とWBCくらいになってしまい兵役免除のチャンスが少なくなり
これまで以上に韓国選手は必死になってくるでしょうね。



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# 4 甲子園球児

2009年03月20日 | 1976 年 
高校時代の江川と松坂はどちらが上?と聞かれたら、凄みなら江川・力量なら松坂と答えます。
もし同時期に存在していたら松坂の方が上だと思います。江川の「凄み」とは打者との相対的な
力の差が圧倒的だったという事ですが当時の打撃練習は同じ高校生が投げる球を打つくらいで
ピッチングマシーン相手の練習で打撃技術が上達した頃だったら、A級の投手である事には違い
無いが"怪物"ではなかったと思います。

'70年代の高校生は甲子園出場校レベルでもプロとの力量差は大きく、高卒プロ入りしていきなり
一軍はもちろん、清原・松坂・マー君らのように主軸になる事は皆無でした。それは高校生自身も
自覚していたようでドラフトで指名されてもプロ入り拒否した選手が多数いました。

'76年のドラフトの目玉は投手は酒井(長崎海星)、打者は原(東海大相模)でしたが、全指名71人中
高校生は40人 そのうち13人が拒否しました。特に大洋は指名した6人のうち5人が高校生でしたが
4人に拒否されました。



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# 3 プロ野球人気・今昔

2009年03月18日 | 1976 年 
最近は視聴率低下やファン離れなど暗い話題が多いですが、30年ほど前は今では
考えられないくらいプロ野球人気は高かった(正確に言うと巨人人気)。 記事によると
この年にフジTVの"プロ野球ニュース"が始まり、パ・リーグの試合中継を望む声もあり
NHKを含め巨人戦以外を中継する局があったが視聴率は軒並み低く、民放はすぐに
撤退したそうです。民放の巨人戦は午後7:30~8:54 迄で延長は無く、途中で番組が
終わると苦情が殺到しました。当時はTVK(テレビ神奈川)などのU局がリレーナイターを
やっていて、視聴率はU局としては異例の15%を超えていました。

またチケットも入手は難しく前売り券を求めて銀座のプレイガイドに午前10時発売のために
出勤途中のサラリーマンが6時から行列を作っていました。「切符よこせデモ」が起きかねない
狂乱状態であると記事は結んでいます。



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# 2 選手とファンが殴り合い?

2009年03月16日 | 1976 年 
記事によると '76.4.16 広島-巨人 戦
広島1点リードの9回表 ランナー2塁で中前打、ホーム上でクロスプレー 判定は「アウト」
これに巨人側が猛抗議、ここまではよくあるシーンだったが、1人の広島ファンが乱入して
長嶋監督らに飛びかかった。それに続いて約30人程が乱入し暴徒化した。中には鉄棒を
振り回す輩もいたそうです。それに対し巨人の選手・コーチも応戦しグラウンド内は大混乱に陥り小競り合いで流血したファンもいた。事態はこれで収まらず選手らを待つバスを約2000人の
ファンが取り囲み選手は球場に足止めとなっていたが警護されながらバスに乗り込んだ。
ここで再び小競り合いが起き広島ファン2人が頭と腹に重傷を負った。乱闘は事件へと発展し
警察は巨人の選手・関係者を事情聴取した。



この事件は巨人選手は被害者だとする読売新聞と加害者だとする朝日新聞の代理戦争へと発展したそうです。

# 607 広島市民球場乱闘事件 参照


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# 1 お宝 or ゴミ?

2009年03月15日 | 1976 年 
        


納戸の中を整理していたら昔、せっせと買っていた週刊ベースボールが大量に

出てきました
   今は野球に興味が失せてしまったので、捨ててしまおうかと


思いましたが読み返していたら懐かしい写真・記事もあったので投稿してみようと


いうことになりました
  貧乏ヒマなしのサラリーマンですので毎日更新は無理ですが


少しずつでも投稿していきます
  著作権など権利関係は大丈夫かな?


全部を確認してませんが今のところ一番古いのは 1976年モノです
 


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