面白き 事も無き世を 面白く
住みなすものは 心なりけり

「土佐日記」について

2006年09月03日 | 放浪記
さて、十数編に渡ってアップした「たけとら版土佐日記」であるが、せっかくなので本家「土佐日記」について少し触れる。
ご存知の方、または覚えておられる方が何人いらっしゃるかわからないが、本ブログの“連載”第1回は、この「土佐日記」をもじって記事にしており(正確には土佐日記+徒然草をパクッて書いている)、実は縁がある(…って勝手に縁を作り上げてるだけではないだろうか!?)

それはさておき、「土佐日記」は古典の授業で習い、日本史の授業でも史料として習う、日本国内においては歴史的に有名な日記文学の魁である。
土佐国司だった紀貫之が、任期を終えて土佐から京へ戻るまでの55日間の紀行を、女の作者を装ってひらがなで綴ったものである。
ちなみに、この時代は公式文書が漢文で書かれていることに倣い男性の日記は漢文で書くのが当たり前であった。
そのため、紀貫之に従った女性と言う設定で書かれている。
また、醍醐天皇の勅命により『古今和歌集』を選者の1人として編纂し、「三十六歌仙」の一人でもある紀貫之らしく、57首の和歌も含まれている。
本格的なひらがなによる表現は、その後の文学史上に大きく影響したといえるだろう。
ことに女流文学には多大なる影響を与え、「紫式部日記」「和泉式部日記」「蜻蛉日記「更級日記」などの日記や随筆が登場した。

紀貫之が任官していた土佐国司というのは、官位としては中国(山陽山陰地方やCHINAではなく国力に応じた昔の分類)の守であることから、正六位下に相当し、いわゆる殿上人ではなく、そう高い官位ではない。
帰京後8年ほど経ってから、従五位上まで昇進しているが、藤原氏全盛期にあって、官職に恵まれていたとは言えない。
紀氏という武内宿禰由来の古代からの名族ではあるが、朝廷における本流ではなかったことが影響しているのだろう。
しかしながら、文人としてその才能をいかん無く発揮し、特にこの「土佐日記」においては日記文学というジャンルを日本文学史上に切り開いた功績は、ヘタな政治的貢献を凌駕する輝かしいものである。

その他の詳細については、ネットで「土佐日記」で検索すれば様々なサイトが見つけ出せるのでそれらをご参照いただくことにして(結局大して触れてへんやんけ)、本記事にて「たけとら版土佐日記」全編終了とさせていただく。