面白き 事も無き世を 面白く
住みなすものは 心なりけり

シンクロナイズドスイミング

2007年03月22日 | よもやま
見るたんびにワザがものすごいことになっていっているように思うのは気のせいか?

報道ステーションのスポーツコーナーでソロ演技を紹介していたが、かのデデューの演技なんて人間ワザとは思えない。
だいたい、鼻に何もつけなくても潜れる時点で常人を超えているのだから、総合得点が99点を超えても何ら不思議はない。
また、2位に入ったロシアの選手(誰だっけ…)も、素晴らしいテクニックを見せて98点を超える得点をあげたが、それでもデデューには及ばない。
確かに素人目に見ていても感じる差がある。
解説者(誰だっけ)が、デデューに比べると水の扱い方に粗いところがあると言っていたのが非常にしっくりきた。
ムダな水しぶきと見せる水しぶきがある、というのはなるほどぉ…と唸ってしまう。
改めてシンクロナイズドスイミングは芸術なのだ。

日本人選手(誰だったっけ…)が惜しくも4位になったが、体格的にハンディがある中を上々のできではないだろうか。
上位2人が人間離れしているのだから、実質3位4位が“人間世界”での1位2位だ。


落語番組考

2007年03月22日 | 落語
昨日、wowwowで「志の輔らくごの世界へようこそ」という番組をやっていた。
プログラムガイドに、「マルチアングルによるハイビジョン映像で…」とあったので嫌な予感がしていたが、見てみて見事に的中してしまった…

高座で熱演を繰り広げる志の輔。
カメラが縦横無尽に、様々な角度から志の輔をとらえる。
そして垂れ流される、落語に対する無理解の映像。
見るに耐えず、チャンネルを替えた。

落語は、演者の声と仕草によって高座のうえに物語の世界が構築され、観客はその世界に浸ることにより鑑賞を楽しむ芸術である。
その構築のために計算された仕草が、カメラのアングルがぐるぐる動くことで寸断され、物語という“空想の世界”に入る前に“現実の世界”に引き戻されてしまう。
本当の意味での「志の輔ワールド」が目の前に広がらない。
ある種雑談であるマクラのときはカメラアングルが動くのは構わない。
しかし、噺が始まれば、演者を真正面からとらえるカメラが一台あればそれでいい。
あとは観客たる視聴者が、落語の世界を自分の中に構築するのを待てばよい。

カメラアングルが動かないというのは、テレビ画面的には動きがないので、ある意味“つまらない”。
しかし、落語を楽しむための中継である。
カメラアングルが切り替わることによる“刺激”は邪魔でしかない。
演者が汗を流して熱演する様子を観賞するものではないのである。
“つまらない”アングルは、落語鑑賞に最適のカメラワークなのだ。

この番組を構成したスタッフに、少なくとも制作責任者に落語を愛する人間はいなかったのだろう。
そんな番組に付き合う無駄な時間は無い。
せっかくの「志の輔らくご」が楽しめず、ガックリ…

「お笑い鍋料理」(夢路いとし喜味こいし)

2007年03月22日 | 落語
落語ではないのであるが、同じ芸能ということでカテゴリー「落語」で記事を。

収集している演芸関係MDを整理していて、久しぶりにいとこいの漫才を聞いた。
最近の若手漫才コンビには無い、独特のリズム感。
練りに練られたネタと話術は安定感があり、安心して聞いていられる。

好きなネタの一つである「お笑い鍋料理」。
鍋の具についてこいしが説明するところで、いとしが鶏肉の「かしわ」が分からないとボケるくだりが大好きなネタ。
「生きてるうちがニワトリ!死んだら戒名がかしわ!」
日常生活でもよく引用させてもらうフレーズである。
(そんな日常会話は、もしかしておかしいのか!?)

古典芸能である落語のように、ネタとして残っていく漫才を、今の若手漫才コンビはいくら持っているだろう。
テレビの中で大量消費されていくネタを見るにつけ、テレビの功罪を思う…

最近は世捨て人のような風貌になって、時々テレビ番組に出ているこいし。
まだまだ喋りは達者。
もう10年くらいはやってほしかったコンビである。

合掌