面白き 事も無き世を 面白く
住みなすものは 心なりけり

GOSPEL AWARDS 2006 by紫亭京太郎

2006年09月18日 | music
森ノ宮ピロティホールで「GOSPEL AWARDS 2006」が開催された。
今年で4回目であるが、昨年から見に行っている。

シネマコミュニケーター仲間の二人が出演しているということもあるのだが、最近はゴスペルのライブ自体が楽しいから、ということもある。
二人の所属するクワイア(ゴスペルを歌うグループをこう呼ぶ)は、昨年フレッシャー部門に初出場して最優秀賞を獲った実力派チーム。
今年はその余勢をかって(?)エキスパート部門で出場していた。

フレッシャー部門17クワイア、エキスパート部門9クワイア、ゲストクワイアのライブも含めると5時間を超す長丁場。
それでも各クワイアの個性溢れるパフォーマンスで、今回もやっぱり楽しい♪
また構成としても後へいくほど実力チームが登場してくるので、どんどん引き込まれていく感じになる。

ゴスペルのラフェスティバルには特徴があって、今回のようにいろんなクワイアがたくさん出場すると曲がかぶる。
ゴスペルとして歌われている曲が結構限られていて、またみんな練習する曲もだいたい決まっているので、そのような状態になるのだが、各クワイアごとに個性が異なるので、同じ曲でも全く違うものに聞こえたりする。
パンフレットを見て初めて、「あ、さっきのクワイアと同じ曲歌ってたんや!」と気付くこともあるくらい。

さすがに自分のようなトーシロもよく知っているような有名曲だと、かぶるのが分るのだが、先のパフォーマンスと比較するのもまた面白い。
(クワイアの皆さんとしてはイヤやろなぁ)
今回は大好きな曲である「SEASONS OF LOVE」を2つのクワイアが歌っていたが、改めてソリストの力によって大きく左右される曲だと感じた。
また、一方のクワイアは日本語訳詞で歌い始めたのも面白かった。

いつも思うのだが、落語と同じだ。
それこそ物語の決まっている古典落語は、同じネタを何人もの演者が演じている。
それでも演者によって全く趣きが異なる。
同じギャグでも笑えない演者がいたり、同じ場面でも違う動きやセリフで全く別の演出になったりする。
ストーリーもオチもわかっていても、やっぱり面白い。
そして面白くない場合は、それは演者の力不足なのである。

ゴスペルライブのもう一つ楽しいところは、観客にもやむなく出演できなかったクワイア関係者を含めてゴスペルをやっている人達が多くいて、一緒になって歌ったりして、うまいクワイアの演奏になると会場が一体化し、楽しいオーラが充満することである。

これも落語の舞台とよく似ている。
自分が演じる噺の世界に観客が入ってきてくれ、面白さを共感できたとき、幸せのオーラが会場全体を包み込む。
そして演者は、オーラからエネルギーをもらえるのである。

たぶん、自分の中でベストなパフォーマンスが出せ、観客との一体感を感じたとき、舞台上のクワイア達は最高の幸福感を得ていることだろう。
ライブ会場でそれを感じたとき、また高座に上がりたいという思いがフツフツと湧きあがってくる。
来年に向けて、いっちょ動いてみるかな。

※本日はたけとら氏の許可を得て、紫亭京太郎が書きました

一矢報いて…

2006年09月18日 | 野球
憲伸、山本昌と、2日続けて零封されて迎えたナゴヤドーム最終戦。
今シーズン、ナゴヤで10戦全敗て、プロとして恥かしすぎる。
まあこんなことでは“連覇”を叫ぶことは、おこがましすぎると言うものだ。
さすがにディフェンディング・チャンピオンらしく(?)最後の最後にようやく一矢報いることはでき、息の根が止まりかけたチームも、かすかに呼吸音が聞こえてきた。

しかし今日の試合は、安藤の気迫と、それに応えたアニキの意地に尽きる。
試合後のインタビューで、安藤の投球を見ていて、これに応えなければ男じゃないと意気に感じ、しっかりとプレーにつなげたアニキの意地。

また、アニキのツーランの呼び水となった、シーツの“戦う姿勢”も評価したい。
顔面近くに来たボールにのけぞって四球を選んだシーツは、いつもの紳士的な姿勢が嘘のような怒りの表情を見せ、マウンドに突進するのではないかと思うほどの迫力で、投手の朝倉を罵りながら一塁へと向かった。
(声は聞こえなかったが多分罵ってるのだろう)
これに気圧されたか、外角にやや甘く入ったところをアニキがキッチリとらえて、レフトスタンドへと叩き込んだのである。

この3人の気迫を、他の選手はどう感じたのだろう。
今日も赤星は、セーフティバントの素振りはほとんど見られなかった…。

所用でここまでしかテレビ中継を見ていなかったのだが、最終回の藤川は、中日の5番打者森野に対して、頭付近へクソボールを投げ込んだとのこと。
いいことである。
当ててもいいから、インコースへ投げ込んでおかなければ、相手打者に対して威圧感を保てない。
この投球がすっぽ抜けではなく、矢野のリードならいいのだが。

矢野のリードは、とにかく外角低めへの要求が多い。
少なくとも、当ててもいいからインコースへどんどん攻めろ!というリードは見られない。
とくにピンチや弱気になったとき、チーム状況が悪くなったときほど、その傾向が強くなる。
また、ちょっとレベルの低い投手のときもそうだ。
打たれても一番害の無いコースであり、矢野の心理も理解できる。

しかしそれは、結局は「言い訳のリード」ではないか?
打たれてもいい当たりのでる確率が一番低い外角低めを要求していれば、そこをねらったのに甘く入ったボールを打たれたなら、それは投手の責任として認識されるのだから。
そんなことを考えてのリードとは思いたくないが、そういう風に取れるリードというのが不満である。
矢野は球界でも屈指の好捕手であるだけに、その点だけが物足りなく、残念である。

翻って、その「言い訳のリード」が、讀賣戦での井川のイ・スンヨプへの投球につながっている気がしてならない。
いつも判で押したように外角から真ん中よりの低めの球をすくい上げられて一発を食らっている。
イはかつてインコースの膝元がからっきし打てなかったが、日本に来て3年経ち、讀賣に来た今年はその弱点も克服している。
従って、インコースに甘い球を放れば、スタンドまで持っていかれる可能性は高い。
しかしイが怖いのは、この一発があるという点である。
ランナーで出しても怖くはない。
だったら、ぶつけてもいいからインコースの厳しいところを攻めたうえで、アウトコースへ投じることは、イ攻略の王道ではないか。
顔面のあたりに1、2球放ってのけぞらせておけば、アウトコースへの踏み込みが甘くなるというのは人間のサガである。
それが、インコースへの厳しい投球が来ないので、イはいつも思い切って踏み込んで外角球をしっかり弾き返すことができる。
一人の打者に年に5発もくらうなど、エースの投球ではない。

井川のコントロールミスも多いが、矢野にもっと内角をエグるリードがあれば、今期の讀賣に負け越すなどという恥辱的な展開には、ならなかったはず。
来年に向けての課題であり、この点を反面教師として、浅井には学んでもらいたいものである。
浅井はちゃんと勉強しているのだろうか。