青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

読者の皆様へのお願い~四川雅安地震被災地への援助

2013-04-29 22:40:36 | 
4月28-29日 援助協力者 0人 協力基金 0円  
累計   援助協力者 1人 協力基金 1万円
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日本はもう、お終いですね、、、、。

2013-04-29 20:16:28 | 
昨日今日と、ここのところ怒りっぱなしで、、、(笑)。

そろそろ「アメリカのテロとイスラム、北朝鮮、日中関係、頻発する日本各地の地震と再び起こった四川地震、、、、」に取り掛かろうと思っていたのですけれど、その前に憤慨やるかたないことが次々と起こって、、、それを書かない訳にはいきません。

実は来月(5月末か6月はじめ頃)から、「産経新聞」朝刊で連載(毎月曜3ヶ月間)を始めるのですが、、、ちょっとマズイかな?と、、、。

「産経新聞」とは、これまで一度も縁が無かったのです(かつて連載をしたことがあるのは「朝日新聞」「毎日新聞」「東京新聞」「神戸新聞」「南海日日新聞=奄美大島」「小笠原新聞」)。縁がなかった理由は、たまたま、ということも有りますが、右寄りの思想が、どうもしっくり来ない、それでもって(「読売新聞」ともども)積極的に近づかないでいたことも関与しているでしょう。

先日、「週刊G誌」のU記者と話した際に、産経新聞の中国関係の記事が、他の各メディアを圧倒する充実した内容だ、ということで意見が一致したのです。量的に多いというだけでなく、(中国に対しての姿勢の是否はさておき)本当に中国のことを知っている人でなければ書けない的確な指摘がなされているということ。ひとえに(矢板明夫氏ら)特派員諸氏の手腕なのだと思います。

それとは別に、20数年ぶりにお会いした論説委員のN氏や、先日はじめてお会いしたO氏が担当する科学面の記事も充実していることから、「産経も捨てたものではないな」という感想を持ち、最近になって産経新聞を読むようになったのです。

そのような流れの中で、今回N論説委員の仲介で科学紙面での短期連載を引き受けることになりました。3ヶ月間とは言え、毎週数万円の収入を得ることが出来るというのは、超貧乏な僕としては経済的に大変助かるというのが本音ではあります。

でも、“この話は断わるべきではないだろうか”と、、、、。

すでに原稿も送っていて、ドタキャンを実行すれば収入の道も閉ざされてしまいますし、現実にはそんなことは不可能なのですが、“道義的?”には、この新聞での連載など“やってはならないこと”なのではないか、という想いが、心の隅にあります。

産経新聞が“右寄り”のメディアである(ただし多くの日本の市民はそうは思ってないことでしょう)ことは、もともと承知していたわけですけれど、それにしても、ここ数日の紙面は余りにも異常であるような気がします。

4月26日、産経新聞が提示する日本の新憲法の雛形としての「国民の憲法」要綱を発表しました。12章117条からなるこの“新憲法”は、「天皇を元首」と明記し、「独立自存の道義国家」を目指し、「国旗・国歌」を規定、「国防のための軍」を保持する、等々、、、、。まあ、このように抜書きすれば、“なるほど”と思う気もしますが、実のところは「たとえ戦争をやってでも、国民の皆が一致団結し、自分たちの利益を守ろう」ということであり、先の戦争(日中事変→第2次大戦)前夜の状況と、まるっきり変わっていないのです。

一番怖いのは、多くの市民が、自分たちこそ「中道」だと思っていること。少数の意見は無視、多数(強者)が少数(弱者)を排除する(意識的に行うか否かの問題ではなく結果としてそのような方向性を確立してしまうこと)。実質的な多数(強者)による少数(弱者・異端者)の排除は、法に守られ、大衆の理解や支持を得られているだけで、根本的には新大久保のヘイトスピーチと何ら変わることがないと思います。

安倍首相の「アベノミクス」を持ち上げ、黒川総裁の「異次元金融」に期待する(早晩間違いなく崩壊します)
市民たちの頭の(心の)構造は、どうなっているのでしょうか?

「アベノミクス」は、金持ち、特権階級に対しての政策です。僕が言う“金持ち”“特権階級”というのは、一握りの人々を指しているのではありません。「権力からの無自覚な恩恵」を受けている、ほとんどの日本国民を指します。早い話、大半の日本の国民自体が“権力”そのもの(権力の作成者)なのです。

政府の言う「貧困層を減らし、国の繁栄を、、、」という言葉は聞こえが良いのですが、皆が金持ちになる(正直言って僕もなりたいけれど、、、笑)ことなど有り得ないでしょう。「貧困層を減らし」の“減らし”に問題があるわけで、取りこぼされた人々に対する配慮は毛頭考えていない。

そもそも、貧困であって何が悪いのでしょうか? 金持ちになることよりも、もっと大切なことがあるはずです(今の中国を見ていれば分かるでしょう、、、金持ち連中がいかに醜いかということが)。

実のところ、僕の知人のほとんどは「非自民」系の思想の持ち主だと言ってよさそうなので、そのことから考えれば、自民党が躍進し、アベノミクスが支持されることなど有り得ないように思えるのだけれど、エディターやクリエイターという人種は、「国民」全体からすれば、ごく一部の、異端的な存在なのですね。

僕は「国民」という言葉に(おそらくは無意識的に)拒否反応があるのです(だから、これも無意識的に「市民」という表現を多用しているようです)。ほとんどの国民は、自分たちの利益と安泰しか考えていない(そして問題なのは“そうとは認識していない”ということ)。

権力(その中には僕などの立場からすれば一般市民の多くも含まれます)の意向に従わねば、実質的な「国民」とはいえない。価値観の違う人々により、大多数の特権と安定が乱されることは、あってはならない。そういった生温い“風”を、お上が送り、人々もその“風”に乗ろうとする。メディアは扇風機みたいなものです。

“国民の総意”なんてのは、嘘っぱちだと思っています。「日本の国民の皆が、、、」と言ったって、大抵の場合、僕の意見とは異なるわけで、異なる意見の人は僕以外にも何人もいることでしょうから、それらの人々は「国民」中には数えられていないことになります。

安倍さんの目指す憲法96条の改正とは、一言で言えば「国を守るためには戦争をしても良いようにする」ということです。改正のためには国民の3分の2の賛成が必要、という規約を2分の1に変えようとしているわけです。国民の半分が改正に賛成しているのだから変えないほうがおかしい、と。

普通に考えてみてください。半分が賛成、ということは、半分が反対、ということです。過半数の支持者がいるのだから法案を通すべき、というのは、逆の立場からしても、やはり半分の支持者がいるわけで、そんなことは幼稚園児でも分かるはず。

「国家・国民は運命共同体」であり「人に人柄があるように国にも国柄がある」従って「わが国の特徴を(憲法に盛り込み)骨格に規定していく」などとも言っています。本来、国民たるものは、“国柄”に縛られるものではないはずです。様々な異なった思考や生活風習をもつ人々が集まって、漠然とした輪郭の“国柄”が形成されるものです。規定の中に“国民”を閉じ込めてしまうなど、余りにも馬鹿げています。それじゃヒットラーと同じじゃないですか。

(ちなみに、「我が国」という表現をするのは「右」、「この国」という表現をするのは「左」。前者は主観主導、後者は客観主導、ということになるのだと思います。)

上記した「96条改正のための賛成反対の比率が半々」というのは、反対44.7%と賛成42.1%で、正確には反対のほうが上回っているのです。そのため安倍さんは「まだ反対の人々がいるので慎重に改正を進めなくては」などと言っているようですが、何たる傲慢な態度であることか。一般市民の相当に多くの人々が、安倍首相や産経新聞のいう“国民の総意”に対して疑問も感じているわけで、だから強引に“風”を送ることにより、その芽をも摘んでしまおうと言うことなのでしょう(今の日本は中国とそっくりです)。

4月27日付けの一面見出しには、目を疑いました。「東大に巣くう軍事忌避」。これが、大メディアのする表現 でしょうか?「第2次大戦およびそれ以前の不幸な歴史に鑑み、一切の例外なく軍事研究を禁止する」姿勢を、明確に「害」であると。それもひとつの見解には違いありません。しかし、そうは考えていない国民(それらの人々は“国民”とは認知してもらえないのかも知れませんが)も、少なからずいることは事実なのです。

4月28日には、政府による「主権回復式典」が行われました。しかしこの日は、沖縄に於いては「屈辱の日」、奄美に於いては「痛恨の日」でもあります。朝日新聞の紙面では、「主権回復の日」としての安倍総理の式辞要旨と並列して、それに抵抗する「沖縄抗議大会決議」の要旨を、それぞれ客観的に紹介しています。まあ、朝日は“非国民(沖縄県民は国民とは勘定されていないわけですね)”の代表ですから、ますます多くの正しい“国民”に軽蔑されるわけです(僕にしても、朝日で仕事を打ち切られ、代わりに産経から仕事を貰っているわけで、、、心境は複雑です)。

一方、産経は、「主権回復の日」の意義を正しいとする前提のうえで、「沖縄の主権」も(潜在的に)回復した、という論調の評論を行っています。沖縄を“わが国”と認識しているのは、本土の人々だけのように思えるのですが、、、。中国の、チベットやウイグルへの対し方を、笑えないのではないかと。

今日4月29日の産経一面見出しは、「家族尊重で少子化克服」。もちろん悪いことではなく、それも大切だと思います。けれど、家族のいない独り者や、子供を持てない人々のことは、どう考えているのでしょうか? どうもこれらの標語の中には、「例外や異質を認めない」「強いもの勝ち」「皆が同じ思想の下に」といった志向の匂いを、色濃く感じるのです。

「アベノミクス」による恩恵は、多数派にのみ齎されるものです。よって皆こぞって多数派を目指す。そして、弱者、異端、無駄、例外、、、は、切り捨てられてしまう。

今の世の中(ことに日本)で大事なのは、すぐに答えを出すこと、便利なこと、効率的なこと、楽なこと、、、。本来の意味での多様性、異質な存在や無駄の大切さを忘れてしまっている。

もともと日本という国の特性(それこそ“国柄”ですね)は、“ホモ志向”であるということ。安定を良しとし、 変動を忌避する。内に収斂し、外への拡散を嫌がる。だから、欧米のカルチャーのような、無から何かを生む出す、という“ヘテロ志向”とは相容れない(出来上がったものを改良発展させるのは大得意ですが)。大きなリスクの伴う挑戦をやらないだけでなく、それを実践することは社会を乱す“悪”と見做されてしまう。

生物の進化と繁栄は、対極にあります。進化は、異端的・例外的・衰退的な集団からのみ成され、繫栄に浸りきった集団は、いずれ滅びるのです。

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Dick Clark interviews Johnny Tillotson

2013-04-29 14:34:25 | アメリカン・ポップスearly60’s


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