青山潤三の世界・あや子版

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あや子版 テスト

2013-04-01 23:54:17 | 
総選挙「一票の格差」について 2010.1.12~14『青山潤三の世界・あや子版』からの再録

20年以上も前から、たまらなく不思議に思い続けていることがあります。そのうち誰かが言いだすだろうと、自分で発言することは控えていたのですが、いつまでたっても誰も言及する気配がありません。政治の話です。政治音痴の僕が言っても、誰ひとり耳に留めてはくれないでしょうが、、、。

“一票の格差”についてです。人口比率と議員定数の問題。人口の多い自治体(大都市圏)と少ない自治体(地方)で、議員定数が同じであったり、大幅な格差があったりする場合が少なからずある。その不公平を是正しよう、という動きです。これが僕には分からない。

“対面積比率”では、どうしてダメなのでしょうか?

僕の地元の兵庫県で言えば、人口過疎地域の丹波・丹後・淡路の一部は、阪神・播磨の人口集中地域に、僕と縁の深い鹿児島県なら、屋久種子や三島十島や奄美諸島は、県本土の各都市部に、それぞれ選挙区が編入されてしまっている。つい先日の新聞には、人口の少ない鳥取(60万人)島根(70万人余)両県を、併せて“定数1”の選挙区にしてしまおう、それでも同じ定数1の滋賀県や沖縄県より人口が少ないのだから、という意見が掲載されていました。

個々の選挙区における政治家の存在意義は、突き詰めて言えば、その選挙区に住む人間一人ひとりの要求(欲望と置き換えても良い)に、どれだけ多く応えられるか、ということなのだと思います。そのためには、「地域の人口と政治家の数の関係」が問題になってくるでしょう。

しかし、人間を育むのは、人と人の関係だけではない筈です。人の住む“空間”そのもの、それも人の生活とは直接関係のない、“ただの山野”(おおむね“自然環境”と置き換えても良いでしょう)の重大性を、忘れてはいないでしょうか?人間の思惑とは切り離して、人間の住む“空間”のあるべき姿を考えていくことが、究極的には、一人ひとりの生活の“向上”に還元される、それを司ることこそ、政治の使命ではないのか、と僕は考えるのです。

“人と自然環境との共存”といった言葉を、近頃よく耳にしますが、「政治=対人間」といった概念が、全ての人々の念頭にあるらしき現状では、すぐ目の前に見える自分たちにとっての利益だけを考えた、嘘っぽい掛け声としか、僕には感じられません。「人の少ない広い空間に、国政の財力・労力を注ぐのは、税金の無駄使いである」と。でも、本当に“無駄”なのでしょうか。物事全て、長い目で見れば、直接の成果や利益とは切り離した、(一見意味がなさそうに感じる)基本的な対応が重要になってくるはずです。

それ以前の問題として、過疎であることは、悪いことなのでしょうか?

話が少々逸れるかも知れませんが、「人間としての幸せは“家族”の存在を抜きに考えられない(“女性の使命は子供を産むことにある”といった話とも直結するでしょう)」とか、「引きこもりは良くない、もっと社会に順応しなくては」とか、、、、。本当にそうなのだろうか?と頭を捻ることが多すぎます。

「“障がい者”の“害”は、ネガティブな印象を与えかねないので、その漢字を使うのは自粛しよう」など、差別に対して病的なほど過敏・過剰に反応する日本の社会が、根本的な部分での差別意識に対しては、余りに鈍感であること、呆れるばかりなのです。形として現れた、意識に上る“差別”は、本当の意味での差別ではないと僕は思っています。形に現れざる、部外者(少数者)に対する“無意識的な排除意識”こそが、問題なのではないかと。

話を元に戻し、かつ100歩譲って、過疎の地に活気を取り戻そう、という意見に耳を傾けるとしましょう。ならば、広い面積に人口の少ない自治体にこそ、政治家の“数”と“労力”を注ぎこみ、様々な方向から考えを練り、その土地に適応した企画を導入し、独自の発展に結びつけていかねばならぬのではないでしょうか?

僕は自分自身が人間ですから、“人が大事”という概念を全面否定するつもりはありません。それならばこそ、“人と自然”の、眼前の利益とは切り離しての、根源的な次元での関係性(無意味であることの大切さにも繋がります)を、もっともっと真剣に見つめなおさねばならぬと思うのです。
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